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菊地成孔の『山河ノスタルジア』評:中国人は踊る。火薬を爆発させる。哀切に乗せて。

2016年04月29日 17:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)Bandai Visual, Bitters End, Office Kitano

■カンヌのパルムドール候補


 ワタシはアカデミー、グラミー、トニー、カンヌ、の各授賞式、そしてUFCの中継、BET(BLACK ENTERTAINMENT TELEVISION)アワードの中継を見るためだけに各種ケーブルテレビと契約し、金をドブに捨てていると言われているアンチコスパの徒だと目されていますが、そうでもありません、これだけで充分元は取れています。中でもカンヌ映画祭2015の授賞式、特にパルムドール候補作品の一覧シーンはとても楽しみました。


 受賞こそフランス映画『Dheepan(aka Erran)』(邦題『ディーパンの闘い』)という作品で、「パリ市周縁の荒廃、特に移民の問題が絡んだ抗争劇」という重い素材を扱いながらも、フランス映画を明らかにネクストレヴェルに上げた傑作ですが、この作品も含む17作品全部ーーそれは「世界中の映画」ですーーが、各30秒ぐらいに編集され、流麗に紹介されて行くコーナーは、今でも見返したりするほどうっとりします。アカデミー賞には無い、欧州文化の粋というものでしょう。これぞセリーの美と言いましょうか。


 中でも、<白樺林の斜面での、高速の能のような、ミニマルな斬り合い>には一瞬で心をつかまれ、これ絶対観に行こう、日本でやらなかったらフランスまで観に行こう、アカデミーのノミニーと違って、カンヌのそれは、下手すると受賞しても日本で観れないことさえあるし、等と思っていたら、それはホウ・シャオシェンの『黒衣の刺客』で、つまり偶然にも当連載の初回対象になったので(参考:菊地成孔が読み解く、カンヌ監督賞受賞作『黒衣の刺客』の“アンチポップ”な魅力)、ちょっと得したな、と思っていたところ、今年は清く正しく映画批評を頑張っていることによる神からのご褒美か、今回、同様事が連続しました。


 そもそも、「一瞬で心をつかまれ、<絶対に観に行こう>、ダメならパリで」と思った作品が4つありました(既に東京で観ていて、大変に感動したトッド・ヘインズの『キャロル』は除いて)。


 そのうち、『黒衣の刺客』を拝見し、ガス・ヴァン・サントと、ナンニ・モレッティがまだ未見なので、つまり2作は観ています。その2作たるや、腹を抱えて笑い過ぎ、電柱で頭を打つぐらい、くっきりと明暗を分けまして、ひとつは、「バカなの今のイタリアって。いや70年代からずっとか」といった国辱的な発言をノーモーションで繰り出せるほど酷い、パオロ“こいつを「21世紀のフェリーニ」って言ってる奴、誰だ?気は確かか?”ソレンティーノの(生意気にも「8 1/2」をしっかり意識した)『Youth』(邦題『グランドフィナーレ』)(参考:菊地成孔の『知らない、ふたり』評:自他ともに認め「ない」が正解であろう、「日本のホン・サンス」の奇妙な意欲作)で、こんな紛いモン掴まされた上に、過度にシリアスで大掛かりなだけの、内容スカスカな主題歌がアカデミー賞の主題歌賞の候補になったので「アホなのかアメリカ人。イタリアの文化の真贋がわからんかやっぱ」と思っていたら、アカデミーの主題歌賞のオスカーはサム・スミスの佳曲「スペクター」にゴーズ・トゥーしたので一安心。

 と、今回もとんでもなくスリップが長く成ってしまいましたが(まだまだ話す事は山ほどあるんですが・笑・特にアカデミー賞の『キャロル』への冷遇と『ルーム』とエンリオ・モリコーネへの過大評価)、明暗分けた「明」のほう、なかでも最も「いやあ、ヤバいの来ちゃったんじゃないのカンヌ」と震撼に近い感覚を一瞬で与えてくれた作品が、本作『Mauntains may Depart』(邦題『山河ノスタルジア』)でした。


■いまどき敢えてのスタンダードサイズ(ほぼ正方形)なんて珍しくないとはいえ


 その紹介映像は「これは、中国の田舎で、おそらく90年代頃のディスコなのだろうな」ぐらいしか解らない、ハンディカムの荒れた画面に、ゴリゴリのエレクトロが爆音で流れ、日本で言うと黄金町ロックフェスティヴァルで踊っているホームレスのおっさん風とか、韓国のポンチャックで踊る、変な背広来た変な髪型のおっさんとか、当時の中国だったら、今の原宿ギャルぐらいに見えただろうな、な女子2人組とか、闇鍋のようなメンツが、各々変なダンスを熱狂的に踊りまくっている映像が、真っ四角な画面の中に写っていたのです。


 しかも、カットが変わると、ジャ・ジャンクー作品のミューズであるチャオ・タオ(友近みたいな感じの人)が両手をグルングルンに回しながらヘッドバンキングして踊っているところに、後ろから「なにコイツ、真の意味でファンキー」としか言い用が無い青年が近寄って来ると、何と!(ここホントに驚いた)何の打ち合わせも無く、ノータイムで背中合わせのステップを綺麗に踏んでから向かい合い(つまり、振り付けがある様な感じ)、日本の昔のディスコみたいなのでした。


 その画面から横溢するのは、猥雑さ、悪徳、その喜び、そしてとにかく、何はなくとも「踊る」という事への日常的なトランス。です。「何だコレ、ジャ・ジャンクーの新作? え? それとも中国から新人のヤバいのキタ?」とか言いながら、後から録画を何度もプレイバックして『Mountains may Depart』と書き写しまして、日本公開を待っていたのでした。


■『山河故人』(原題)


 ここでの「故人」は死んだ人の事ではなく、旧知の親友の事です。英題の『Mountains may Depart』の出典は旧約聖書でした(イザヤ書54章)。それは「山は移り、丘は動いても、わが悲しみはあなたから移る事は無い=時間は総てを解決すると言われる。でも時間によっても変わらない物もある」という意味です。これだけで、本作が「長い年月を描いた人生ドラマ」だという事が嫌が応にも迫ってくるようです。

 そして、最初に結論を書いてしまうと、本作『山河ノスタルジア』は10年前の『長江哀歌』という大ホームランによって、インターナショナルな中国人芸術家として、名監督の座を与えられるも、生かさず殺さず、常にダラダラ出演中といった感が拭い切れなかったジャ・ジャンクーの、10年ぶりの文句無し大ホームランなので、どなたにでも責任を持ってお勧め出来ます。


 昨今の日本人は、芸術作品に対して感情や情緒もSNSによってすっかり薄っぺらく成ってしまい、やたら涙腺が崩壊したり、やたら神が降臨したり、貶してるのか褒めてるのかだけが問題となる批評が当たり前の国になってしまいましたが、本作の様な心の動かされ方、というのは、懐かしい人には懐かしいし、新鮮な人にはかなり新鮮でしょう。終劇後の、魂が大地から掴まれている様な、NASAの宇宙船から自分が監視られている様な、お涙頂戴では決してない、奇妙で凄まじい感動は、やはり中国映画でしか得られない物かもしれません。


■とはいえ


 本作は「広大な山河が写りっぱなしの、野良仕事の服みたいなのを着た中国人が座り込んで黙っていたり、激しく泣いたりするだけの文芸感動作」などではありません。何せ、最後はSFっちゅうか、近未来の話にまでなるのよ!! 舞台はオーストラリアに移るし!! 透明なiPadとか、未来の学校が出て来るし、最初にワタシがフックされた「99年の中国のディスコのシーン」のヤバさはやはりハンパなかったし。何せ、過去、現在、未来でスクリーンサイズが変わるのです(過去は、1:1・33のスタンダードサイズ、現在は1:1・185のアメリカン・ヴィスタサイズ、未来は1:2・39のスコープサイズ)。ちょっと類例を見ない「大河ドラマ」の作法です。


■あらすじだけでも充分面白いとも言えるが


 2時間以上の大作、しかも掛け値なしのヒューマンドラマですが、ストーリーの要約は簡単です。


 1999年から2025年まで、主人公タオ(チャオ・タオ)の20代から50代までを描いた本作は、山西省のフェンヤンという、漢字変換ができないような街(ジャ・ジャンクーの故郷)の歌の上手な小学校教師で、炭鉱街でもあるフェンヤンの、炭鉱労働者であるリャンズー(リャン・ドンジン)と、炭鉱の持ち主であり、若き実業家であるジェンシェン(チャン・イー)という幼馴染2人と楽しく遊んでいますが、やがて三角関係になり、ジェンシェンと結婚して一男を授かります。ここまでが「過去」のパートであり、45分に及ぶアヴァンタイトルなのです。


 「現在」は2014年で、タオに選ばれず、別の女性と結婚したリャンズーは、河北省のハンダン(これまた変換せず)で、出世して炭鉱のチーフと成っており、しかし肺癌になってしまい、故郷のフェンヤンに治療費の工面のために帰郷します。そこでタオが離婚し、親権を取られて、まだフェンヤンに独身(と、愛犬)で住んでいる事、離婚の際の慰謝として授受したガソリンスタンドの事業と、実家の電気店が繁盛している事などにより、ちょっとした富裕層になっている事を知ります。リャンズーはタオから高額の工面をしてもらいますが、そこから一切映画には登場しません。そんな中、タオの父親が亡くなり、タオの子である8歳のダオラー(これは、金の亡者であるジェンシェンが米ドルをもじってつけた名です。近年やっと廃止された一人っ子政策により、兄弟姉妹はいません)が香港から葬儀のために単身やってきます。ダオラーは後妻に懐いており、半分英語で暮らす彼は後妻を「マミー」と呼んで、タオに「マミーなんて、赤ちゃんじゃあるまいし!」と叱られたりしながら二人で葬儀に行きます。ここまでが「現在」。


 「未来」は、2025年で、ジェンシェンはさらに離婚しており、ダオラーは、留学のためにオーストラリアのビクトリア州、南海岸のグレート・オーシャン・ロード近郊に住んでいます(有名なゴールドコーストは東海岸)。ジェンシェンは欲望、そして移民としての差別意識から被害妄想的に半発狂しており、銃やマシンガンを収集して、息子とは一切の交情がありません。そこには言葉の壁もあります。ジェンシェンは英語を覚えきれず、ダオラーは北京語を忘れてしまっています(未来の「グーグル翻訳」がCGで出てきますが、これはなかなかグッドデザインです)。


 この先、台湾映画界の、今や重鎮と呼んでも良い、女優/監督/プロデューサーである、あのシルヴィア・チャンが、「この歳(62)に成っても、恋する女性としての適役があるか」という感じで、何と、ダオラーの学校の中国語/中国史の教師(ミア)でありながら、まだハイティーンのダオラーと恋に落ち(ベッドインもします)、堂々たる美しさと名演技を見せますが、この二人がこの先どうなるかどうか、「とにかくあなたは実の母親に会いに行きなさい」とミアはダオラーに言い残し、ダオラーがグレート・オーシャン・ロード(そこはもう、開発による自然破壊によって、現在有名な「十二使徒の岩」は「七使徒」になっているのですが)で、初めて「タオ」と、自分の母親の本名を呼ぶと、雪の降る真冬のフェンヤン(言うまでもなく同日同時刻ゴールドコーストは真夏)で、二代目の犬と二人暮らしのタオの耳に、その声が、聴こえたような気がして、タオは日々の務めである麦穂餃子づくりの手を休め、犬とともに近所にある歴史的建造物であり、劇中、最初からずっと登場し続けていた「文峰塔」に向かって散歩に出る。


■中国人は踊る。火薬を爆発させる。胸がちぎれるほどの、静かな哀切に乗せて


 と、ここでワタシは、本作で一番重要なことを2つ押さえたままあらすじを書きました。それは、「一番重要」どころか、音楽で言えば、ストーリーや登場人物の方が伴奏であり、以下のことがメロディーであるかの如き重要性なのです。


 それは、中国人が、まるでアメリカ人のようによく踊る。という事、もう一つ、中国人は、何かと言うと、爆竹やダイナマイトや、日本の花火など比べ物にならないほどのマッシヴで危険な「花火」をやたらと爆発させる。という、知っている人にはよく知っている2点です。


 この一般的な事実を、ここまで象徴的/具体的に描いた映画はありません。世界各国のチャイナタウンで、旧正月に鳴らされる爆竹はうるさくてしょうがない。小さな国の、小さなエリアであんなモン鳴らしたら、法規制を受けかねません(因みに、横浜の中華街も、80年代には「旧正月の爆竹禁止」が条例化ぎりぎりまで行ったことがあります)、しかし、中国大陸の中で鳴らされる「火薬」の意味は、どれだけ派手な爆発があっても、山河に飲み込まれてしまう。大陸での火薬は、「一瞬と永遠」を、何度もなんども再確認するための装置なのです。ドッカーン!!も、パパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパンッ!!!!も、遠い山々に消えてゆき、硝煙だけが亡霊のように残る。


 「時間と忘却の天才」と呼ばれる、まだ46にしては老成した、というより「若年寄」にしか撮れない、一種のSF的な透徹した人生観は、欲望に目がくらんで狂って行くジェンシェンの、内的葛藤、その個人的な愚かさ(劇中、あらゆる爆発物を爆発させるのはジェンシェンです)と、前述の「中国における悠久の時間は、火薬の爆発という強烈なアクセントによってしか、分節できない」という、民族的/無意識的な構造を見事に重ね合わせています。


 そして、これはもう「ダンス映画」と言って良いほど、ダンスが重要な映画です。あらすじを書いてもネタバレにならない。火薬の話さえも。しかし、比較的長尺の本作で、僅か3回だけ出てくるダンスシーンの解説だけは、ご覧になった方、お一人お一人の解釈に委ねるのが批評的倫理というものでしょう。


 3回のダンスシーンは、全て意味が違い、世界で一番、日常的にダンスをしなくなってしまった、日本という国に住む我々には(今でも、沖縄とか、東北等では、酒でも入ったら踊りだす人々もいるでしょう。それでも、全然、日本人は、欧米人や南米人、他のアジアの国々人々と比べて、というより、世界で一番、「踊らない国民」なのですーーフェスとか、盆踊りとか、フラッシュモブとか、アイドル応援時のオタゲーとか、あるいは、ええじゃないか運動とか、制度化された集団ヒステリーではよく踊りますが、「制度化された集団ヒステリー」というのは疑義矛盾であるほどハードルが高く、つまり「祭り」ですよねーー)、ちょっと笑ってしまったり、唖然としたり、落涙を禁じえなかったりしますが、とにかくこれはフレッシュなまま劇場でご覧いただきたい。キューバ人が街角で踊っていても驚かない、欧米人がパーティーでみんな流暢に踊る、「なんか素敵だね」とか言って。


 しかし、踊りとは、あらゆる人間の、あらゆる耐え難いまでの喜びや悲しみを、祈りや遊びに似た形で、外側に放出する人類の叡智なのです。話の始まりである1999年には、6年前(1993年)のヒット曲、「ゴー・ウエスト」(ペットショップボーイズ)が中国全土のディスコで大ヒットしました。本作は、そのことのあけすけな描写から幕を開けます(カンヌでの上映中、ペットショップボーイズは公式ツィッターで、「私たちの曲が中国の著名監督、ジャ・ジャンクーの作品に使われています!」とエールを送りました)。この、もう、我々の規格を大きく超えたとしか言いようのないダンスシーンから、このドラマは、享楽の時代から反省と諦めの時代、そして悲しみと受け入れの時代へと進まざるを得ない個人の歴史、というものが、国家の歴史と切り結んでゆく、その因果を、決して高すぎない、中空の視点から淡々と、しかもエネルギッシュに描いてゆきます。


 最後に、本作の配給はビターズエンド、提供はバンダイビジュアルとビターズエンド、そして、配給にも提供にもオフィス北野が名を連ねています。意外に思う方もいるかもしれませんが、オフィス北野は、実はジャ・ジャンクー作品のほとんどに制作会社として関わっています。VGJ。「攻殻機動隊」の合衆国版では、スカーレット・ヨハンソン相手に主役級だそうで、殿、エゲレス語頑張ってください!(失礼、大変な余談でした)


 他にも語るべき点は山ほどあるのですが、本作の劇場トークショーのオファーを受けておりますので、ご興味あります方は是非、足をお運びください。(菊地成孔)