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『断食芸人』が映し出す“現在の日本”と、俳優・山本浩司の“何もしない演技”

2016年03月23日 08:52  リアルサウンド

リアルサウンド

c2015「断食芸人」製作委員会

  映画はおおよそ撮影から1年ぐらいの時間を経て、ようやく公開の時を迎える。制作したときと、公開までは当然、タイムラグが生じる。にも関わらず、公開の時、そのときまさに旬となっている話題や事件に、内容が重なってしまう作品が時折出てくる。まるで何かそのときを待ち狙っていたかのように……。2007年の『幽閉者 テロリスト』以来になる足立正生監督の新作『断食芸人』は、まさに“現在の日本”に奇しくも合致してしまった1作といっていいかもしれない。


参考:想田和弘監督『牡蠣工場』が切り取る日本の闇ーー働く現場を“観察”して見えるもの


 今はSNSで誰もが気軽につながることができる一方で、知らぬ間にトラブルに巻き込まれる時代。ひとつ問題を起こせばすぐに世間の好奇の目にさらされ、容赦なく断罪される。ひとつのトラブルが命取りになり、許されない。特に著名人への風当たりは加速度を増しているような気がしてならない。今年に入って起きたスキャンダルの反応はそれを物語っていると思うのは自分だけだろうか?


 ゲス不倫にゲス議員、麻薬での逮捕に経歴詐称……。標的になった人物はことごとく吊るし上げられた。事が事だけに彼らに同情する余地もなく、擁護するつもりはない。ただ、こうも思う。“当人たちが社会から完全に抹殺されて、姿を隠すしかなくなり、何も言えなくなってしまう社会がこのまま進んでいってしまって果たしていいのか”と。


 足立監督の『断食芸人』が突くのはまさにそこ。カフカの原作をベースにアイロニーとユーモアをもった語り口でひとつの寓話に仕立ててはいて、一瞬、奇天烈なカルト映画に思えるが、実はどっこい社会派。ポップな口調を隠れ蓑に日本の今をぶった斬り、まるで今の日本にたちこめる、なんともいえない不自由な空気を予見したかのように映し出す。有名人に祭り上げられた断食芸人の体を借りて。


 シャッターが下りた店舗も目立つアーケード商店街に、ひとりの男が現れ、閉まった店の前でへたり込む。そこを通りかかった少年が何の悪気もなくSNSに写真を投稿。すると瞬く間に彼の情報が拡散され、誰が呼んだか男は断食男と祭り上げられる。男は何ひとつ語らない。すると周りが勝手に彼のことを解釈し始める。ある者は“これは今の社会に対する怒りの行動”と叫び、ある者は“単に有名になりたいだけのこざかしい行為”と断じる。それでも男はなにも語らない。すると周り反応はさらにエスカレート。侮蔑した汚い言葉を投げつけるものもいれば、現代の“神”と崇める者も出てくる。さらには政治利用しようとする者もいれば、勝手に男に集まってきた寄付金をふんだくる者も出てくる。本人の都合など構いなしで、時に多くの人間が押し寄せる。かと思えば、賞味期限が過ぎれば次には一気にひいていく。
 
   この過程たるや今年に入っておきたいろいろなスキャンダル報道の一連の流れを一部始終再現したかのよう。何かのデジャヴが起きたような錯覚に陥る。そこからは否定しようのない、一瞬の熱狂によって見境がなくなった人間の下劣さ、愚かさ、卑劣さが露呈する。それは一方で自分が自分でいるために、いまどれだけ困難な状況かを物語ってもいる。さらに言えば、足立監督は、そこに戦争や原発事故を事象としてさりげなく差し込む。そう考えると、この作品は“日本の国民性”について言及した1作といってもはなはだ間違ってはいない気がする。


  それにしても断食男を演じた山本浩司がいい。例えば『魔女の宅急便』のおソノの旦那のフクオ役であったり、NHKのドラマ『外事警察』の大友役であったり、メジャー作品でも欠かせない俳優になっている彼だが、ここでは何の感情も露わにしない、文字通り、ただそこにいるだけの男としてそこに存在している。“ただそこにいる”というのは簡単なようでいて、実は難しい。たとえば自分と照らし合わせたとしても、人は誰かと向き合ったとき、少なからず何かを演じている。役者という仕事を生業にした人間ならばなおさら。何かを演じることに全力を注ぐことを基本にしている彼らにとって、実は“何もしないでくれ。芝居をしないでくれ”といわれるほどぐらい辛く、戸惑うことはない。感情をストレートに出して表情豊かに演じるほうが、おそらく気持ちがいいし、“役を演じきった”という手ごたえもある。


  だから役者は基本的にどんな役でも表現しようとする。その演じるということの中には、自己アピールも入っている。それは何も悪いことではない。やはり役者だったらその役を輝かせたいと思わねばならないし、その演技を認めてもらいたい。認められなければ次の声は決してかからない。キャリアにのちのちにつながっていくのだから、多少なりとも前に出ていかないと、という気が出るのは当然で、自分をPRすることも役者には大切な仕事だ。


  その中にあって山本浩司という俳優は、役になにも足さないでただそこにいるだけのことができる稀有な存在だ。ある種の天賦の才。奇跡の役者といったら言い過ぎか。己の欲望や欲求をすべて捨てられる。ここはこうしたら役がもっとよくなるのではないかといった色気や役者としてのサービス精神も封印して、余計なことは一切しない。それができる。


  今回の断食男役で、彼はただただそこにいつづける。悪夢にうなされることはあっても、それは内面であり、外に何か感情を発露することはない。傍から見ると、とらえどころのない男を苦も無く、自然にかといって存在感がないわけでもなく、空気のように体現してみせる。ここで見せる彼の演技にみえない演技は、どこか無名の人として存在し続けていた山下敦弘監督の初期作品『どんてん生活』や『ばかのハコ船』といった作品を想起させる。そういう意味で、山下監督作品を通ってきた人にとっては、あのころの山本浩司にどこか出会ってしまったような妙な感覚に陥るかもしれない。そんな楽しみもあることを付け加えておきたい。(水上賢治)