トップへ

板野友美主演『のぞきめ』の“恐怖システム”はどう機能する? Jホラーの系譜から考察

2016年04月05日 10:12  リアルサウンド

リアルサウンド

『のぞきめ』ポスタービジュアル (c)2016「のぞきめ」製作委員会

 昨年の『劇場霊』から、今年の1月に公開された『残穢 住んではいけない部屋』と、このところJホラーが息を吹き返してきているのが何とも喜ばしい。少々ヨーロッパ風ホラーの印象を受けた『劇場霊』の素晴らしさはさておき、『残穢 住んではいけない部屋』といい、今回の『のぞきめ』といい、日本古来の怪談話をベースにした、そこはかとない不気味さを映画に還元できるのは、Jホラー映画にのみ許された特権である。


参考:アイドルとJホラーの“密接な関係”はどう変化してきた? 70年代~10年代の潮流を考察


 この『のぞきめ』は、「何だかわからないが妙に視線を感じる」という、不条理な恐怖を前面に打ち出していた宣伝から打って変わって、いざ蓋を開けてみると、定番の怪談話である「六部殺し」を主軸にしているというのが興味深い。「六部殺し」という怪談話は夏目漱石の『夢十夜』の中でも描かれるほどにポピュラーなもので、霊場を巡る旅人が、訪れた村の百姓の家に一晩泊まらせてもらうのだが、金品を奪うなどの目論見を持った百姓に殺されてしまう。その金品で繁栄を遂げた百姓の子孫に、殺された旅人の魂が生まれ変わって、百姓の罪を暴き出すというもの。


 その六部殺しで繁栄した村に、殺された六部の少女の霊が眠っていて、それを鎮めるための生贄となる少女を村のお堂の地下に閉じ込めていたのだが、外界からやってきた男によってその調和が乱される。その顛末として、村自体がダムの底に沈む廃村になってしまい、六部の少女の霊は浮遊し、外界とその村を繋いでいた峠に訪れた者に取り憑くようになるのである。ともなれば、その生贄という存在がまったく映画に機能していないようにも思えるのだが、そこに目を瞑ることも苦ではないほど、「六部殺し」と「ダムの底に沈んだ村」というプロットが魅力的に描かれるのである。


 「ダムの底に沈んだ村」というと、白石晃士の『ノロイ』が真っ先に思い浮かぶ。他にも、“のぞきめ”の呪いによって死を迎えた者たちの死体が捻れているというのを聞くと、Higuchinskyの『うずまき』を思い出してしまうし、終盤で母親を求める少女の霊の悲痛な叫びには、中田秀夫の『仄暗い水の底から』を連想させる。それだけでなく、これまでのJホラー映画を追いかけてきた観客にとっては、妙に記憶中枢を刺激される数多くのオマージュを感じることができるだろう。


 とくに、その最たるものは『呪怨』であろう。思い起こしてみると、劇場版1作目の『呪怨』の中に、友人たちと呪いの家に肝試しにいく女子高生たちを描くシークエンスがあった。一人だけが助かり、残りの三人は行方不明となるのだが、助かった一人は、その三人の霊が窓の外から覗くことに怯え、部屋の窓ガラスを新聞紙とガムテープで塞いでいるのである。つまり、本作と同じ「覗かれる恐怖」に対する典型的な対処法がすでに描かれているのだ。


 それを踏まえると、『のぞきめ』はJホラーの系譜の中でも『呪怨』に近しいテイストであると思える。村人が誰も近付かない峠に行った者だけが〝のぞきめ〟と遭遇し、その恐怖に襲われるという本作の恐怖システムは、呪いの家に足を踏み込んだ人間とその関係者だけが、恐怖を体験するという『呪怨』のシステムと同じである。『リング』や『劇場霊』のように恐怖の原因が移動可能な状態になく、はたまた『富江』のような一人の人間の周りでもなければ、『弟切草』のように限定された空間というわけでもない。あくまでも原因自体は不動産であり、そこに自ら踏み込んだ者が死に至るまでひたすら恐怖のスパイラルに巻き込まれ続けるという、自己責任色が強い点で共通しているのだ。


 強いて言うならば、その呪いの連鎖が、誰かれ構わずパンデミックしないあたりは少々こじんまりとした印象を受ける。劇中で、最初に描かれるカップルと、その解明のために峠に向かう主人公カップルの4人以外が、この“のぞきめ”の恐怖を体験する姿が描かれていないのである。これが『呪怨』や『リング』のような強力な感染力を持っていれば、事件を取材したテレビ局の関係者まで広まっていきそうなものであるが、もう一人、過去に“のぞきめ”と遭遇したという吉田鋼太郎演じる男が語るように、あくまでもこの「見られてる」という感覚は錯覚であると言い切ってしまうのである。主人公が、被害者の恋人と会うシーンを見ると、完全に潜在意識に刷り込まれたような、極めて個人的な錯覚としての恐怖が描かれているのがわかる。


 そんなホラーの要である心霊体験という現象に対する妙に消極的なスタンスは、本作があの『トリハダ』シリーズを手掛けた三木康一郎が監督しているということを知ると、納得ができるだろう。恐怖を体験している者にフォーカスを当てるのでなく、その原因となる事象に関するミステリーに重きを置いているあたりは、ホラー映画に必要不可欠なロジカルさへの追求を感じることができる。あくまでも死者が一方的に悪いのではなく、調和を踏みにじった生者に全ての原因があるというわけだ。それでも、『トリハダ』から一転して、幽霊の存在を可視化させたり、クライマックスで主人公がダムの底に沈んでいるはずの村を訪れるというファンタジックなシーンを織り交ぜるという方法論は、純粋にホラー映画として期待する観客を楽しませるということを忘れていないのだろう。(久保田和馬)