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生まれてから7年間“監禁”されていた少年は、世界とどう向き合うのかーー『ルーム』が描く成長物語

2016年04月07日 06:12  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)ElementPictures/RoomProductionsInc/ChannelFourTelevisionCorporation2015

 同じベッドで眠っていた母親と子供が目を覚ますと、いつもと同じ朝が始まる。歯磨きをし、軽い運動をし、子供は部屋中の物に朝の挨拶をする。この子供—ジャックはこの日5歳の誕生日を迎え、母親とともにバースデーケーキを作る。一見すると、どこにでもある普通のアメリカの家庭の光景に見えるが、彼らはこの6畳ほどの広さしかない、狭い部屋から出ることができない。天井には天窓がひとつあるだけで、壁面には窓がひとつもなく、寝室もキッチンもリビングも、風呂場やトイレさえもこの密室の中に凝縮されているのだ。


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 やがて母親は、ジャックに語る。7年前に誘拐されて、それから一歩も部屋の外に出ていないということ。そして、この部屋の外には広い世界が拡がっているのだということ。生まれてから5年間、部屋の中しか知らないジャックにとっては、何が本物で、何が偽物であるかも知らない。天窓に張り付いた枯葉が、「緑色ではないから葉っぱでは無い」と言い切るほどである。


 この『ルーム』という作品、昨年の秋にトロント国際映画祭で大絶賛を浴び、同映画祭の最高賞に当たる観客賞を獲得すると、一気に賞レースの有力コンテンダーとして脚光を浴びた。とくに、主演である母親役を務めたブリー・ラーソンは、数年前の『ショート・ターム』で絶賛されながらも候補にすら挙がらなかった、アカデミー賞主演女優賞を本作で受賞し、26歳にして一躍トップ女優へと上り詰めたのだ。


 そのアカデミー賞授賞式で、ブリー・ラーソンの名前が読み上げられたときに、彼女がひとつ後ろの列に座っていたジェイコブ・トレンブレイとハイタッチをした姿が印象に残っている。本来であれば、ジャックを演じたトレンブレイも、この映画界最高の名誉と称される賞に輝くべきであったと、つくづく思うのだ。何故ならこの映画は、監禁されていた母子が脱出を遂げる映画ではない。ひとりの幼い少年が、自身の小さい躰に収まりきれないほどの勇気を持って、未知の世界に踏み出していく姿を描いた成長のドラマなのだからだ。


 現に118分のこの映画で、ちょうど半分が過ぎるころに初めてキャメラは部屋の外に出る。屍体のふりをして絨毯に包まれたジャックが、オールド・ニックと呼んでいる犯人の男によって部屋から運び出されていくのだ。母親から真実を告げられたときのジャックは、これまで自分が信じてきたことがすべて覆った恐怖から「嘘だ!」と叫び、母親とぶつかり合う。それでも助けを求める母親を守るために、徐々に真実を受け入れ始めていくのだ。あまりにも酷な脱出計画に耐え、彼がトラックの荷台の上で空を見た時の表情は、忘れがたい名場面となった。


 テレビの中には薄っぺらい小さい人が入っているのだと、初めてテレビを見る人はそう思うなどという話をよく聞くが、ジャックもまた、そう信じて生きてきたわけだ。初めて真実と向き合い、そこに映るものが本物で、時には変装している人だったり、アニメーションは作り物なのだと見分けることができるようになった。ガラス越しで世界を見続けてきた彼にとって、小さな天窓から見ていた空は、偽物の世界と同じだったに違いない。同じように、警察官に保護されて母親と再会する場面では、ジャックはパトカーの窓ガラスを叩きながら母親を求める。暗闇の中から駆け出してきた母親がドアを開けて彼を抱きしめるまで、おそらく一人きりでいた時よりも孤独を感じたことであろう。それまでずっと隣にいた母親が、ガラス越しの世界にいたのだから。


 病院で目を覚ましたジャックは、壁一面の綺麗なガラス窓から外の世界を初めて見下ろす。もちろん、それまで見たことの無い景色だから、その先には不安しか無い。初めて鏡で自分の顔を見たときも、祖母の家に向かう車の中から見た景色さえも、彼にとってはにわかに信じがたい「世界」だったのである。少しずつ「世界」に慣れ始めた彼は、スマホを与えられたことで、それが自分の手の中に入ることを知り、距離を縮めていく。しかし、そのスマホを母親に取り上げられ、さらに母親がテレビの取材を受けている姿を窓越しに見ることで、またしても「世界」との距離を感じてしまうように思える。


 それを支えるのはトム・マッカムスが演じる祖母の新しいパートナーのレオであり、ジョアン・アレンが演じる祖母である。レオはジャックに何気無い会話を持ちかけ、少しずつ心を開かせていく。そして祖母がジャックに、みんなが助け合って生きているのだと語ることで、彼は初めて自分があの部屋から脱出するときに抱いた勇気の本質を知るのだ。久々に帰ってきた「世界」との距離に苦しむ母親を救うために、ゼロから「世界」と向き合い始めた彼が、できることは何なのか。それはパワーの源である髪の毛を差し出すという気休めではないと、ジャック自身は気付いていたに違いない。ジャックが自らの意思で、ガラスの向こうの「世界」に飛び出していくということなのである。


 映画を語るときに、軽々しく「泣ける」などとコピーライティングしたくはないが、ラストシーンでかつて監禁されていた部屋を訪れたジャックの言葉に、涙せずにはいられない。私事ではあるが、大学生のときに初めて撮った自主映画で、自分が小学校6年間と少々の間育った部屋を撮影に使った。その部屋を出てから7年が経っており、その間にも何度か訪れてはいたが、ずっと置き去りにしていた家具をすべて退かして、まじまじと部屋を見つめると、こんなにも狭い部屋だったのかと痛感した。それは、少しだけ寂しい気持ちでもあったが、自分自身の躰が成長したのだと思っていた。だが改めて、この映画のラストシーンを観てから思い返してみると、それだけ自分の見ている「世界」が拡がったということの証拠なのだと気付かされたのだ。


 逃げずに向き合っていけば、「世界」は必ず受け入れてくれるのだと、当たり前のようで忘れてしまっていることを、この映画は思い出させてくれる。たとえその「世界」がガラスの向こうにあるからと言って、そのガラスを無理に割る必要はない。割らなくても、その向こう側に行く術を見つけるということが、成長していくということなのだ。(久保田和馬)