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私たちは客席でどう「映り込む」べきなのか? 兵庫慎司がライブ現場から考える

2016年04月16日 16:01  リアルサウンド

リアルサウンド

画像はイメージです。

 佐野元春がデビュー35周年を記念して、2015年12月から2016年3月にかけて行ったアニバーサリー・ツアーのファイナル、3月26日・東京国際フォーラムA・2デイズの1日目を観に行った時のこと。ライブ自体は「ああ、日々これだけの本数のライブに行っていても、今日のことは絶対忘れないだろうなあ、俺」と、観ながら何度も思うような、もう本当にすばらしいとしか言いようのないものだったのだが(http://digaonline.jp/liverepo/3659にレポを書きました)、ここで書くのは、その内容についてではありません。


 会場のあちこちに、映像収録のカメラが入っていた。テレビで放映されるのか、映像作品になるのか、これを書いている時点では公式に発表されていないのでわからないが、普段そういう現場に慣れている身からしても「これ、相当がっちり撮るんだな」ということがわかるくらいの、力の入ったカメラの台数だった。で、僕の席は、1階のまんなかを横切る通路から2列目だったのだが、ライブの間中、その前を、ずーっとカメラマンが通っているのだ。


 あのほら、なんて言うんでしょう、カメラ手持ちでも映像がブレないように腕に装着する、撮影用のアームみたいなやつ。あれを装着したカメラマンが、カメラをREC状態にして、そーっとフロアの端から端まで往復し続けているわけです。3回に2回はステージの方へ、そして3回に1回は客席後方へレンズを向けている、くらいの割合。彼が撮っている画の感じ、どちらも想像できますよね。そういうライブ映像、観たことあるし。
 
 で、レンズがこっちを向いて通った1回目の時、なんとなくカメラを見てしまってから、「あ、しまった」と気づいた。客が真顔でカメラ目線だったら興ざめだな、そんな画、使えないよな、と。いや、使ってほしいわけではないが、どちらかというと映っていないほうがありがたいが、そんなこと言える立場ではないわけで、ならばせめて、撮影のじゃまになることは避けたい。しかも僕は、ライブレポを書くため、手帳を持ってメモをとりながら観ていた。それもイヤだろう、あとで編集する身だったら。そんな奴の画、入れたくないし。
 
 というわけで、その次から、カメラがある程度近寄ってきたところでレンズがこっちを向いているかステージを向いているかを見極め、こっちを向いている時は手帳を持つ手をヘソぐらいまで下げて映らないようにしつつ、決してカメラの方は観ない、目線はあくまでステージに、ということを心がけながら、残りの時間をすごしたのだった。ライブの尺が3時間半で、最初にカメラを見て「あ、しまった」と思ったのが始まって10分くらいだったから、2時間20分くらいはそうしていたことになる。


 バカか俺は。という話だが、大会場における重要なライブの場合、収録や、生中継や、ネット配信や、場合によっては全国の映画館でライブビューイングのため、カメラがたくさん入る、というケースが、数年前に比べてあきらかに増えていることは、日頃ライブに通うことが多い方ならご存知だろう。


 そしてその場合、どうやったって客席も映るわけで、であれば我々は、映された場合どうするか、どう映されるべきか、ということを意識せざるを得ないことになる。そんなの意識すんなよ、いつもどおり楽しんでいればいいんだよ、という声もあろうが、ライブレポートを書くために入場している方が圧倒的に多い僕のような立場だと、そうすっぱり開き直る気には、なかなかなれない。そんな立場なんだから悪目立ちしたくない。さっきも書いたように、できれば映らないにこしたことはないんだけど、「絶対映すんじゃねえぞ」なんてわけにもいかない。


 あと、僕の場合「はしゃいでいるところを見られるのが恥ずかしい」というのも大きい。大好きなアーティストのライブ映像作品が出たので買って観たら、客席でノリノリの自分の姿が映っていて、死にたくなった──と、知人の編集者にきいたことがある。幸い、僕にはそのような経験はないが、彼女の気持ちはすごくよくわかる。自分に同じことが起きたら……と想像すると、身悶えしたくなる。
 
 ただ、この「はしゃいでいるところを見られるのが恥ずかしい」という性格は、個人差だけでなく、世代もしくは時代によるところも大きいと思う。というのも、昨今のフェスの映像のお客さんを観ていると、「みんなはしゃいでるところを撮られるの、平気なんだなあ」という次元を超えて、「みんなはしゃいでるところを撮られるの、うまいなあ」と、つくづく思うからだ。


 みんな集まって、タオルとか掲げてイェーイ!とかやってる写真、フェスの公式サイトとかによくあるでしょ。ロッキング・オンの夏冬のフェスのサイトには、主にそれをアップする「AREA REPORT」というコーナーがあるほどだ。「あるほどだ」って、そのコーナーを2014年の暮まで作っていたのは、僕とTという後輩なのだが(Tは今でも作っている)、自分でお客さんの写真を撮る時も、Tが撮ってきた写真をセレクトする時も、「みんないい顔してるなあ」というのももちろんあるが、「みんないい顔で撮られるのうまいなあ」とも、よく思ったものです。


 それ以上に「撮られるのうまいなあ」と思うのが、サマーソニックのお客さん、そしてさらにそれ以上にうまいのが、EDMとかのダンス系野外フェスのお客さんだ。特に女子。カメラに笑顔でちょっと手を振ったり(「ちょっと」なのが重要)、ニコッとウインクしてみせたり。雑な言葉を使ってしまうと、「リア充」度の高そうなお客さんであればあるほど、そのような「欧米か!」みたいな素敵なリアクションを自然に返せる傾向にある、と言える。「今この場なら、このように撮られるのがふさわしい」ということをちゃんとわかっていて、それを実行する際によけいな照れがない。夜、新橋の駅前でマイクを向けられるほろ酔いのサラリーマンが、みんな判で押したように「あるべき受け答え」をしているのをテレビで観る感じに近い、というか。


 しまった、その例を出したらちょっと悪口っぽくなってしまった。いや、違います。その新橋の例から、こちらの視線の中の悪意を引いた感じ、というのが、より正確な言い方です。あのサマソニとかのビジョンに映るみなさん、フェスの空気をよくする方に働くことはあれど、ネガティヴな要素は一切ないし。


 要は、さっきから書いているように、「はしゃいでいるところを見られるのが恥ずかしい」という「よけいな照れ」がじゃま、というだけの話だ。おまえはそんな照れてんのか。それじゃ全然楽しくないじゃん。うん。そのとおりだ。実は今はまだましになった方で、10代の頃はもっとそうだった。音楽の大事な楽しみ方のひとつを自ら放棄したみたいな、いびつな思春期をすごした、と、自分でも思う。クラブとかライブで踊れるようになったの、30を過ぎてからです。それもアルコールの力を借りて。


 しかし。こういうことを考えるたびに、あれは本当に見事な「映され方」だったよなあ、と、今でもありありと思い出す経験がある。


 ローリング・ストーンズの2回目の来日公演、1995年、東京ドームでのこと。ライブの途中、何度も客席の様子がビジョンに映し出されるわけだが、その途中に、突然、甲本ヒロトと真島昌利のふたりが大きく映し出されたのだ。
当然、その瞬間、客席はドッと湧いた。ステージの上のメンバーたちは、なんで今のタイミングでわいたのか、わからなかっただろう。
 
 あのはっきりとした抜かれ方は、偶然ではなく、カメラマンがふたりに気づいて、しばらくその姿を追っていたのだと思う。で、カメラのスイッチングの担当者が、ここ!というタイミングでそのカメラに切り替えたのだ、おそらく。
しかし。ヒロトもマーシーも、そんなこと、なんにも気にしていなかった。カメラ目線にもならず、ステージから目もそらさず、ただただ「うわあ、ストーンズだ!」という喜びを全身から発して盛り上がっていた。特にヒロト、本当にいい顔をしていた。
 
 のちの時代に、PRIDEとかK-1とかの中継を観ていると、リングサイドの特等席に芸能人とかが、映される気満々で鎮座しているさまが抜かれるのを観るたびに、ああ、なんかヤだなあ、と思ったものだが、今思うとその対極だった、ヒロトもマーシーも。「有名人だからこう映りたい」という自意識もない、EDMのお客さんのように場に合わせたスマートさを見せるわけでもない、ただのストーンズに夢中なロック兄ちゃんだった。
 
 それ、ブルーハーツの解散発表の直前ぐらいの時期にあたるわけだが、その姿はまさにファースト・アルバム収録の「ダンス・ナンバー」の「カッコ悪くたっていいよ そんな事問題じゃない」という歌詞、そのままだった。いや、べつにカッコ悪くはなかったですが。普通でしたが、動きとしては。ただ、熱くなることがカッコ悪いとされた80年代に現れ、めっちゃ熱いことをめっちゃダサい格好(だと当時は思った、ヒロトの坊主頭とか、河ちゃんの胸にでっかく★マークが入ったTシャツとか、梶くんのもっさりしたモヒカンとか)で歌いまくって日本のロックの歴史を変えたバンドのメンバーならではだよなあ、あのふるまいは……と、改めて考えたりもした。


 僕が自然に「映り込める」時は来るのだろうか。(兵庫慎司)