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プリンスがすべてだった 宇野維正による追悼文

2016年04月23日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

プリンス『パープル・レイン』

 フェイバリット・アーティストが死んだ。ワン・オブ・フェイバリットではない。自分にとってプリンスは永遠の、これまでもこれからも自分の人生における最愛のアーティストだ。21日未明に海外からの第一報をネットで目にした時、最初は悪戯好きな彼による何か新しい仕掛けなのかと思った。昔、突然プリンスと名前を捨ててシンボルマークになってしまった時のように。それを「かつてプリンスとして知られたアーティスト」と読ませた時のように。そもそも、近年のプリンスは作品のリリースだって、ライブの告知だって、サプライズじゃなかったことなんてないのだ。冗談にしては、今回はちょっとタチが悪すぎるけれど……。しかし、精神的パニックに陥らないようにそれから半日以上すべての情報を絶って、そのあとから恐る恐る国内外のテレビやラジオに触れてみたところ、エンパイア・ステート・ビルが、ナイアガラの滝が、エッフェル塔が、グーグル社のロゴが、すべて紫色に染まっていた。ラジオでは一般的な代表曲だけでも何十曲もある彼の曲が、代わる代わるオンエアされていた。どうやら本当にプリンスは死んでしまったようだ。なんてこった。


 プリンスは自分にとって、いや、自分とざっくり同世代の30代後半から50代前半くらいまでの世界中の音楽ファンやミュージシャンにとって、同時代を生きているスーパースターの一人というだけではなかった。リトル・リチャードも、サム・クックも、ジミ・ヘンドリックスも、ジェームス・ブラウンも、スライ&ザ・ファミリー・ストーンも、ファンカデリック/パーラメントも、ジョニ・ミッチェルも、カルロス・サンタナも、ステイプル・シンガーズも、あのマイルス・デイヴィスでさえも、すべてプリンスの音楽が入り口となって自分は初めて触れることになった。デジタル・ファンクという方法論も(『1999』)、ロック・オペラの楽しさも(『パープル・レイン』)、サイケデリックという概念も(『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』)も、ファンク・ミュージックの悦楽も(『パレード』)、すべてプリンスが教えてくれた。彼は我々世代にとってかけがえのない、音楽の深遠なる世界への導き手だった。ディアンジェロでもダフト・パンクでもファレルでも誰でもいい。この世代に豊富な音楽的素養と何よりもジャンルを逸脱するリベラルで革新的な発想を持ったミュージシャンが多いのは、みんな「プリンス育ち」だからだ。


 彼の音楽にはどんなにポップで親しみやすい楽曲にも魔法が仕掛けられていた。例えば彼の(繰り返すが)何十曲もある代表曲の一つ、プリンスの曲で「セクシー・MF(マザー・ファッカー)」と並んで最もバカみたいなタイトルを持つ「レッツ・ゴー・クレイジー」。リリース当時中2だった自分は「レッツゴー!」とか「クレイジー!」とか一緒に叫んで闇雲に盛り上がるだけだったが、今ならこの曲の魔法を少しは解き明かすことができる。


 イントロのオルガンの調べにのった「親愛なる者よ。今日、我々がここに集ったのは、この現世の“人生”というやつをなんとか乗り切るためだ」と始まるプリンスによる語りは、ゴスペル・ミュージックにおけるプレイズリーダーの役割そのもの。そこにニューウェーヴ風の単調なダンスビートがのっかって「もし人生のエレベーターがお前を下の階に運ぼうとするなら、クレイジーになっちまえよ! 拳を上げて最上階までぶち上がっていこうぜ!」という掛け声とともになだれ込んでいく曲の中核部は、形式的にはオールドスクールなパーティー・ロックンロールではあるが、そのメンタリティは当時のアメリカにおける類型的なパンクロックのイメージだ(当時海外の音楽メディアはプリンスを「パンク」や「ニューウェーヴ」の文脈で語ることが多かった)。やがてその曲はジミ・ヘンドリックス直系の粘っこいギターソロによってクライマックスを迎え、フィナーレは70年代的な大仰なハードロックやプログレのように終わる。つまり、プリンスはたった4分余りの曲で、ゴスペル、ニューウェーヴ、パンク、ロックンロール、ハードロック、プログレと時代を進んだり逆行したりしながら、完璧なポップミュージックとしてのフォーマットを一切崩すことなく、とんでもない音楽的体力&音楽的推進力でもってひたすら突っ走っていくのだ。こんなもん、中2で聴いたら人生狂うわ。


 初めて生でプリンスのパフォーマンスを見たのは1986年9月9日、横浜スタジアムでの初来日公演だった。当時高1だった自分は、30.000人以上のオーディエンスの中でほぼ最年少だった。大人になって音楽業界に入ってから、この時(大阪城ホール2日、横浜スタジアム2日の計4日間)のライブを見た何人もの人に出会うことになったが、その中で「あれが人生最高のライブ体験だった」と言わなかった人にはこれまで会ったことがない。国内外問わず音楽業界には「あの日のシュガー・ベイブを見た人はみんな音楽業界に入った」だとか「あの日のセックス・ピストルズを見た人はみんなミュージシャンになった」だとか、そんなライブハウス神話みたいなものがいくつかあるが、あの時のプリンスのパフォーマンスは、それと同じようなことを初めて訪れたアジアのスタジアム公演の規模で成し遂げてしまうほど神がかっていた。


 スタジアムのアリーナ席には数席ごとに紫色のタンバリンが置かれていて(それはプリンスからのプレゼントで、家に持ち帰っていいものだったらしいが、多くの人がそれとはわからずライブの後に席に残していった。その頃の日本人はまだとても遠慮深かったのである)、同じく数席ごとに白と黒の風船がくくりつけられていた。シーラ・Eのオープニングアクトが終わり、スタジアムが9月の夜の闇に包まれて、1曲目の「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」の笛の音が鳴り響く中、「ンギャオオウッ!!!」という雄叫びとともにステージにプリンスが現れた瞬間、自分、失神した。そう、ビートルズやマイケル・ジャクソンのライブ映像とかで女の子たちが集団ヒステリーみたいになってその場でバタバタ倒れちゃうやつ。「あぁ、ああいうのって本当にあるんだ」ってことが身をもってわかった。あるんですよ、本当に。


 当時はスタジアムの消防法の適用基準がまだユルかったし、なにしろその頃の音楽ファンの喫煙率は限りなく100%に近かったので、ラストの「パープル・レイン」の時には、数万のオーディエンスが掲げたライターの火でスタジアム全体が照らされて夢のような景色が広がっていた。そのままスタジアムごと宇宙に飛んでいくんじゃないかって本気で思えた。実際に、この日のライブのエモーショナルさはちょっと尋常じゃなかったのだ。アリーナ客席からの遠目でもウェンデイとリサが泣いているのがわかったし、最後のギターソロが終わるとプリンスは下を向いてギターの6弦を全部引きちぎると、自分は涙を見せまいとステージ袖に急いで駆け出していった。『パレード』のワールド・ツアー最終日であったこの日。その時点ではなんのアナウンスもなかったけれど、それはプリンス&ザ・レボリューションの解散ライブでもあった。それがわかったのは数年後のことだ。


 もちろん、その後もすべての来日公演を見てきたが、『ラブセクシー』や『ダイアンモンド・アンド・パールズ』のツアーを、東京ドームの劣悪な音響環境の中でステージから遠く離れた席で見ながら、いつの日からか熱狂的なファンとしての倒錯した夢を抱くようになった。「このままだんだんプリンスの人気が落ちぶれて、自分がすっかりオヤジになった頃に小さなライブハウスでプリンスが演奏するのをじっくりと堪能したいな」。


 しかし、思いがけないことに、その夢が実現する機会は意外なほど早く訪れた。2002年に『One Nite Alone...』のツアーで6度目の来日公演が発表された時、スケジュールを見て思わず目を疑った。日本各地の大型ホールに混じって、今はもうなくなってしまった「Zepp Sendai」の文字があったのだ。そもそも『One Nite Alone...』はプリンスの本国サイトの通販でしか買えないアルバムだった(その頃にはそれが常態化していた)。そんな変則的なリリース形態の作品のツアーということもあって会場規模縮小も無理のない状況ではあったけれど、それにしたってシークレットライブ以外でスタンディングのライブハウスでプリンスが見ることができるというのは奇跡だった。


 頬をつねりながらチケットを入手し、会社の有休をとって(なにしろ当時は邦楽誌の編集者だったので)、新幹線に乗って仙台に行った。会場には、年季の入った日本中のプリンス・ファンが遠征してきていた。そんな異常な熱気に包まれた会場で、さすがに「じっくりと堪能」とはいかなかった。ネックの突端が目の前1メートルまで迫ったプリンスのギターから「バンビ」のイントロが掻きむしられてからのライブ本編のことは、興奮しすぎてあまり覚えていない。だけど、何度目かのアンコールに応えて満面の笑みで袖から出てきて、ステージ前方端っこの椅子に腰掛けて最後にギター1本で歌ってくれた「ラスト・ディッセンバー」、そしてその時にみんなで一緒に歌ったライブハウス規模ならではの親密であたたかい大合唱は、マイ・ベスト・プリンス・モーメンツの一つだ。


 2002年の仙台で実現した奇跡的な日本でのライブハウス公演は、その後、本当に「奇跡」となってしまう。2004年、久々にちゃんと先行シングルをリリースし、ちゃんとそのプロモーションビデオも作り、ちゃんと一般のCD販売網でリリースされたアルバム『ミュージコロジー』で、プリンスはビルボードのトップ3に返り咲いた。それどころか、リリース後のツアーの膨大の収益によって、その年のアメリカの収入ランキンキングのミュージシャン部門でマドンナやメタリカをおさえてトップ1に君臨した。それは、(日本よりも先に)音楽産業の中心がCDからライブへとドラスティックに移行しつつあったアメリカの音楽業界を象徴するニュースとして世界中に発信された。


 先日、元スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンは、当時レーベルメイトだったデヴィッド・ボウイが90年代に音楽業界で受けていた冷遇について怒りの告発をしていた。「僕は覚えている。あれほどの伝説的な存在が、90年代にはレコード会社から目も当てられないほどぞんざいで無礼な扱いを受けていたんだ」。そうなのだ。当時の自分が「いつかプリンスの人気が落ちぶれたら」なんて妄想をしていたのも、90年代までは元ビートルズのメンバーやローリング・ストーンズでもない限り「どんなスーパースターでもいつか人気はおちぶれるもの」と誰もが思っていたのだ。というか、今では信じられないかもしれないけど、マイケル・ジャクソンだって90年代はひどい扱いだったし、あのビートルズだって90年代半ばのCD再発ブームがくるまでは危なかったんだぜ?


 そんな90年代を、プリンスは自身が副社長まで務めていたレコード会社からの「解放」、そして誰よりも早く自分だけの「聖域」(ウェブサイトでのCD販売、インディペンデント体制によるライブ興行、音源や動画のネット流出への厳格な措置)に引きこもることによって乗り切り、「CDの時代」から「ライブの時代」に入ったゼロ年代半ばにトップアーティスト、正真正銘のレジェンドアーティストとして華々しく大復活した。結局叶うことはなかったが、2009年にマイケル・ジャクソンが『THIS IS IT』ツアーに乗り出しそうとしていたのも、そんな盟友プリンスに刺激されてのことだった。


 2002年のあの時、最後に「ラスト・ディッセンバー」を一緒に歌って以来、プリンスは日本の地を踏んでいない。80年代後半から90年代にかけてあれだけ頻繁に来てくれていたのに、その後、来日公演が実現することはなかった。何度か実現に向けて動いているという噂を耳にすることはあったが、やはり2004年を境にプリンスのギャラの「桁」が海外と日本で変わってしまったことが最大の原因なのだろう。誰が悪いわけでもない。それは「ライブの時代」がもたらした弊害だ。


 でも、きっとまたいつかプリンスに会える日がくると思っていた。だって、プリンスはまだ57歳で、たまに「?」って作品もありはしたけれど、毎年アルバムを出していて、つい数日前までステージの上では往年のトップフォームを保ち続けていたじゃないか。自分にとってはまだ、「プリンスのいない世界」というのがどういうものなのかうまく想像できない。40代半ばで、こうしてプリンスの追悼文を書いていることにまったく現実味がない。


 初めて女の子とキスをした夜には舞い上がって「キッス」を聴き狂ったし、初めて風俗に遊びに行く時には自分を奮い立たせるためにウォークマンで「エロティック・シティ」を聴きながら歌舞伎町に足を踏み入れたし、渋谷陽一氏の会社に入ったのは氏がラジオでプリンスを最初に教えてくれたからだし、男の子の赤ちゃんを授かった時には「サイン・オブ・ザ・タイムス」の教えに従って寧人(もしくは寧斗)と名付けようとして周囲に全力で止められたし、西寺郷太くんに『プリンス論』を書かれたのが悔しくて、自分も初めて本(『1998年の宇多田ヒカル』)を書いて、今後も本を書き続けていく決意をしたんだった。自分にとってプリンスはすべてだ。これまでも、これからも。


 自分が死ぬ運命にある、その理由が見つかった?
 それとも、死への疑問を抱くことなく、この世に別れを告げるつもりなの?
 君の人生は思い通りのものだった?
 それとも、ずっと夢を見ているような感じだったのかな?
 最期に「神に赦された」と思うことができた?
                     (「ラスト・ディッセンバー」)


 ねぇ、プリンス。それを訊きたいのはこっちの方だよ。(宇野維正)