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『さざなみ』はなぜ心理ドラマの傑作となり得たか? 女優シャーロット・ランプリングの“魔力”

2016年04月11日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Agatha A. Nitecka/ (c)45 Years Films Ltd

 この世には、女優シャーロット・ランプリングがいなければ成立しない映画というものがある。彼女にベルリン国際映画祭女優賞を渡し、初のアカデミー女優賞ノミネートに送り出した、この『さざなみ』もそうであるには違いない。ただし本作は、ランプリングの天才性に頼り切るのでなく、彼女と共鳴するがゆえ、近年屈指の傑作心理ドラマとなっている。


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 その点では、フランソワ・オゾン監督のミューズとなることが決定された2000年の『まぼろし』を思い出してもいい。ヴァカンス先のビーチで忽然と姿を消した夫をいつまでも待ち続ける妻の痛ましい姿を描いた『まぼろし』と、45年間連れ添った夫の行方不明だった元恋人の遺体が発見されたことで愛の危機に晒される妻の心の『さざなみ』。これらが密に関係しているとは言わないが、いずれにおいても、シャーロット・ランプリングはどこまでも「耐える」人として存在する。


 彼女のその美しくも冷たげな顔は、悲しみや憤りで崩れることを許さず、常に同じ温度を保つ。奥まった色濃い瞳は、現実から目を背けず、しかし悲観的に見ることもなく、己の心の内をただ探索する。そして、これらの特質が役柄を超えた彼女の人間性そのものなのだろうと圧倒される。こんな女優は他にはいない。彼女が映画に与えるものは、いわば魔力のようなもので、作品にとって必ずしも幸福ばかりとは言えない。ひとたびランプリングが映れば、それは衝撃の『愛の嵐』がナチ帽を被った半裸の彼女の姿のみを残したように、他が記憶から消えてしまうということもありえるのだ。


 では、『さざなみ』においてはどうだろうか。夫役を演じるトム・コートネイはもちろん素晴らしい。彼が元恋人との思い出をベッドで語る際、もはや現在を生きることをあきらめたような哀れな人間の像がくっきりと浮かび上がる。ただ同時に、その儚い追想の言葉たちにひたすら耳を傾けるランプリングの鋭い、まるで探偵かのような様相が切り返されると、夫の哀しみはある調査の対象としてしか感じられなくなってくる。だが、それが本作をより魅惑的なものにする。夫婦の愛のドラマで終始すると思われたものから、女が愛の真相を探るミステリーへと変調していくのだ。そう考えれば先述の『まぼろし』に加え、ランプリング演じる小説家が真夏の別荘で性の事件に巻き込まれる『スイミング・プール』の面影もある。やはりランプリングの最適役は探偵なのか…と、またしても話が彼女に戻っていってしまう。そう、これが魔力だ。


 本作は、夫の元恋人の遺体発見の報を聞く月曜日から、結婚45周年の祝賀パーティが控える土曜日までの6日間を、順に並べていく。そのリズムは淡々としており、まるでカレンダーの日付を1つ1つ塗りつぶしていくかのように、どの曜日も同質に扱われる。その一日に何が起きようが、また次の朝がやってきて、同じ生活が延々と続いていく…夫婦生活の実感を刻む、この時の流れが作品の味わいをより一層濃くしている。


 また、どの曜日もまず風景ショットで始まる。イギリスの小さな地方都市の乾いた景色だ。青緑がかったフィルターを用いた映像が、いくら美しく見せようとしても虚しさを隠し切れない夫婦の心模様と呼応する。そして、真に美しいままに保存された過去の記憶が別次元の風景として現れたとき、物語は大きく震える。



 新鋭監督アンドリュー・ヘイはこのように、荒涼とした現在を抽象画のように描き、心の揺らぎを表出させることに全神経を注ぐ。撮影方法も、手持ちカメラを用いないしっかりとした置き方による長回しが基調となり、対象をじっと観察する。


 例えば、物語のはじめに夫婦が元恋人の報を知る際、決してその出来事はカット割りなどによって誇張されず、あくまで日常の一瞬のようにワンショット内で起きる。しかし、その夫との会話の前後では、妻の様子がどこか変化する。一瞬にして信じられていた世界に切れ目が入ったことが、カットをしないことによってより鮮明に浮かび上がる。また、先述したベッドでの思い出話におけるような、クローズショットのやり取りがある場合にも、その演出は考え尽くされている。特に、妻とある人物が切り返されず同じフレームに並ぶとき、絶対に目を逸らさないでいただきたい。そこに映るものは、夫婦の心の謎を知る重要な鍵となるのだが、決して言葉で説明されることはない。監督アンドリュー・ヘイは、どこまでも映像を信じているのだ。それゆえ獲得された気品は、何にも代えがたい価値だ。


 そして最後に、本作には素晴らしいラストシーンが用意されている。かの名曲「煙が目にしみる」が奏でられるあまりにも美しく悲しいこの幕切れに、私たちは「耐える」ことができるだろうか。(嶋田 一)