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考察:バーレーン1周目の事故、ボッタスにペナルティを与えるべきではなかった

2016年04月07日 20:21  AUTOSPORT web

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2016年バーレーンGP、スタート直後のアクシデント
2年ほど前に、FIAはドライバー同士の接触についてはペナルティを乱発せず、ある程度まで寛容であるべきという方針を打ち出した。厳しすぎるジャッジは、ドライバーにオーバーテイクを躊躇させることにもつながるのだから、これは実に賢明な措置だった。

 それでもなお「レーシングアクシデント」という判定は滅多に出ない。バーレーンGPのスタート直後ルイス・ハミルトンに接触した件で、バルテリ・ボッタスにはドライブスルーのペナルティが与えられた。

 アクシデントの状況を分析してみると、複数の要素が絡んでいたことがわかる。まず、ボッタスの立場から言うと、すばらしいスタートを決めて3番手で最初のコーナーへ進入した。ストレートでの彼のポジショニングから見て、ボッタスは一気にハミルトンに挑んで2番手に上がることよりも、まずは3番手をキープしようと考えていたはずだ。

 ところが、進入での2台のメルセデスの動きによって、状況は少々複雑になる。先頭のロズベルグはポジションを守るためにコース中央付近のラインを取り、これにハミルトンが「つっかえる」形になったのだ。牽制しあっていたメルセデスのふたりは、ターンインのタイミングに迷いが生じて、わずかながら車速を失った。そして、ハミルトンがクロスラインでチームメイトの内側に切り込もうとしたために、イン側のラインからコーナーに入ってメルセデス勢との間合いを詰めていたボッタスと絡むことになったのである。

 ボッタスには、ハミルトンを押し出さずに曲がりきれるのであればインに飛び込む権利があり、その場合、ハミルトンには彼のために最小限のスペースを残す義務があった。ハミルトンはボッタスがいたことには気づかなかったと主張しているが、これを言葉どおりに受け取ることはできない。スタート直後の1コーナーで、しかもロズベルグに行く手を阻まれた状態でコーナーに入れば、実際に見えてはいないにしても、後方からわずかな隙間を狙ってくるドライバーがいることは予測すべきだろう。いずれにせよ、ハミルトンが取ったラインはボッタスの進路と交差し、ボッタスが彼を押し出さずにコーナーを通過できる文句なしのラインを通っていたとしても、接触は避けられなかった。



 スチュワードがボッタスにペナルティを与えることは十分に予想できたし、その理由も理解できないではない。だが、F1をめぐる様々な状況を考えるならば、この件はレーシングアクシデントととして不問に付すべきだったのではなかろうか。

 F1のあるべき姿が問われているなかで、疑問の余地なしと思われるのは「ファンがレースとバトルを見たがっている」ということだ。レースはフェアでありながらハードでなければならず、結果として起きるアクシデントや接触を心配しているようでは、ファンの期待には応えられない。

 ファンは、DRSやデグラデーションの大きいタイヤに頼らない、純粋なオーバーテイクが数多く見られるレースを望んでいる。空力的な理由で接近戦が難しいクルマを作っておきながら、果敢なアタックにはミスがつきものであることや、結果的にうまくいかなかった正当なオーバーテイクの試みと単なる向こう見ずとの違いを認めないとすれば、レースは退屈なものになるばかりだろう。重要なのは、限界ギリギリだが一線を越えていない試みと、許容できる範囲を超えた無謀さを見分ける能力だ。

 もちろん、スタート直後の1コーナーでの接触は、すべてレーシングアクシデントと扱うべきだと言うわけではない。たとえば2012年ベルギーGPのスタートでロマン・グロージャンが引き金を引いたマルチクラッシュは、明らかに彼に非があり、ペナルティを受けて然るべきものだった。

 ペナルティの判定をめぐっては、しばしば「一貫性」が要求される。だが、これも実は危険な言葉だ。アクシデントが起きたときの状況は、どれを取ってもまったく同じということはありえず、FIAが「ドライバー出身スチュワード」を起用しようと考えた理由も、客観的な尺度による判定が難しいことにある。ただ、ドライバースチュワードもFIAが示す方針や規則に拘束されているため、いつも良識に従った判断ができるとは限らない。



 その好例と言えるのが、2013年ハンガリーGPで、グロージャンがターン4でアウトからフェリペ・マッサを抜いたときの一件だ。誰もが感嘆の声を上げた見事なオーバーテイクであり、グロージャンがトラックリミットの白線を踏み越えていたとはいえ、抜かれたマッサを含めて多くの人が許容されるべき追い越しと見なしていた。

 しかし、スチュワードの立場からは、そのように考えることはできなかった。問題はグロージャンが白線を越えたかどうかという事実であり、もし彼が白線を越えたのなら、オーバーテイクそのものがどれほど見事であろうとルールに従ってペナルティを科さざるをえないのだ。

「一貫性」を保とうとすることの難しさは、そこにある。スチュワードに期待されるのは健全な判断を下し、良識が生かされるようにすることだ。バーレーンの場合で言えば、あの接触によって確かにハミルトンのレースは損なわれたが、ペナルティを科すべきかどうかの基準は「結果」ではなく、ドライバーが犯した過ちの「性質」だろう。

 ボッタスは大胆ではあるが正当なアタックを試み、結果として失敗した。アクシデントの主犯は彼だったように見えても、そこには彼にはコントロールできない、いくつものファクターが複雑に絡んでおり「よくあること」として受け入れるべきだった。レーシングアクシデントと判定するために、両者の過失が必ずしも50対50である必要はない。

 レースでは時として避けようのないアクシデントが起きる。それは関係したすべてのドライバーにとって不運なことであり、被害者がいるからには誰かがペナルティを受けるべきという話ではない。そして何よりも重要なこととして、激しいレースを奨励したいのなら、ギリギリの判断に基づく果敢なアタックの結果を咎めてはならないのだ。