トップへ

映像の魔術師が『グランドフィナーレ』で描く、甘く切ない“老い”の境地

2016年04月16日 08:31  リアルサウンド

リアルサウンド

『グランドフィナーレ』(c)2015 INDIGO FILM, BARBARY FILMS, PATHE PRODUCTION, FRANCE 2 CINEMA, NUMBER 9 FILMS, C - FILMS, FILM4

 いつしか誰もが彼のことを“現代のフェリーニ”と呼ぶようになった。なるほど、確かにパオロ・ソレンティーノの描く映画は人生を俯瞰した叙事詩的な作風で知られる。主人公に内面を吐露させながら、意識や記憶を自在に行き来し、魔術的な映像表現が人生の甘美さや悲哀を見事に彩っていく。


参考:「些細な瞬間が人生に勝る」パオロ・ソレンティーノ監督が語る『グランドフィナーレ』の制作意図


 ソレンティーノを“イタリアが生んだ若き巨匠”と呼ぶ向きも多いが、とりわけアカデミー賞外国語映画賞を受賞した『グレート・ビューティー/追憶のローマ』、そして今回の最新作『グランドフィナーレ』を発表した40代半ばという年齢は、かつてフェリーニが代表作『8 1/2』を生み出した時期とちょうど重なる。その意味でもまさに円熟期にある監督と言えるのだろう。


■“老い”を掘り下げ、ヴィヴィッドな映像世界へ昇華


 カンヌやアカデミー賞で無冠に終わったとはいえ、『グランドフィナーレ』も一言で、素晴らしい作品だった。原題は「YOUTH」。スイスのアルプス山脈の麓にある高級ホテルを舞台に、そこへ休暇を過ごしにやってくる様々な年代のセレブたちを描き出す。中でも主軸となるのがマイケル・ケイン演じる作曲家だ。人生の大部分を仕事に捧げてきた彼だが、今では引退を宣言し、ホテルで静かな毎日を送っている。また彼の親友であり、ハリウッドを代表する映画監督役としてハーヴェイ・カイテルが登場する。


 ロンドン下町っ子のケインと、ブルックリン出身のカイテル。まさに対照的な存在だしメソッドも全く異なる。いざ共演シーンを観るまで、2人がひとつの画面に共存して一体どんな空気が生まれるのか、想像すらできなかった。


 しかし、さすが伝説的な2人である。それほど感情を顔に表さず、口を開けばまるで音楽のように深く、チャーミングに言葉を響かせる響くケイン(現在83歳)。一方の、眉間のシワがトレードマークと言えるほど赤裸々に感情を発露させ、なおかつ絞り出すような掠れ声がかえって魂の躍動を感じさせるカイテル(現在76歳)。2人の醸し出す空気はまるで音楽だ。それもロックで、ポップで、クラシック。一瞬も飽きることがないし、思わず笑ってしまうユーモアと、辛辣な皮肉もまたスパイスとなる。2人が「本日の小便は何滴だったか」について語る場面のなんと小粋で素敵なことか。


 さらにこのホテルには、SF映画のロボット役で人気を博したという若手俳優(ポール・ダノ)や主人公の娘(レイチェル・ワイズ)、ミス・ユニバースに、あのマラドーナそっくりの巨漢の男も滞在している。温泉、サウナ、プールが完備され、マッサージや健康診断、それに中庭では夜な夜なコンサートまで開かれるこの場所が、滞在者の身と心を癒していくというわけだ。


 そんな中、英国王室から主人公の元に使者が訪れ、女王きってのリクエストで彼の代表曲「シンプル・ソング」を指揮してもらえないかというオファーがなされる。即座に断る彼。このような名誉をなぜ固辞するのか? 本作はこの楽曲に込められた思いを解き明かすとともに、老いてなお輝き続ける魂の“YOUTH”を、様々な登場人物の表情や精神性を借りながら描き出していく。


■回転するステージ、そして直進する回廊


 本編ではミュージシャンが回転ステージで円を描くようにして歌い、楽器を奏でる。その光景はどこかソレンティーノ的な、あえてゴールを設定せず「円を描く」ように点描を重ねていく作風を思わせる。『グレート・ビューティー』はまさにその典型とも言えるものだった。一方、今回の『グランドフィナーレ』ではそれを踏襲しながらもしかし、回転運動に加えて、時折、印象的な直線運動が幾度も映し出される。


 例えば、回廊の場面。一直線に続く回廊には人生の縮図のような荘厳さがある。すぐそこに終着地が見えるのではないかという恐れ、慄きを感じるこのひととき。そして道すがら出逢った人との肌と肌が触れ合うかのような邂逅。その意味でも『グランドフィナーレ』には、老いの中を円状にたゆたうのみならず、同時にストーリーを力強く導いていく線形の推進力を感じるのだ。もちろん、それには終盤にジェーン・フォンダがもたらす圧倒的な“生”のインパクトも密接に関わっているのだろう。


■なぜ、彼は“老い”に魅了されるのか?


 私たちはよく“未来”や“夢”について目を輝かせて語りあう。しかし、ソレンティーノはそこでふと立ち止まり考える。「仮に80歳を超えた人物は、その人生の最終章で、一体どのような“未来”を思い描くのだろう?」。


 老人がふとした瞬間に人生を顧みる、いわゆる走馬灯のような映画はこれまでに何本も作られてきた。ソレンティーノはその逆なのだ。ようやく人生の折り返し地点にたどり着いた齢の彼が、あえて創造してみせる老いの境地。そこには「今の自分が経験していないことに興味がある。分からないことだからこそ、掘り下げてみる価値がある」という思いがあったようだ。そしてなおかつ、若き彼が掘り下げる“老い”だからこそ、そこには静謐さとヴィヴィッドさを併せ持つダイナミズムが生まれ、主人公の内面描写も無限の創造性によって膨らみを増していくのだろう。


 また、ハーヴェイ・カイテル演じる、老いてなお精力的に脚本執筆を行う映画監督には、ソレンティーノ自らの「老いてなお、こうありたい」という憧憬があるのは明らかだ(加えて、親交の深かった故フランチェスコ・ロージ監督への敬意も多分に含まれている)。


 最後にもうひとつ触れておきたいのが、ソレンティーノの辿ってきた数奇な人生だ。映画学校に通うことなく世界的監督へと昇り詰めた彼は、16歳の頃、事故によって両親を2人同時に亡くすという悲劇に見舞われたことでも知られる。


 本来なら、子にとって親は、最も身近なところで“老い”を直視させてくれる存在。この機会を奪い去られたことは彼の人生に大きな影響を及ぼしたはずだ。もしかすると歳を重ねれば重ねるほど、そしていつしか自分が両親の年齢を超える頃合いになって、改めて様々な思いがこみ上げてきているのではないか。“老いの冒険”とでもいうべき彼の特異な作風には、このような感情の機微も大きく介在するのではないかと、余計な推測が膨らんでやまない。


 ちなみに、両親を亡くした時、本来ならソレンティーノ自身も同行するはずだった。しかし奇しくもマラドーナの出場する試合を観に行ったことで彼は死ななかったという。


 彼は何もギャグとして本作にマラドーナ(のソックリさん)を登場させたわけではない。ソレンティーノにとって彼はあらゆる意味でヒーロー。それを意識しながら本作に臨むと、あの巨漢な男が登場するたびに何か胸に熱いものがこみ上げてくるはずだ。


 マラドーナだけではない。本作はそんな胸にしみる瞬間の繰り返しなのだ。ひとつひとつの襞をめくるように、記憶が、思いが、情熱が、そして音楽が溢れ出してくる。その全てがひとつに集約されるラストの「シンプル・ソング #3」。聴きながら、観ながら、思わず涙がこぼれた。と同時に、改めて、この若き巨匠の大胆さと情熱に圧倒される思いがした。


 人生は回転と直進の連続だ。これからもソレンティーノはフェリーニを超え、さらなる得体の知れない何者かへ、進化し続けていくに違いない。(牛津厚信)