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荻野洋一の『ルーム』評:“感動させる”演出に見る、映画としての倫理の緩み

2016年04月14日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)ElementPictures/RoomProductionsInc/ChannelFourTelevisionCorporation2015

 今年の米アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞でブリー・ラーソンに主演女優賞をもたらした『ルーム』は、すばらしい演技合戦だけで2時間をもたせてしまう映画だ。誘拐監禁された女性ジョイ(ブリー・ラーソン)は犯行当時まだ高校生だった。ジョイは監禁された納屋で犯人から肉体関係を強要され、赤ん坊を産んだ。映画は子のジャックが5歳の誕生日を迎える朝から始まる。ジャック役のジェイコブ・トレンブレイ君の演技力が母役のブリー・ラーソンに輪をかけて高く、母子の緊迫した演技合戦に引き込まれずにいることは難しい。


参考:『ルーム』&『ボーダーライン』 中~小規模公開のアカデミー賞関連映画がスマッシュヒット


 演者の演技を最大の魅力とする本作にはしかし、短所もある。いや短所というより、映画としての倫理が弱いと言った方がいいかもしれない。どういうことかを少し説明したいと思う。


 誘拐監禁された母子の脱出劇というのは、スリラーやホラーなどのジャンル映画にふさわしい奇想である。その点では、日本漫画を韓国のパク・チャヌク監督が映画化した『オールド・ボーイ』(2003)は、記憶に新しいだろう。これはカンヌ映画祭で審査委員長をつとめていたクエンティン・タランティーノに絶讃され、グランプリを受賞した。10年後にはハリウッドでリメイクされている。『オールド・ボーイ』は奇想に始まり、奇想に終わる。つまり、扱われた内容がいかに異常でも凶悪でも不道徳でも、映画としては一本筋が通っているのである。


 『オールド・ボーイ』韓国版の主演者チェ・ミンシクも、ハリウッド版主演者のジョシュ・ブローリンも、じつに気持ちよさそうにこの異常な物語の被害者を演じていた。イージーな挑戦だからである。プロの俳優たちにとって、極端な人物を演じるのは、最も簡単な作業だ。だから迷いを感じずに、生き生きと演じることができる。


 これに対し、日常のなかに見え隠れする喜怒哀楽を演じることは、決してたやすいことではない。リアリズムのなかで「誰か」になるためには、本当にその「誰か」と同じ人生観と生活様式を体得しなければならない。チェーホフの戯曲を演じることが、俳優たちにとって生涯をかけた課題となり得るのも、リアリズムのなかのリアルを摑み取るための闘いだからである。小津安二郎の映画を見れば分かるように、リアルな喜怒哀楽を表現するためには、その喜怒哀楽の現象面を隠さねばならないことさえあるのだ。演者には厳しい修練と探求心が求められる。


 本作のブリー・ラーソンの前年に、アカデミー主演女優賞を獲得した『アリスのままで』(2014)のジュリアン・ムーアがすばらしいのは、アルツハイマー病によるボケという異常な状態をたくみに演じたからではなく、ボケへの恐れ、悲しみ、覚悟といった複数の感情を、彼女が厳しい倫理観をもって演じきったからである。


 ひるがえって本作『ルーム』は、まるでスリラー映画の『パニック・ルーム』(2002)のようなショッキングな題材を選択している。『パニック・ルーム』は完全なるジャンル映画で、ジョディ・フォスターとクリステン・スチュワートの母娘が監禁から脱出し、犯人をやっつければ、ゲームオーバーとなる。それ以上でもそれ以下でもない。


 『ルーム』にネタバレというものは存在しない。あらかじめこの映画の母子が、監禁からの脱出に成功し、シャバでの彼ら2人の出直しがテーマとなっていることが、告知されているからである。2時間の上映時間のちょうど半分のところで母子は脱出に成功し、上映時間の残りは、シャバでのカルチャー・ギャップと適応の困難が描かれる。


 つまり観客は1本で2本分の映画を見ているのだ。ただし、これはかなり虫のいい構成ではないだろうか? 奇想で始まり、リアルで終わる。演者たちも最初は極端な状況下での極端な演技で加速し、後半は、リアリズムでじっくりと見せつけようとしている。これはあまりにもイージーなゲームプランである。


 このイージーなゲームプランを濫用して、天下を取ってしまった映画作家がいる。日本の是枝裕和監督である。彼の作る映画は、多くの場合、奇想で始まり、それをリアリズムの包み紙でくるむ。カルト教団による無差別殺人の加害者家族が一堂に会すとか(『ディスタンス』)、親に見捨てられた4人の子どもたちが独力でサバイバルするとか(『誰も知らない』)、性欲処理用のダッチワイフが感情を持って生き始めるとか(『空気人形』)、病院のミスで起きた取り替え子をスワッピングさせるとか(『そして父になる』)、そんなヘンテコな設定のオンパレードである。


 そして、それが簡単に受ける。思っても見ないような奇想で興味を惹きつけておいて、それを深刻ぶったリアリズムの手法で料理することで、なにかかけがえのない映画体験をしているかのように、観客に催眠術をかけてしまう。私は、是枝裕和の映画作法には倫理上のドーピング違反があると考えている。性欲処理用のダッチワイフを韓国人女優に演じさせ、しかもメイド服を着せるとか、イメージに耽溺するあまり、倫理観が緩みっぱなしなのである。


 『ルーム』にも、是枝裕和作品ほどではないかもしれないが、倫理の緩みがある。極端な設定で観客を楽しませたあと、一転してまじめくさった顔で、子どもに世界との第二の出会いを、母親に社会復帰の困難さを与える。突如として、映画はお化け屋敷から、普遍性の哲学問答に移行するのである。この落差は、効率のいいアドバンテージとなる。演技合戦にメリハリを付けやすく、物語の普遍性も保証しやすくなる。ようするに、感動させやすいのである。このイージーさゆえに、『ルーム』は化学調味料を添加した料理の味がする。スリラーやホラーのジャンル映画にも操が立っておらず、リアリズムの琢磨ともほど遠い。


 本作のネガティヴな面を論じたが、最後に私が最も心を打たれたシーンについて触れたい。監禁からの脱出に成功し、トロント市内の病院も退院したジョイとジャックの母子が実家に帰宅した日の、夕食のシーンである。ジョイが7年間不在のうちに、彼女の両親は離婚し、実家には母親とその新しいパートナーが住んでいる。離婚して遠方に住む父親も飛行機でかけつけるが、この父親を演じたウィリアム・H・メイシー(『ER 緊急救命室』など)の演技が絶品なのである。


 食事のあいだじゅう、彼は苦しげな目で、帰還した娘を見るが、ジャック──つまり彼の初孫である──を見ようとしない。彼にとってジャックは、愛娘を監禁し陵辱した凶悪犯のDNAを受け継ぐけがらわしい存在なのかもしれない。5歳のジャックには祖父の苦渋を理解できないのが救いであるが、ジョイ、ジョイの母、その恋人、そして父の4人の大人たちのあいだには、非常なるばつの悪さが充満したシーンだった。


 本作は、5歳の子どもが監禁された「ルーム」という小さな世界を出て、真の世界を遅ればせながら知っていく物語であり、青春を奪われたひとりの女の再生へのもがきの物語である。彼らは、彼らの困難を乗り越える。しかしここに、乗り越えられないまま、ひとり置いてけぼりを食った孤独な男がいる。困難を乗り越えるという物語は、感動を呼び起こすのに役立つだろう。しかし、人間はいつも困難を乗り越えられるわけではない。そんな、克服に失敗した存在としてウィリアム・H・メイシーを配することで、本作はきれい事に陥る危険から、かろうじて救われた。異常な監禁スリラーがあまりにもイージーに感動物語に早変わりするための化学調味料から、ウィリアム・H・メイシーは無縁のまま、その苦しみによって、その失敗によって、そのばつの悪さによって、正統なるリアリズムの住人でいることが可能となったのだ。(荻野洋一)