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映画とは命がけの娯楽であるーー女優・大塚シノブが役者目線で『下衆の愛』を観る

2016年04月06日 18:12  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)third window films

 ここ最近、連日のように“下衆”という言葉を聞いている気がするが、この映画は最高に“下衆”である。どん底のインディーズフィルムシーンを舞台に、映画を撮るという夢を諦めきれないアラフォー“下衆”監督と、そこに群がる“下衆”たち。「日本っぽい四畳半映画を撮りたい」。その内田英冶監督の言葉そのもの、まさに四畳半という表現にふさわしく、またその中でありあまるエネルギーを爆発させたような、勢いある作品である。監督、プロデューサー、俳優、脚本家とは名ばかりの、映画業界ではまさしく底辺と呼ばれるであろう、そして生き方そのものが下衆である人間たち。ただ、何が『下衆の愛』の愛かというと、みんながそれほどまでに映画を愛しているということ。「一回味わうと抜け出せないぞ。シャブよりもタチ悪いからな、映画わよ」「映画っていう、クソみたいな女にハマったようなもんだろ」という、劇中の台詞がある。それほどまでに映画というものは人々を魅了し、人生までもを狂わせる。


参考:映画業界に生きる“いかがわしい人々”の愛嬌ーー『下衆の愛』に滲み出た映画愛を読む


 ここに出てくる登場人物は皆、滅茶苦茶だ。テツオ(渋川清彦)は、表向きは映画監督だがその実態は、映画祭での受賞経験だけが自慢の、女優を自宅に連れ込み自堕落な生活を送る、40歳を目前にしたパラサイトニート。自らのハメ撮りで生計を立て、テツオに密かに想いを寄せる、助監督マモル(細田善彦)。「脱ぎと動物」にこだわり、時代に媚びようとする団塊世代のプロデューサー貴田(でんでん)。枕営業にすべてをかける売れない女優・響子(内田慈)。そして才能溢れる新人女優・ミナミ(岡野真也)は、成功と引き換えに自分を崩壊させていく。


 下衆であろうとなかろうと、監督・プロデューサーという名前のつく人物の元には、その僅かでも可能性のある幹にしがみつこうと、俳優やら脚本家やらが群がって来る。確かにこの世界は、人間関係で成り立っていることも否めない。ただ、そういった媚びの姿勢から、いい仕事に繋がるのかというと、そこは疑問である。この映画に描かれているすべては、おそらく一般の人々のこの業界に対するパブリックイメージや、憶測である反面、底辺や水面下ではその想いを利用する者もいて、ありえないことではないのかもしれない。


 私もこれまで日本含めアジア地域で、多少、芸能という業界に身を置いてきたが、正直、私自身がこのような状況に直面したり、目にしたことは今までない。幸運なのか、あたりまえなのかはよく分からない。それは事務所のプロテクトのおかげであり、自分でもそういう場所には近づかないと心掛けているからかもしれない。ただ、以前プライベートで、芸能プロのマネージャーだという子とたまたま知り合い、相談を持ちかけられたことがある。彼女自身の見聞きした話は、まさにこの映画のような下衆な内容で、会社の実態とその事務所のタレントについてだった。噂の域でしか聞いたことがなかった私は、こんな話が現実にあるのだと驚いた。ただし、その事務所は聞いたこともない無名事務所で、タレント自体も無名な人だった。


 またこれは日本の話ではないが、私がいた頃の中国はフリーで活動する役者が多く、有名な演劇大学の校門前には、よく高級外車が止まっていた。志望人数が多く、芸能界の競争も激しい中国では、皆、自分を芸能界のトップに押し上げてくれるパトロン探しに必死だったようだ。一度、一緒に住んでいた女優志望の中国人の友人に、無理やりカラオケに連れて行かれたことがある。ドラマ監督が出演者を探していて、監督を囲んで、志望者が何人かそこに集まるからとのことだった。気乗りはしなかったのだが行ってみると、カラオケのVIPルームに男女問わず20人ほどの俳優志望者たちが、監督と呼ばれる人物に群がり、ひと目で媚びていると分かるほどに、酒を注いだり、密着したり、世話を焼いていた。もちろん友人である彼女も擦り寄っていった。私はゾッとして、その様子を一番端の席に座り、遠巻きに冷めた目で見つめていた。
 
  果たして彼らは役を手にすることができたのだろうか。そこから起用されたという話は残念ながら、その後聞いていない。聞くところによると、そういう席では大抵仕事は決まらないという。ただ、媚びとは別で、人間関係を構築した結果、人として認められ、役をゲットするということは、大いにあり得る話だとも思うが。やはり実力もなく、それだけに頼ろうとするのは危険だ。これは役者の観点からの話だが、それで自分は幸せになれるのか、問題はそこである。


 ただ、それほどまでに捉えたものを惹きつけて離さない、それが映画の魅力でもある。その一方で、人生を滅ぼしてしまうかもしれないほど、強い破壊力を持つのも映画である。私も映画に身を滅ぼされた人を何人か見て来たが、莫大な金額が動くのだから、映画とは命がけの娯楽である。ただここまで欲望むき出しの下衆なこの作品は、渋川清彦氏も言っているが、私もファンタジーだと思う。これを現実として受け止めるというより、ファンタジーとして楽しみたい。そしてそれは「ここまでしても愛してるんだぜ」という、内田監督の映画に対する究極のリスペクトなのではないかと、私は思っている。


 映画とは、魔物のごとく、夢のような現実だ。(大塚 シノブ)