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Flower、三代目JSB、乃木坂46ら手掛ける作曲家・Hiroki Sagawaインタビュー “ヨナ抜き音階”の効果的な使い方とは?

2016年04月22日 14:01  リアルサウンド

リアルサウンド

Hiroki Sagawa(写真=下屋敷和文)

 音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、Flowerの代表曲といえる「白雪姫」や、乃木坂46の「命は美しい」のほか、塩ノ谷早耶香、東京女子流などの楽曲を手掛け、第54回日本レコード大賞 優秀作品賞を受賞した三代目J Soul Brothersの「花火」で作曲を務めたHiroki Sagawa from Asiatic Ochestra(以下、Sagawa)のインタビューを公開した。


 同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたインタビューの前編を掲載。前編では彼の音楽的原体験を紐解くとともに、楽曲の核にある“ヨナ抜き音階”の使い方やそのルーツに迫った。(中村拓海)


■「日本人なんだから、日本人ができる音楽をやらなきゃいけない」と言われていた


――まずはHiroki Sagawaさんが音楽と触れ合った原点から聞かせてください。


Hiroki Sagawa:母親がオルガン/キーボード奏者で、子どもの頃からイベントだったり、結婚式場だったりで演奏する姿を観てきたんです。そうすると、自分もやりたくなってきて。それで、母親に教えてもらいながらピアノを弾いていました。「いつから」という感覚はなく、気がつけば自然と音楽に触れていた、という感じです。ヘタクソでしたけどね(笑)。


――常に音楽がともにあったと。当時はどんな音楽を聴いていたのでしょうか。


Hiroki Sagawa:母親がユーミン(松任谷由実)が好きだったので、家でも車の中でも、常に流れていました。自分が初めて買ったCDも『春よ、来い』で、わりと今のスタイルに直結している気もしますね。ユーミンの曲の中でも特に「やべえ! 超いい曲じゃん!」と感動したのがこの曲で。お小遣いで買ったのをよく覚えています。


――なるほど。楽曲の世界観に通じる部分があり、すごく腑に落ちました。中学時代からバンドを組まれていたそうですね。


Hiroki Sagawa:当時はメロコアなど、バンド編成のものが中心でした。そのうちにオリジナルバンドをやるようになって、最初は独学だったのですが、センスだけでやるのではなく理論をちゃんと知りたいと思うようになって。それで16歳のときに、作曲家の野村茎一さんに師事して、作曲を学びました。同時に、リンキン・パークとかリンプ・ビズキットとか、わりとデジタル音とかミクスチャーっぽいものもカッコいいなと思うようになったんですけど、どう考えてもバンド編成だとその音が出ないんですよね。それでMacを買ってみたものの、アナログ人間でギターのエフェクターもよくわからないくらいだったから、何が何だかわからなくて(笑)。ただ、GarageBandでなんとなく曲を作ってみたら、それがすごく楽しかったんです。それで、自分でバンドをやるより、人に楽曲を提供したい、という思いが芽生えたんですよね。そうして代々木にある音楽の専門学校・パンスクールミュージックのDTM科に入って。そういう流れで、プロになろうと思うようになりました。


――少し細かく聞いていきたいのですが、野村茎一さんに師事したきっかけとは?


Hiroki Sagawa:ジャズピアノを習っていて、その先生に「バンドをやっていて、作曲もやってみたい」と話したら、野村先生を紹介してもらえて。専門学校時代も平行して教えてもらっていました。学校の方で理論と機材関係を学んで、わからないところがあれば野村先生に聞く、という感じでした。周りがみんな優秀で、僕はついていくのに必死だったんですよ。授業を数回欠席したら卒業できない、みたいな厳しい学校だったこともあって、当時は絶対卒業できないと思っていました(笑)。


――ユーミンからメロコアへ、というのは興味の大きな変化だと思いますが、いつごろから聴く作品の幅が広がったのでしょうか。


Hiroki Sagawa:小学生のときにはGLAYやL’Arc~en~Cielが好きになって、それで「オレもバンドがやりたい!」と思ったんです。そこから興味が広がって、中学1年生でX JAPAN、BOØWY、LUNA SEAをコピーしていました。B’zを聴いたり、Mr.Bigを聴いたり、あとはDragon Ashとか。そこからミクスチャーに入って、リンプ、リンキン、ヒップホップも聴いて……と。貪欲に深掘りして聴いていくのではなくて、出会った音楽を浅く聴いていました。


――さて、実際にプロの作曲家になろうという段階で、どんなことに取り組まれたのでしょう。


Hiroki Sagawa:パンスクール時代には、作曲家になって楽曲提供をしたい、と思っていました。それで、「楽曲提供するにはどうすればいいんですか」と先生に聞いたら「とりあえず、音楽事務所とかに応募してみたら?」と言われて。それで手当たり次第、30社くらいに曲を送ってみたんですけど、ことごとくダメだったんです。1社だけ連絡が来たものの、金髪で紫色のスーツの人に「経歴ないよね」なんて説教されただけでした。


――そこから実際に仕事になったのは?


Hiroki Sagawa:事務所に入って、メジャーの有名なアーティストと仕事をしたい……という思いもあったのですが、もう自分でやるしかない、と考えて、今度はインディーズのラッパー、シンガーの方にとにかく連絡を取るようにしました。ちょうどmixiやMySpaceなどのSNSが普及し始めたころだったので、そこで自分の曲をアップロードしたり、アーティストにメールをしたりして。そうすると、メッセージを返してくれる人がいて、曲を持って会いに行っていました。


――当時はどんな曲を送っていたのですか?


Hiroki Sagawa:いろいろですね。歌入りのバラードもあれば、ヒップホップのトラックもあったり。そういうものをすべてMyspaceに上げて、URLを送っていました。そうすると、インディーズのシンガーさんに歌ってもらう機会が少しずつ出てきて。そんななかで、とあるラッパーの紹介で、いまAsiatic Orchestraでコンビを組んでいるDJ MIBUROさんを紹介してもらったんです。そうしたら意見が合って、一緒にやってみようということになって。


――それがMIBUROさんとの出会いだったのですね。


Hiroki Sagawa:はい。MIBUROさんはもともと浦和でクラブを経営していて、そのお客さんにRAP CREATIVEのクリエイターマネジメント部Vanirの元社長(※現在は会長)がいたんですよ。そのつながりで、小田桐ゆうきさん、Carlos K.さんというクリエイターに出会って、「僕もやりたい!」とデモを送って、自分もようやく入れてもらいました。


――そこでデビューが決まったということですね。最初の作品はどんなものでしたか。


Hiroki Sagawa:メジャーとしては、ポニーキャニオンの佐藤史果さんにAsiatic Orchestra名義で提供した「泣いて笑って」ですね。


――メジャーに採用されて以降、曲を作る上で何か変化はありましたか?


Hiroki Sagawa:時代の変化も合って使う音源は変わっていきましたが、自分のなかのこだわり、スタイルというのは絶対にブレちゃいけない、と思ってやってきました。ペンタトニックを基盤にした、いわゆるヨナ(四七)抜き音階なんですけど、七は割と入ってくるスタイルなんです。先ほど言った「春よ、来い」がヨナ抜きなんですけど、この曲に初めて衝撃を受けたのが大きかったんでしょうね。僕の曲、ヨナ抜きで音飛びが激しくて、歌いづらいと思うんですよ(笑)。でも、責任をもっていい曲を作りたいと思うと、どうしてもああいう感じになってしまうんです。


――すごく日本人の心に響くイメージがあります。


Hiroki Sagawa:野村先生に「日本人なんだから、日本人ができる音楽をやらなきゃいけない」と言われていたんです。ジャズピアニスト・秋吉敏子さんの演奏を聴きながら、「ほら、日本人だからこそできるジャズだろう」と。その時は、言葉では分かってもきちんと理解できていなかったんですけど、ずっと頭の片隅にあって、段々と理解できてきて。その上で、僕は「Hiroki Sagawa」にしかできない音楽をやりたい、と考えて、突き詰めている部分があったりします。


――和のテイストの原点がユーミンということですが、最先端のミクスチャーも作っているなかで、今風のポップスの原点はどこにあるのでしょうか?


Hiroki Sagawa:インディーズのアーティストから得たものが大きいですね。例えばダンスミュージックひとつとっても、インディーズの人たちはいろんなアプローチをしていますから。いま、クロスオーバーできているのは、当時の経験があったからだと思います。結果オーライ、というか。メジャーなアーティストだと、Nujabesの影響は大きいと思います。<IN YA MELLOW TONE>シリーズなども、ジャジーヒップホップの要素があって。


――最初にSagawaさんの曲を聴いたとき、確かにNujabes的なイメージは感じました。


Hiroki Sagawa:そうなんですよね。より歌謡的な要素が強いのは、やっぱり子どものころに母親に聞かされていたユーミンの影響で。自分にしかできないことを追求するというのは、これまで培ってきたものに素直になることだと思うんです。自信を持って「こういう音楽をやっています」と言えるというか。


――どうやったらコンペに通るか、と悩んでいる若い作曲家も多いと思います。Sagawaさんは、どんなところを突破口にしてきたのでしょうか。


Hiroki Sagawa:僕はきっちりコンペの内容に合わせるのが本当に苦手なんです。例えば「明るい曲」という発注があっても、得意なのは切ない曲だから、どっちつかずのものになってしまって。一応明るいメロディを意識しても、内面にある好みが悲しいメロディで、「こっちの方がカッコいいでしょ」と思ってしまうんですよね。ただ、発注に合わせるよりも、自分がいいと思ったことをやり続ける、ブレないことが大事だと思うんです。それでコンペに落ちたとしても、中途半端なものを出すよりよっぽどいい。発注と真逆の内容でも、めちゃくちゃいい曲が作れるんだったら、別のところで使ってもらえる可能性もありますから。


Hiroki Sagawa:僕もいまだにブレそうになるときがあるんです。そういうときは一度休憩して、「自分がやりたいことは何なのか」と考える。依頼された内容になるべく沿うことはもちろん大事だけれど、作家の個性が入って初めていいものができると信じているから、個性は消しちゃいけないと思っています。ただ、これは本当に人それぞれで、「発注に完璧に応えるべきだ」という気持ちも、すごくよく分かります。


――幅広い作風で、いい曲を書く方もいますね。


Hiroki Sagawa:そうなんです。ただ僕のポリシーとして、例えば友だちが聴いたときに、なんとなく「あいつの曲だな」と分かるようにはしていきたいですね。


――仕事が重なって詰まっているときに、モチベーションをどう保つか、ということも伺いたいと思います。


Hiroki Sagawa:それは難しくて、僕自身もけっこう知りたいところですね(笑)。とにかく根性という部分もありますけど、時間がなくても息抜きに散歩をしたり、というのは心がけています。時間がないからといって詰め込んで続けているより、気分転換の時間を取った方が結果的に早かった、ということもあって。ただ、そのまま遊びに行っちゃいけない(笑)。気を抜きすぎず、フラッと出かけるくらいがいいんです。