2016年03月30日 11:11 リアルサウンド
■<やっと「刑事と犯人」から解放(笑)>と書いた次の回で(笑)
すっかり刑事と犯人が戻って来たばかりか、今度は検事から悪徳マスコミ、巨悪の政治家まで押し寄せて来まして(笑)、しかもですなあ、今までワタシ観て来た韓国ノワールの中でも、単純に暴力性と凄惨さの数値はおそらく最も高く、『キック・アス』『キングスマン』『ヘイトフル・エイト』等々を「こんなに暴力性が高くなくても映画として充分成立する」と査定する立場の者(勿論「暴力性ちょうどいい、もしくは足りない」という立場もあるでしょうから、誰が正しいという訳ではありません。ラーメンの好みの様な物でしょう。因に『ヘイトフル・エイト』はフランスでは カトリック系団体から上映禁止を求められたと記憶しています)から見ても、「大傑作」と言うにまったく吝かでない、という、トンデモないのが出て参りました。
とはいえワタシより更にさっぱり系がお好みで、血とか怖いわ~、でもビョン様(イ・ビョンホン)が出てるから、、、、、といった熟ヨジャ韓ペン(「韓流ファンの、ご年配の女性」の意)の皆様に、暴力描写のコンテンツを先にお知らせしてしまいますとですな
1)そもそもビョン様の片左の手首は、映画の冒頭からありませんが、これは、ギロチンみたいのでスパンと切り落とされたのではなく、造園とかちょっとした部屋のリフォームとかに使う、イトノコという道具がありますな。アレでギコギコとゆっくりゆっくり切り落とされた物です。
2)その際、ビョン様は既にグジャグジャに暴行を受け、椅子に縛り付けられているのですが、黒目も白目も出血していて、「片目が全部真っ赤」という、「リンチされた男」の特殊メイクが施されています(日本映画には望むべくもない、物凄いリアル。アメリカ映画ですら滅多に見ない)。
3)最後、ビョン様はポクス(復讐)を果たし、悪者の手首を切り落としますが、これは、イトノコこそ使わない物の、ハンディサイズの斧でいきます(涙)。勿論、一撃では手首は落ちません。お肉屋さんのようにガツンガツンといきます(涙)。
と、今、主演のビョン様周りだけに絞りましたが、これがこの作品の残虐描写平均値です。因にヴァイオレンスの対偶にある「エロ」も、かなりコッテリした描写――一般映画なのに、「抜けてしまう」可能性まで充分あるーーが出て来ます。
ワタシはこの連載で「日本のギャング/ノワール映画に於ける<銃と札束>の扱いが、米韓に比べると、パーティグッズの様なオモチャ感がある」ことを指摘してきました。(参考1:菊地成孔の『セーラー服と機関銃 -卒業-』評:構造的な「不・快・感」の在処/参考2:韓国ノワールはなぜ匂い立つほどリアルなのか? 菊地成孔が『無頼漢 渇いた罪』を解説)
この事の原因は、単純に日本が銃社会ではなく、貧困も(米韓に比べれば)少なく、ゲトーやスラムも無く、何せ軍が無く、自動的に兵役も無い、なんだかんだで豊かで穏やかで反戦的な国である。という事で、もう総てが説明されてしまいそうですが、それはあくまで社会的/文化的な背景を述べているだけで、「映画に於ける欲望」という芯は喰えていません。
とはいえ、そこまで考察していると一冊の本になりかねませんので、本稿では深入りはしませんが、とにかく本作の「暴力/残虐」の描写は(エロも)凄まじく、R-15で大丈夫かな?まあ大丈夫か。といったほどなのですが、話をまたしても一般化し、「映画に於ける銃に関して」に戻します。
■映画に於ける銃に関して
とにかく、どんな映画の、どういうシチュエーションであれ、チャカが出てしまった段階で、言ってみればそこで<対立構造の緊張感>は原理的には終わりな訳で(「セーラー服と機関銃ー卒業ー」の最後の方に書きましたがピストルはフロイド的にはペニスですから、恋から発展するセックスシーンで、ペニスが出てきた段階。と言えます)、あとは、よっぽど凝った「銃扱い」(例えば、銃を持ったことがない子供や女性が、初めて銃を手にしているので、ちゃんと撃てるかどうかわからない。等々)をしない限り、脚本の力が及ぶのは「引き金を弾かない理由」と「弾が当たらない理由」しかありません。
これはマイナス方向のベクトル固定(所謂「引き算」とも違います)であって、この状態は一般的に自覚は難しく、映画の中の銃の扱いに限らないですよね。「今、自分はマイナスベクトルに固定されている。ので、どうするべきか」と、強く自覚して行動された経験は皆さんも余り無いと思われます。
それに加えて前述の「社会の中の暴力も、銃の存在も」どちらも弱い我が国でドンパチをやろうとしたら、高い確率でパロディというか、絵空事というか、要するにパーティーグッズになってしまいます(「腕利きスナイパー」が使う、軍用っぽい凄いライフル。みたいのがありますが、あれは意味が別です。あれは言わば、<弓>のメタファーですね。日本映画であれの描写が上手いのは、やっぱ弓の伝統があるからだと思われます)。
それに被せて「マイナス方向のベクトル固定を自覚する困難さ」があるので、結果として「バンバン撃ちあうけど、主役には(何故か)弾が当たらない」「(何故か)気圧されて引き金が引けない悪者」「引き金を引く前に、昂揚してひと演説ぶってる間に後ろから来た援軍に殺される悪者」等々、予定調和的なシーンが量産されるだけで、あんまり丁寧な仕事がなされません。
これは、「牧歌的な西部劇が量産された頃のアメリカ映画」が一方の雛形になっているのですが、これまた深追いは止めておきます(そうでなくとも「長い」「クドい」「括弧が多い」とネチズンの皆さんからクレームを頂き続けているので、今回は頑張って短く書きますねウッソぴょーん)。
んで、この事(銃や札束のパーティーグッズ化/銃撃戦に於ける書き込みの空洞化)は、映画的には、まあ、100%とは言わないまでも「悪い事」に含まれざるを得ないですね(そういう、ガラパゴス的な発達がアイデンティティから様式美まで昇華される事もありますし→歌舞伎に於ける「大立ち回り」等々)。また、一般社会的にはどうかと言えば、これまた100%とは言えませんけれども、「良い事」に含まれざるを得ないですよね(後述しますが、銃が無いと、殺傷が周到もしくは大掛かりに成るので)。
いずれにせよ日本映画に於ける「銃」が、機種などの具体性を持ったピストルであっても、レーザー光線銃と変わらないファンタジー上の産物化しやすい事。そこはまあ良いとして、何せ、銃が無い事は軍が無い事と核が無い事と繋がっているのは言うまでもない訳ですが、その先が問題、、、、、とはいえこれも深追いしません。
■それならば日本の「リアル殺傷道具」は?
こらもうナイフと車とSNSで決まりですね。秋葉原のあの事件は、その全てを使用した。と言う事もできますし、脱法ハーブ(「危険ドラッグ」という言葉は、自明過ぎるわ日和見過ぎるわでアホらしいのでワタシは使いません)をキメて車に乗り、人を次々と轢き殺しながらぶっ飛ばす、というのは、やった奴らは全員「最高」と言いますし、よしんばドラッグ使わなくても、「車が殺傷道具になる/ならざるを得ない」リアルさに疑問を持つ方はいらっしゃらない筈です。
しかしですね、一般社会の事ではなく、日本映画の中で、サヴァイヴァルナイフから文化包丁まで、ナイフ全般と、トラックから小型自家用まで、車を使って人を殺す描写に関して、身も凍るほどのリアルなのって、観た事あります? 不勉強ながらワタシありません。「誰彼のアレは、車で挽き殺す描写ヤバいよ」みたいなのがあったら、ご教示いただきたいです。ただただエグいだけとか、猟奇殺人の犯人が使う、みたいなのはダメですよ。リアルの話です。「これリアルだよ~。やだよ~」という奴ですね(『夜叉』で、ビートたけしが振り回す出刃包丁や『青春の殺人者』で水谷豊が使う果物ナイフとか、ああいう奴の事です)。
しかしこれは、「社会現象の一端が映画にどう取り込まれるのか?=映画の欲望」というステージの問題であって、ひょっとしたら日本は、よしんば将来、銃社会が来たとしても、映画の中の銃はパーティーグッズのままかも知れない。問題はやっぱり、欲望なんです。(「70年代以前」は別です。というのは「敗戦トラウマ」という、強烈で異形の欲望が日本映画界に残存していたので。この話もとても重要なのですが、話がぜんぜんビョン様の映画にならないので深追いはしません3もしくは4)
■とさて、プロレスのヒールの様な気分で、敢えてこんなに長々と「銃」の話をし続けたかと申しますと
なななな何と、この映画には銃が一瞬も出て来ません。そして、それによる不自然さ。も全くありません。
これは、一瞬、驚くべき事であるかのように思われますし、実際ワタシも初見時は、のけぞるほど驚きました。「あっれ!とうとう出て来なかったよ!!銃!!」といった感じで。
しかし、ちょっと考えればすぐに解る事ですが、「韓国は、実のところ、合衆国ほどは銃社会ではない」という点、そして何よりも「それでもしかし韓国には、リアルな暴力や残虐を描きたいという、映画の欲望が漲っている」という事ですね。やっぱり、欲望なんですね、問題は。
本作を律する瑞々しいまでの知性と誠実さは、この事(激しいバイオレンス映画なのに、銃が出て来ない)によって証明されています。
■コリアン・ホット?
本作の原作は「ウエブ漫画」です。毎度毎度しつこくて申し訳ありませんが、ワタシはジャパンクール一般をほとんど嗜みません。なので、「ウエブ漫画」なるものが、我が国に存在するかどうかも知りません。
ただ、韓流ドラマを観ていると、主人公が「ウエブ漫画家」だったり、漫画喫茶の描写が「書籍の格好に成っているのは日本の漫画。韓国産の漫画は、絵やストーリーこそ日本の漫画のなぞりだけれども、ウエブに直接デジタルで書き込むスタイル」だったりして、「ウエブ漫画」が、どうやら韓国での漫画文化のメジャーなのだという事がうっすら伝わって来ます。
バイオレンスバイオレンス書いて来たので、肝心要のストーリーですけれども、これは非常に凝っていて、松本清張の政治物の水準と言うか、「韓国でさえ、こうした物語を精緻に書くのは最早小説ではなく漫画」という現象が進んでいる事を示していると同時に、既にK-POPによって知っている事とはいえ、韓国には韓国なりのサブカル/エンタメの発達があるのだな。と思わざるを得ません。
タイトルが示唆しているんですが、一言で書くと「腐敗しきった巨悪を倒すのも、暴力団同士の抗争も、どんな闘いも、勝利の方程式は<一度、敵の内部に入って裏切る事>である」という事です。
このテーマが、ややもすれば振り落とされそうに成ってしまうほど展開の多いストーリーを貫通することで、物語の同一性を保ち、この種の物語に完全搭乗するのが苦手な方でも、悠々と乗りこなせるようになっています。もうちょっとチラ書きしてしまうと、腐敗した巨悪や、手を切り取られるほどの暴力が渦巻きながらも、本作は、呪いや怒りのカタルシスだけでオーガズムに達するイージーさを徹頭徹尾避けています。
と、これ以上は書けませんが(ネタバレの嵐ですし、何せ宣伝側の売りは「ラストの大どんでん返し」なので)、この映画は、そこまで知的で誠実で、情熱とテーマ性に満ちあふれているというのにも関わらず、結局のところ
■ビョン様の大スター映画
なんですね。ここが凄い。普通だったら、「あの大スター、イ・ビョンホンですら、物語の駒のひとつとなって、リアルな演技を見せ、作品の風格を支えた」ぐらいでもバチは当たりません。それほどしっかりした作品です。
しっかしもう、これが『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジョニデや『MI(ミッション:インポッシブル)』のトム様もかくやというほどの一枚看板なのよ(笑・因にビョン様はデップやトミーの7つ下ですが)。ペン必見。でありながらペンには刺激が強すぎるか。といったアンビバレンスで、結局ペンをびしょびしょに身もだえさせてしまうという構造です。
(もう全然関係ない話なんで段落変えたカッコ。という例外的な書記法を使いますが、ビョン様の英語力は我らがケン・ワタナベに匹敵、というか、ケンよりちょっと上手いぐらいで、今年のアカデミー賞の「外国語映画賞」のプレゼンターを、スペイン語圏であるコロンビアの女優、ソフィア・ヴェルガラと2人で務めましたが、ベルガラが開口一番「ブエナスノーチェス」と挨拶したのに対し、ビョン様はすぐに流暢な英語でスピーチに入ってしまいまして、ワタシは「ビョンちゃん!ここはソフィアに続いて「アンニョンハセヨ」と、クールな声で言うべきだろうがよアカデミー賞で!!」と、思いっきり指差しダメ出しをしてしまいました)
■そして、更に驚くべき事には
前述の通り、デップ、トムよりも7つ下、今年46歳になるビョン様が、本作でロールモデルにしているのが、『傷だらけの天使』のショーケンや水谷豊、『太陽にほえろ!』のショーケンや松田優作、『股旅』のショーケン、『青春の蹉跌』のショーケン、と、結局ショーケン一点張りである事なんですね。ワタシこの事にビックリしている間に銃が出て来ない事に気がつきませんでした。
デップが『パイレーツ』で、キース・リチャードをロールモデルにしたのは、今年のグラミー賞授賞式での「ハリウッド・ヴァンパイアーズ」(ロック好きのデップが、ハリウッドで遊んでいるレジェンダリーなハードロッカー達とつるんでーー酒とかいろいろな物を奢ってやってーー行くうちに結成されたバンド。デップはサイドギターとサイドヴォーカル。ディスではなく、微笑ましいレヴェルで、端的に言ってヘタ・笑)の、嬉しいとも、ヤバいとも、笑えるとも、なかなか辛いとも言える、無邪気なライブを観るまでもなく、ある意味で順当すぎる事です。これほど本人がロック好きで、ジャック・スパロウはちょっとゲイっぽいコミカルなグラムロッカー的なキャラですからね。それにデップはある時期から「役作り」と「コスプレ/キャラ設定」が液状化した俳優です。
でも、ビョン様突如のショーケン・セヴンティーズ化には流石に驚きました。韓国のあらゆるエンターテインメントが、日本のそれを目標に、追いつけ追いこせでやってきた事は、20年前と言わず、10年前の韓国の音楽やテレビ番組を振り返ればどなたにでも瞭然とされる事です。
しかし、もうそんな時代でもなく成って来た頃、である今、どっちかっつうと役作りの作法が、デップ的なカリカチュアされたコスプレ感ではなく、「いつでもどこでも俺」的な風格と「きちんとした役作り」が同居している、要するにスター俳優の平均的なスタイルだったビョン様突如のショーケン・セヴンティーズ・リヴァイバル、しかもプレスキットには「衣装(アロハとスカジャンからピエール・カルダン風のスリーピースの使い方絶妙。今これが流行ってる感ではなく、ショーケン完コピ)からヘアメイク(パーマロンゲのオールバックと、ストレートショートの固すぎないオールバックやはり完コピ)まで、総てビョン様がご自分で決めた(因に、偽闘のムーヴも心無しか似ています)」という事件の新鮮さはハンパなく、しかし「これは、過去のインタビュー等に当たれば、驚くべき事ではない。彼は端的に萩原健一氏の熱狂的ファンである」という事なのか、はたまた、<コミカルでクールなチンピラ像>として、あらゆるものがコンテンツ/ネタ共有化した世界で、ショーケン・セヴンティーズがチョイスされ、サンプリングされたのか、不勉強ながらワタシ、まったく解りません。因みに、本作では一貫して全羅道(チョルラド)の方言で演じられています(再び因みに、ビョン様はソウル生まれです)。
■結局もう大ヒットですよ
ビョン様と並び、「四天王」と言われた、ウォンビン、ぺ・ヨンジュン、チャン・ドンゴンが、ほとんど俳優としての活動をセミリタイア状態にしている現在、ビョン様だけがハリウッドに進出、ヨーロッパでも評価され、ご結婚、直後に何か奇妙なセックススキャンダルで訴えられる(結局シロ)等々、ここに来て目覚ましい旺盛さで活動するエネルギーは前述の、我らが渡辺謙氏にも似て、40過ぎてからの成熟と更なる冒険という(ビョン様は重病の克服、がありませんし、渡辺謙氏は訴訟騒ぎはあったものの、セックススキャンダルではありませんでしたが。念のため)、非常にポジティヴでヘルシーな、攻めのライフスタイルを見せていることが、韓国の映画界の成熟、前述のコリアン・ホットの充実、といった状況とがっぷり四つに組んだ形の、非常に幸福な状態を本作は記録しています。
何せ本作は、R指定作品としての興収をガンガン塗り替えて、とうとう「アジョシ」「チング」といった歴代ナンバーワンヒット作をも追い越して興収歴代ナンバーワンに輝き、50分長いディレクターズカット版が更にチャートアクションする。という、とんでもない事に成っています。
主人公の片手がイトノコで切り取られる、銃の出てこないヴァイオレンス映画という斬新さ、韓国社会に蔓延する政府やマスコミへの深い怒りと、「すべての亀裂は、内部の条件によって完成される」というテーマを紙に書いてから原作の作画に取り掛かったという原作者の批評精神、その原作を換骨奪胎させた監督、脚本のクールさが渾然一体となった傑作で、そういう作品が(だからこそ)ナンバーワンヒットになる、という「ちょっと古臭いぐらいの真っ当さ」こそが、我が国の外側を取り囲むリアルだと言えるでしょう。
韓流ペンの皆様には言わずもがなのスタッフ一覧を書きますと原作者は『黒く濁る村』『ミセン-未生-』のユン・テホ、脚本と監督は、『スパイな奴ら』でニュースパイムーヴィーを確立させた智将ウ・ミンホ、優しい善人しか演じたことがないあのペク・ユンシクが初の体当たりド悪役、ビョン様とダブル主演となるチョ・スンウは「とてもじゃないが僕向きの役ではない」と断り続けた末に出演を決定、新境地を見せています。撮影は『悪いやつら』のコ・ラクソンが彼の判断でヴィスタサイズを選択、美術監督はあの『ベテラン』『監視者たち』のチョ・ファンソン、擬闘監督は『アジョシ』のリアル・アクション派パク・ジョンリュル、音楽は『ベルリンファイル』を乗りこなしたチョ・ヨンウク、と、もうこれは総力戦である事がわかります。
■そして問題は
これはワタシ自身の問題でも、日本映画界の問題でも、日本社会の問題でもありますが、よくある、部外者からの「それって日本でいうと誰と誰のこと?」という質問に対して、ワタシが完全な無力であること、更には、おそらくワタシ以外の職業批評家の方々でも無理であろうこと。です。文化的なタコツボ化大いに結構、俺と関係ねえジャンルの事なんかどうでも良いよでOKの世の中です。しかし、欧米や中東やアフリカなどの映画を観て「外国は日本と違うなあ」と思うのと、大韓民国の映画を観て同じように思う事に差がある、という事なのだとしたら、それは差別だとか、隣国とありがちな事だとか、右だとか左だとかマッチョだとかオタクだとかいうレヴェル以前に、ほんのちょっとした勇気の問題だとワタシは考えます。我が国の現在の興収1位は『ドラえもん/新・のび太の日本誕生』、歴代1位は『千と千尋の神隠し』です。是非本作と見比べて頂きたい。またタコツボに戻るとて、有害な偏見も、有害な自尊心も、有害な自負心も、有害な差別心も消える筈です。