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AAA、宇野実彩子・日高光啓・與真司郎が明かす“グループの過去、現在、そして未来”

2016年04月03日 13:51  リアルサウンド

リアルサウンド

AAA。

 2015年に結成10周年を迎え、今年“ネクスト・ステージ”への第一歩を踏み出したAAA。その足跡と未来への展望を明らかにするムック本『AAAぴあ』が、4月2日に発売された。同書は、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintで編集制作を担当。デビュー10周年アニバーサリーの締め括りとなった9月の富士急ハイランド3Daysレポート、7人の“NEXT STAGE”を見据えたインタビュー、AAAファンアンケートなどを収録。彼らの魅力をさまざまな角度から照らした一冊となっている。


 リアルサウンドでは、同書に収められたメンバーインタビューより一部を抜粋し、2回にわたって掲載。前編では、メインボーカルとしてグループを牽引してきた宇野実彩子、ラッパー・SKY-HI名義でも活躍する日高光啓、アメリカ留学を決断しグループに新たな刺激をもたらす與真司郎の、生の声をお届けする。


・宇野実彩子「泣きながらステージに立つわけにはいかない」


――宇野さんはどんなところから音楽に目覚めたのでしょう?


宇野:私には10歳離れた兄と、8歳離れた姉がいて、物心がついたときから、当時流行していた音楽やドラマ、映画に触れてきたんです。だから、実際の年齢よりもませて育ったと思います(笑)。毎週ヒットソングが出ていた時代でしたし、本当に小さいときから邦楽を中心に、歌を歌っていて。


――当時から歌手になりたいという思いはありましたか。


宇野:歌手というより、ドラマも含めて“こういう華やかな世界に入ってみたい”という気持ちだったと思います。漠然と“スターになりたい”みたいな。人見知りだし、恥ずかしがり屋なのに、憧れと根拠のない自信はあったんです。真面目に頑張っていればどうにかなる!みたいな(笑)。学校の活動もそういう気持ちで一生懸命でした。


――子ども時代から、何事も頑張ってクリアしていく、というタイプだったんですね。


宇野:プライドが高かったというか。ただ、それは“自分はこんなはずじゃない!”という劣等感の裏返しだと思うんです。だから、努力している姿は見せたくなくて。こういうふうになりたい、こう思われたい、みたいな葛藤は常にあって、ホントに一生懸命でしたね。


――2015年には「公認ファスティングカウンセラー」の資格も取得されていますし、勉強家なんですね。ちなみに、最初にオーディションを受けたのは?


宇野:小学生5年生くらいのころですね。会場が国際フォーラムで、ダンスまではうまくいったんですけど、歌の審査でめちゃくちゃアガってしまって。何千人もいるところで、いきなりですからね。受かると思っていたけれど、簡単に落ちました(笑)。悔しいというより、“家で歌うのと人前で歌うのって、こんなに違うんだ”とショックを受けて、一度あきらめているんです。


――なるほど。そこからは、普通に学生生活を送って。


宇野:学校が厳しかったこともあって、とにかく勉強していました。小・校・高と、日々学校生活に追われてたなって。マジメだったんですよね。でも、勉強だけじゃなく遊んでもいたし、青春を謳歌していたと思います。今もそうなんですけど、楽しいことをするなら、そのぶん頑張らなきゃいけない、という気持ちが強いんですよね。頑張ったご褒美として遊べる、みたいな。


――そこからAAAにどうつながっていったのでしょうか?


宇野:厳しい学生生活の中でも、ちょっとカッコいいことはしていたかったし、中学時代からヒップホップダンスを習っていたんです。そんなこともあって、高校1年生の夏休みに、友だちが誘ってくれたavexのオーディションを受けて。それからレッスン漬けの日々が始まりました。“デビュー決定!”という感じじゃなくて、もともと東京にいたから“まあ、上位ではあるしレッスンを受けていいよ”みたいなところもあったので、運もよかったですね。ただ、1レッスンを続けるうちにきちんと評価してもらえるようになって、“男女混合ユニットをやろうと思うんだけど、どうしますか”と言われたんです。


――そのときはどんな気持ちでしたか?


宇野:最初はびっくりしましたけど、このチャンスを逃すわけにはいかない、と思いました。高校の友だちは受験勉強をしたり、就職に向けて動いたりしているなかで、レッスンに集中していた私にはほかの道もなかったし、メンバーと歌ったり踊ったりするのも楽しかったので。


――結成が決まった当初、メンバーとはどんな話をしたか覚えていますか。


宇野:ちゃんと集まったときには、みんな覚悟を決めていたので、“やっとスタートラインだね”という感じだったと思います。夢を全力で追いかけるのって、“叶わなかったらどうしよう”という気持ちがどうしてもついてくるから、すごく不安なんですよね。みんなそういう気持ちがあっただろうし、とりあえずデビューできるということで、そういう意味では団結していたんじゃないかなって。


――シーンに大きな風穴を開ける、というくらい大きな期待を受けてのデビューだったと思います。プレッシャーは感じていましたか。


宇野:若いからプレッシャーという感覚ではなかったと思うんですけど、ちょっと生きた心地はしなかったですね(笑)。いきなり大きい仕事ばっかりだったし、課題をちゃんとこなさなきゃ、という気持ちで。


――幼いころ憧れていた“華やかな世界”とは、少し違ったと。


宇野:全然違いましたね(笑)。もちろん、新しい曲を歌ったり、かわいい衣装を着てステージに立ったり、楽しいことはたくさんあったんですけど、不安のほうがずっと大きかったです。でも、そんな顔は絶対に見せちゃいけない。泣きながらステージに立つわけにはいかないですからね。本当は必死だったし、けっこうキツかったな、とは思います。デビューできたのはすごくうれしかったけれど、ただよろこんでいるわけにはいきませんでした。プレッシャーよりも “もっとこうしなきゃ!”という焦りが大きくて、最初の1~2年は“いつか楽しめる日が来るように”と思いながらとにかく頑張っていました(笑)。


――実際に、その感覚が変わってきたと思えたのは、いつごろですか?


宇野:たぶん5年目くらいですね。自分のことを冷静に見ることができるようになってきたのが大きかったと思います。考えてみると、それまでは“私はもっとこうなりたい”“なんでできないの?”って、すべてが自分、自分だった。それが、もっと周りを見て、メンバーに対しては“もっとこうやってサポートしよう”と思えるようになったし、スタッフさんに対しても“この人のおかげで、仕事ができているんだな”と感謝できるようになって。そうすると、ファンの人たちの声もよく聴こえるようになるんです。そうやって、自分が描いていたものと、自分ができること、ファンの人が求めるものと、周りが認めてくれるところ……というのを、すべて受け止められるようになった気がします。


(取材・文=吉羽さおり/写真=竹中圭樹【D-CODE】)


・日高光啓「すごくいい時期にキャリアを積めた」


――音楽に興味を持って、アーティストを志したのはいつ頃ですか。


日高:音楽自体を始めたのは中学2年のときで、職業にしようと思ったのは高校を卒業してからですね。就職活動に近いテンションでしたけど。


――10代の頃から音楽を仕事として考えていた?


日高:そうですね。中学に入ったときに“プロサッカー選手にはなれないな”と思ったんですけど、そのときから視野や好奇心がどんどん広がりまして、それがいちばん注ぎ込まれたのが音楽だったんです。中学2年生のときから様々な分野の音楽に惹かれて、ダンスやラップにも興味を持ってたんですけど、いちばん熱中してたのはドラムで。高校時代もバンドをやっていて、すごく調子良かったんですが、大学進学のときに“バンドを続けるかどうか”という話になって、結局、ボーカルが落語研究会に入っちゃったんですね(笑)。バンドはなくなっちゃんだけど、自分としては音楽を作る仕事に就いたほうがいいなと思って。大学を卒業するときは22歳になってるから、その前に社会を見たいなと思って、音楽業界について調べたんですよ。で、MAX松浦(松浦勝人・avexグループCEO)という人に興味を持ったんですね。貸しレコード屋から始まったというのもそうだし、(メジャーのレコード会社では)唯一、一代目の社長だったから。いま考えてみると“イノベーターとして惹かれたんだろうな”って思うんだけど、とにかく興味が湧いたから、直接話を聞いてみたいと思って、オーディションを受けるに至りました。そのときは両方考えていたんですよね。もし受かったら表に出るんだろうけど、そこから転がって、何かしら音楽の仕事をすることになるかもなって。


――何がなんでもアーティストとして活動したい、というわけではなかったんですね。


日高:小室哲哉さんというスター・プロデューサーがいたことも関係してると思うんですけど、その頃は“誰かに見出されるのがゴール”という人が多かったんですよ。でも、それはちょっと違うなって思ってたんです。“歌が上手い”でも“超ルックスがいい”でも何でもいいんですけど、何か特殊なものを持っている人がメーカーなり事務所の人と出会って“こういう条件で一緒にやりましょう”というのが正しいはずなのに“シンガーになりたい”とか“ラッパーになりたい”っていうのはおかしくない? って。“そんなの、明日からなれるじゃん”って思ってたので。


――AAAのメンバーとしてデビューしたときはどんなビジョンがあったんですか?


日高:とにかく学ぼうと思ってたかな。百聞は一見に如かずって言うけど、ホントにそうだと思ってたから、制作物の作業工程とか、関わっている人の人数、その人たちが何をやってるかということまで、全部を見たいなって。だからデビュー当時はよく会社に行ってました。そこで極力たくさんの人と話をして……みんな仕事をしてたから、迷惑だったと思うけど(笑)。


――(笑)スタッフのみなさんも嬉しかったんじゃないですか?


日高:どうでしょうね? いまはアイドルブームだから、若い子が多いじゃないですか。僕らがデビューした当時、19歳、20歳くらいの子って少なかったんですよね。会社の人たちにとって僕はぜんぜん年下だかったから、おもしろがられてたかもしれないですけど。


――そこで得たのは、どんなことですか?


日高:消費する立場、供給する立場の違いですかね。当たり前ですけど、消費する立場の人って、世の中に出回ったものしか見れないじゃないですか。パッケージされた音楽しか聴けないし、情報が解禁されるタイミングまではその情報は生活のなかにないわけで。だけど供給する立場の人は、その前の段階でいろんな試行錯誤をしてるんですよね。計算され尽くされているようにも見えるけど、時間には限りがあるし、人間がやることだから、思い切りミスをしたまま世の中に出てしまうこともあるっていう。要は“裏側には絶対に人間がいる”ということですよね。


――19歳、20歳の頃にそこまで高いリテラシーを身に付けていて、自分がパフォーマーとして人前に出るときはどんなスタンスを取っていたんですか?


日高:いや、そこはもう全部つながっていると思ってました。当時の自分に聞いてみないとわからないこともあるけど、間に挟むものが多かれど少なかれど“発信するのは人間で、受け取るのも人間”というのは変わりないなって。だからこそ、ライブを大切にしてきたんですよね。ライブは間に挟むものがほぼゼロだから、いちばん正解に近づきやすいんですよ。正確に言えばゼロではないんだけど、ゼロに感じてもらう、もしくはゼロ以上に感じてもらう――“あなたは私の一部だ”みたいな――ことを考えるべきだなって。パッケージしたものを渡すときも、作り方ひとつ、言葉の使い方ひとつで、受け取られ方も変わる。ただ、5年前にいちばん届いていたやり方は、いまのいちばん届くやり方じゃなかったりするじゃないですか。僕、いちばん嫌いな言葉が“CDが売れない時代”なんですけどね。


――ただ、AAAがデビューした2005年以降、音楽シーンの在り方が様変わりしたのは事実ですよね?


日高:そうですね。ホントにラッキーだったなと思うのは、デビューしたのがCDバブルの時代じゃなかったってことなんですよ。CDがバカ売れしてた時代を知らないから、枚数が伸びないことに対しても、先輩たちとは感じ方が違うと思うんですよね。CDを出すことで、一生、生活していけるなんて考えたこともないので。ライブに対しても同じなんですよ。いまは“ライブでお金を稼がないといけない”というのがひとつの通念になってるけど、僕はそうじゃなくて“発信から受信までのプロセスをどう短くするか?”とうことを純粋に考えられたので。ホント、すごくいい時期にキャリアを積めたなって思います。


(取材・文=森朋之/写真=竹中圭樹【D-CODE】)


・與真司郎「メンバーはパートナーであり“戦友”みたいな感じ」


――まずはあらためて、與さんの音楽的ルーツから伺いたいと思います。最初に音楽に目覚めたのは?


與:僕の場合は歌ではなくて、テレビでダンススクールのCMを観て面白そうだと思い、親に連れて行ってもらったことですね。それが小学校5年生くらい。野球もやっていたんですけど、そこからダンスにハマって、中学3年生でオーディションに合格して。歌に興味が出てきたのは、レッスンを始めてからですね。


――DA PUMPに影響を受けたというお話も聞きましたが、どんなアーティストが好きでしたか。


與:DA PUMPさんもそうですけど、ジャネット・ジャクソンとか、歌いながら踊れる人たちのダンスは研究して、真似したりしましたね。ダンススクールで、年に何回かの発表会で、みんなで力を合わせて表現していくのも楽しかったです。


――なるほど。プロでやっていこう、と意識し始めたのは、どれくらいのころだったのでしょうか。


與:もともと芸能界にはまったく興味がなくて、普通にダンサーの先生になれればいいな、と思っていたんです。周りからは“オーディションを受けなよ”とずっと言われていたんですけど、“そんなのいいわ”みたいな感じで。ただ、avexのオーディションがあると教えてもらったときに、“ダンスだけでも可”となっていたので、一回だけ受けてみようかなと。それで合格して、レッスンを重ねることになりました。


――そんななかで、AAAとしてデビューすることが決まって。


與:もう昔過ぎて、当時どんな気持ちだったか、あまり覚えていないですね。過去のことはあまり考えないタイプなので、ちゃんと覚えているメンバーはスゴいと思います(笑)。ただ忙しすぎて、単純によろこんでいただけではなかったと思いますね。あ、漠然と“デビューしたら街を歩けなくなるのかな”と思っていたけど、実際は全然そんなことはなくて、“ああ、ここからスタートなんだな”と痛感したことは、よく覚えています。


――結成当時のメンバーの印象はいかがでしたか。10年経って、そのイメージは変わったかどうか。


與:けっこう変わらないかもしれないです。(浦田)直也くんはやっぱりリーダーで、最年長だし、みんなのお兄ちゃんみたいな感じ。ニッシー(西島)は昔から目立ちたがり屋だったので、ワイワイと楽しい人間ですね。日高は本当に頭がよくて、でも話してみると人間味がある。(末吉)秀太の情熱的なところも、昔と変わっていないかな。“一緒にがんばろうぜ!”って、ちゃんと言えちゃうんですよ。


――女子メンバーはどうですか?


與:やっぱり変わらないですね。宇野ちゃんは一見クールな感じだけど、すごく女の子らしいし、(伊藤)千晃は最後に入ってきたのにちゃんとみんなに合わせられる、気遣いの人だったりして。


――それでは、メンバー同士の関係性については、與さんから見てどう変化してきたと思いますか。


與:最初はグループとはいえ、競い合っていくライバルという感覚が強かったんですけど、今は個々に好きなこともやらせてもらっていて、お互いにいい影響を与え合うことができていると思うし、パートナーであり“戦友”みたいな感じですね。プライベートはあまり知らないし、遊んだりもしないけれど、現場で会うと楽しい。人生のなかで絶対に一緒にやっていかないといけない人たちというか、不思議な関係です。もちろん、最初のころはケンカをしたこともありましたよ。あ、でも日高とだけはないかも(笑)。やっぱりグループで一番温厚だし、強く意見を言っても冷静で。


――お互い刺激し合いながら活動していくなかで、つらい時期もありましたか。


與:最初の5~6年は、もうホンマに大変でしたね。16でデビューして、毎日、仕事の現場と家の往復で、“休みをくれ!”と(笑)。青春時代をAAAに捧げた感じでしたね。みんなもそうだと思うんですけど、一日一日をクリアしてくことが再優先で、先のことなんて考えられませんでした。


――当時に比べれば、今は余裕が生まれていると。


與:そうですね。7年目くらいから、1年に何回かは1週間くらいの休みをもらえるようになって、仕事で切羽詰まっても、いい意味での“逃げ道”ができたというか。もちろん、仕事は大好きだし、“解放された”みたいな感じではないんですけどね。


――ちなみに、オフはどんなことをして過ごすんですか?


與:実家でゆっくり、というメンバーもいますけど、僕は海外旅行ですね。休みになったら、すぐに海外に行ってました……って、今は海外に住んでいるんですけど(笑)。


――今年からアメリカ・カリフォルニアの大学に留学されていますね。そのエピソードも、ぜひ伺いたいところでした。


與:もちろんAAAの活動を続けながらですが、2~3年前からどうしてもアメリカに住みたくて。日本でつらくなったとき、ストレスが溜まったとき、それを海外旅行で発散していて、色んな国をひとりで回ったんですけど、行き着くのはやっぱりアメリカ。それで、どうせ住むんだったらチャランポランに生きるんじゃなくて、きちんと何かを学ばなければと思って、エンタテインメントを学べる大学を受けたんです。日本と行ったり来たりでけっこう大変ですが、楽しくやっていますよ。


【3人のインタビューの続きは『AAAぴあ』にて】


(取材・文=黒田隆憲/写真=竹中圭樹【D-CODE】)