2016年04月08日 13:11 リアルサウンド
満開だった桜は全国に吹き荒れる雨風ですっかり散ってしまうのだろう。思えば日本という国は、常にこの花びらとともに記憶を紡いでいくのを運命付けられているかのよう。人生の節目節目に桜が咲いて、そして散る。笑ったり泣いたりしながら、ふと気がつくとまたいつしかぐるりと時がめぐって桜の季節。当の私たちは定点観測的に桜を見つめているつもりでいるが、実はじっと見られているのは私たちの方かもしれない。
参考:ストリートの芸術家・バンクシーが人々を熱狂させる理由ーー『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』評
そしてちょうどこの桜が咲き誇る(あるいは舞い散る)時期に一本の映画が公開を迎えた。それが『桜の樹の下』。山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映され話題になった作品である。これがとても素晴らしく、観客の表情を知らず知らずのうちに笑顔にしてしまう魅力に満ちていた。おそらくスクリーンの側から見れば、客席が笑顔で満ちていく様子は桜前線の到来のようにも見えるはず。
まだ20代の女性監督がカメラを向ける先は、川崎市にある市営団地。工業都市としての発展を遂げてきた川崎市では日本全国から多くの出稼ぎ労働者を迎え、ベッドタウンとしての宅地開発が行われる一方で、舞台となる公営住宅は多くの単身者の暮らしを支えてきた。近年では住人のほとんどが高齢者となり、市の補助を受け入居している人も多いというーー。
こうして説明文を読むと、福祉的な側面、社会的な側面が強い映画に思える。が、実際に本作がスクリーンに映し出されると、序盤から不思議の世界に迷い込んだかのように惹きつけられてやまない。というのも、この公営住宅の外観を撮影中のクルーに対して見ず知らずのおばあさんが近づいてきて、ぼそぼそとしゃべりかけるのである。だんだん耳が慣れると「よかったら寄っていきなさい」「お茶くらいしか出せないけれど、ゆっくりしていきなさい」と語りかけているのがわかってくる。
このおばあさんの何と魅力的なことか。ちっちゃくて、丸っこく、終始浮かべている皺だらけの笑顔に誰もが引き込まれてしまう。懐かしい昭和のおばあちゃんといった印象だが、その一方でなにか得体の知れない芯の強さがあり、なおかつ一握りの孤独感を抱えているようにも思える。そもそも、これほどタイミングよくフラリと現れクルー及び観客の視点をいざなっていくことに、何かこの世のものならざる精霊的なものを感じずにいられない。
結果的にこのお誘いを受けて、カメラは次の瞬間、団地の一室にお邪魔している。この境界線を飛び越える作業こそ、あらゆるドキュメンタリーや劇映画が最も苦慮するところだが、本作はそこをいとも簡単に成し遂げているのだ。こうした導入部もあって我々は、高齢化が進み、入居者それぞれが孤独や障害や問題を抱えたここでの暮らしを刺すような視点で直視するのではなく、何か柔らかいフィルターで包み込んだような愛らしさや優しさでもって受け止めることが可能となる。部屋では一匹の鳥が巣箱から顔を出しピーピーと鳴いている。餌の時間がやってきたのだ。
ここから映画は、先のおばあさんを含む4人の男女にカメラを向けてその暮らしや人生を紐解いていく。この市営団地に暮らす住民はおよそ350世帯。その中から抽出された4人はバックグラウンドも、抱えた事情も様々だ。彼ら全員が互いに顔見知りというわけではないし、劇映画のように全員のストーリーが巧妙に交錯していくわけでもない。
田中圭監督はこのご老人たち一人一人にカメラを向けて、会話を紡いでいく。それはどこか孫とおじいちゃんおばあちゃんといった関係すら彷彿させるし、また4人の表情も「語る」ことによってどこか晴れ晴れしたものとなっていくのがわかる。もしかすると、取るに足らないと思い込んでいた孤独な人生に他者の視点が注ぐことで「開かれていく」ものが、ここにはあるのかもしれない。
中には部屋をゴミ屋敷へと変貌させてしまっている老婆もいるが、この映画が決してワイドショーの突撃取材のように彼女をセンセーショナルに糾弾することがないのも幸いだ。むしろカメラがその表情を克明に捉えることで、内面に何を抱えているのか、どんな情景が広がっているのかが伝わってくる。そして膨大なゴミの山から発掘される昭和のレコードの数々。それをプレイヤーで再生するとゴミ屋敷がノスタルジックな響きで包まれ、当人もうっとりとした表情を浮かべる。映画にとってもまさに至福のひととき。
そして気がつくと、また冒頭のあの精霊のごときおばあちゃんが、ゴミ屋敷の老婆に対して「しっかりしなさい!」と励まし、一緒になって片付け作業を始めている。そんな彼女に対して「もう関わらないでくれ」「絶交だ」と宣言しながらも、またいつしか付かず離れずの関係性で寄り添いあっていく老婆。二人の友情は見ていてグッと沁み入るものがあった。
また、かつて演劇活動に従事していた初老の男性が、今の心境を戯曲にしたためていく姿も興味深い。ここで彼の口からこぼれる言葉が「巣箱」といったもの。それは公営団地を象徴的に言い表したものだ。多くの紆余曲折を経た人生を抱えて辿り着いたこの巣箱のような部屋。そこから無数の鳥たちが顔を出すようにして日々をやり過ごしていくというのだ。遠くから望む公営団地の風景は確かに無数の巣箱の集合体に見える。しかしそこの一部屋一部屋に、一度会ったら忘れられない人たちの人生が濃密に詰まっていることを、『桜の樹の下』は語り口豊かに伝えてくれる。
いつしか桜の精霊のごとき老婆が可愛がっていた愛鳥も死ぬ。そして笑顔の印象的だった彼女自身もこの世を去る。この映画に死は訪れても、新たな生が誕生することはない。ただその代わりに、近くにそびえる桜の樹が、今年もまた満開の花を咲かせる。この桜はこういった人の「生き死に」を、いったいどれほど数多く目撃してきたことだろう。
巡り来る季節の中に4人の人生を織り交ぜることで、映画全体に気持ちの良い空気が流れていた。彼らがいるからこそ自分も頑張ろうと、何かこちらまでも大いなる元気をもらえる気がした。私はこの先、何年も、何十年も、桜が咲くたびにあの老婆の笑顔を思い出すのだろう。きっとそれこそが本作の持つ、ささやかだけれど尊い力だ。(牛津厚信)