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『バットマン vs スーパーマン』賛否両論を巻き起こした要因は? DCコミックスの狙いと裏テーマを考察

2016年03月31日 12:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC., RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC AND RATPAC ENTERTAINMENT, LLC

 最大の人気を誇るアメコミヒーロー、スーパーマンとバットマン。彼らがとうとう対峙し、拳を交える。アメコミ映画ファンならずとも興味を惹かれる「世紀の対決」を描くのが『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』だ。本作は批評家や映画ファン、コアなアメコミファンなどで賛否両論を巻き起こしている話題作だ。今回は、そのように意見が分かれる状況や、両者の対決の裏に潜むテーマについて考えていきたい。


参考:『ヘイトフル・エイト』は何を告発するのか? タランティーノ最高傑作が描くアメリカの闇


 アメコミ(アメリカン・コミック) 出版社の二大巨塔といえば、スーパーマンやバットマン、 ワンダーウーマンなどの権利を持つDCコミックス、 スパイダーマンやキャプテンアメリカ、アイアンマンなどの権利を持つマーベルコミックスだ。それぞれの人気作品は、今までに何度も実写映画化されてきた。近年、サム・ライミ監督の『スパイダーマン』の成功、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』の成功など、優れた作品によって、それぞれのアメコミヒーロー映画は相乗的に人気を増していった。


 そのようなアメコミ映画追い風の状況で、マーベル・スタジオは、異なるコミック作品がクロス・オーバーした世界を、実写映画でも応用して描いていくという壮大な企画「マーベル・シネマティック・ユニバース」を展開した。この企画の商業的成功に対し、DCコミックスが同様の企画で対抗しようというのが、本作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の第一の狙いだろう。スーパーマンとバットマンという、DCコミックスの二枚看板を対決させ、そこからDCコミックスにおけるクロスオーバー世界「DCユニバース」の映画版である、正式名称「DCエクステンディッド・ユニバース」に繋げようというのである。そこで今後描かれていくのはもちろん、DCヒーローの混合チーム「ジャスティス・リーグ」の活躍であろう。じつは、今までにコミックのなかでは、スーパーマンのシリーズ、バットマンのシリーズ、「ジャスティス・リーグ」シリーズなど、何度もスーパーマンとバットマンは顔を合わせ、ときに戦闘をしている。その意味では、今回の対決は必然的といえるかもしれない。


 スーパーマンの新たな実写映画『マン・オブ・スティール』、そして本作と、コミック作品などの映画化で力を発揮してきたザック・スナイダー監督が演出を務めているが、ここまでの基本路線構築に大きく影響を及ぼしたのは、やはりクリストファー・ノーラン監督のバットマン映画『ダークナイト』であると考えられる。バットマンはもともとダークな雰囲気を持つ作品だが、ノーラン監督がそこに加えたのは、圧倒的な「リアリズム」だ。ドキュメンタリーのような映像の中で、ヒーローを現実的な舞台に置いてみるという試みは、純粋に映像作品としても実験的であり、近年のヒーロー映画のなかでも、とくに注目すべきものに仕上がっていたといえる。このリアリズム路線が、『マン・オブ・スティール』以降のDC映画に適用されることで、コミカルな魅力を残したマーベル映画シリーズと一線を画す、シリアスな世界観を構築したのだ。


 『ダークナイト』の支持は多いが、より明るい雰囲気を持つはずのスーパーマン映画『マン・オブ・スティール』までが、このシリアス路線を踏襲したことで、異を唱えるファンも多い。だが、このことによって、DC映画、マーベル映画の雰囲気が決定的に差別化されたという意味では、それぞれが共存共栄することが可能になったともいえるかもしれない。この流れは基本的に維持されると考えられるが、「DCエクステンディッド・ユニバース」上に加えられることになる実写映画『アクアマン』を担当しているジェームズ・ワン監督は、そのなかでも楽しさを加えていくとインタビューで語っており、遠くない未来、この路線に変化が加えられていく可能性も大きい。


 さて、このようなシリアスさを継続した『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』は、楽しい映画を望む一部のアメコミ映画ファン達の期待を裏切る一方で、もちろん、シリアスに徹したからこその魅力もあり、一方では強い支持も受けている。


 ベン・アフレック演じる、バットマンの正体である大富豪・ブルース・ウェインは本作で、『マン・オブ・スティール』でのクライマックスの戦闘の現場に居合わせていたことが判明する。人間の限界をはるかに超えた戦闘を見上げるウェインの姿は、もはや一般人と変わりがない。それほど、スーパーマンの力は強大なのである。ここで描かれるのが、実際のアメリカ同時多発テロ事件を想起させる、高層ビル倒壊の風景だ。本作はここから、スーパーマンとバットマン両者の姿を象徴的に描きながら、アメリカの現在の姿について総括をしていく。


 本作で描かれるように、スーパーマンの力は全世界に及んでいる。そして、ゾッド将軍のような、個人で都市を壊滅させられる強大な敵にすら対抗することができる。火事に巻き込まれた少女を助けることも、他国の要人を暗殺することも可能なのだ。スーパーマンを象徴するのは「力」そのものである。彼は都市を救ったことで英雄になっていたが、同時に、大規模戦闘によって多くの犠牲者を生んだことで恨まれてもいた。都市破壊に至るそもそもの原因も、スーパーマン自身にあるのだ。対してバットマンは、私費を投じて、個人で街の自警活動をする存在だ。スーパーマンの力の強大さを目の当たりにして以来、次第にスーパーマン脅威論にとらわれていくバットマンの保守的な「正義」は、暴走を始めていく。


 ここに登場するのが、スーパーマンの宿敵、大富豪・レックス・ルーサーだ。彼もブルース・ウェイン同様、スーパーマンの力を脅威に感じ、スーパーマンの行動を監視しながら、秘密裏に地位を剥奪するべく暗躍し、他国での虐殺事件にスーパーマンを関与させようとする。その巨大な財力によって、政府すら操ることもできる強大な権力を持つルーサーは、自分を超える新たな「力」が邪魔なのだ。そして周到な計画によって、スーパーマンとバットマンを同士討ちさせるシチュエーションをプロデュースする。


 この一連の流れは、同時多発テロ事件以後の現実のアメリカの姿の象徴でもある。強大な軍事力を持つアメリカは、「テロ事件と結びついているのはイラク政権であり、彼らは危険な大量破壊兵器を持っている」という情報により、イラクに攻め込んだ。だが、今ではその情報は誤りだったことが明らかになっている。テロ事件を中継で見たことで、兵士になることを決めたアメリカの若者は多いという。イラク戦争では、敵・味方ともに多数の死者を出したが、その戦いの根拠自体が「嘘」だったのだ。その責任は、もちろん迅速な報復を望んだ一部のアメリカ国民達にもある。しかし、一般のアメリカ国民自身も戦死のリスク、傷病のリスク、家族を失うリスクを支払っていることは確かだ。では、いったい誰が一番悪いのか。それは、戦争を始めることで利益を生む人間、具体的には、軍需産業を生業とする企業であり、利益を共有する議会や国防総省によってかたちづくられる「軍産複合体」である。アメリカの軍事力の源泉となるのは、国民一人ひとりだ。だがその「力」は、一部の人間の利益のために利用されてしまったのである。


 本作から感じられる凄みは、スーパーマンに代表される「力」や、バットマンの「正義」の心が、卑小な悪によって踏みにじられ、利用されてしまうという悲痛な姿を、ユーモアをほぼ排しリアリズムに徹して描くことで、アメリカの罪と悪を告発したところにあるだろう。だが、一度は失墜した正義も、堕落した力も、国民一人ひとりが学び、正しい方向に力を向けようとする心がある限り、それらは何度でも復活するのである。コミックの要素を散りばめながら、ここまで見事に痛烈で感動的なオリジナル脚本を作り上げたというのは見事だ。そして、ここまで知的に、そしてシリアスに脚本を構築しながら、クライマックスからは、ひたすら派手なパワーバトルが展開される。そのものすごい知的ギャップからくる、こちらの頭がおかしくなりそうな激烈な楽しさというのは、やはりDC映画のシリアス路線あってこそだろう。(小野寺系(k.onodera))