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『家族ノカタチ』最終回は“家族関係”をどう描き切るか? 香取慎吾のモノローグから考える

2016年03月20日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)タナカケンイチ

 ドラマ『家族ノカタチ』(日曜22時~/TBS系/全10回)が3月20日、いよいよ最終回を迎える。結論から言うならば、このドラマ、何気に筆者が毎週楽しみに観ていたドラマのひとつであり、その最終回には相当期待している。以下、その理由について書いてみたい。


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 さて、本作に主演している香取慎吾の役者としてのキャリアがいかに異彩を放つものであり、そのなかにあって本作がいかに特別なものであるのかは以前書いたけれど(参考:SMAP・香取慎吾はリアルな独身男性をどう演じるか)、それを端的に言うならば、「リアリティ」の問題なのである。『こち亀』の「両さん」、あるいは『忍者ハットリくん』、はたまた映画『ギャラクシー街道』の某主人公など、ある種極端にデフォルメされた非日常の「キャラクター」ではなく、あくまでも「等身大の人物」を演じていること。さらに言うならば、「39歳独身」という実際の香取のプロフィールとも重なる役柄が、本作の場合、かなり珍しいことであるように思われたのだ。


「俺だけの城、俺の時間と金を、俺の好きに使い、俺のペースで生きられる。35年ローンで手に入れた、俺ひとりの空間。昔、メレディスという人が言ったという。40歳を過ぎると男は自分の習慣と結婚してしまうのだ。俺、まだ39だけど」(第2話)


 とはいえ、タワーマンションの一室を購入し、こだわりに満ちたシングルライフを満喫している「39歳独身」のサラリーマン「大介(香取慎吾)」のもとに、ある日、長らく会っていなかった父親「陽三(西田敏行)」が、その連れ子「浩太(高田彪我)」とともに転がり込み、そのまま居ついてしまうという設定。そして、大介の住む部屋の真上には、本作のもうひとりの主人公であり、同じようにシングルライフを満喫している商社勤務の「32歳独身(バツイチ)」女性「葉菜子(上野樹里)」が住んでおり、その彼女のもとにもまた、夫との別居を決めた母親「律子(風吹ジュン)」が転がり込んでくるという設定は、それほど「リアル」なものではない。ある意味、非常に「ドラマ的である」と言ってもいいだろう。しかし、このドラマの本当の「リアリティ」は、その設定や構図にあるのではなかった。


「人は面倒のもとだ。親だろうが他人だろうが、自分以外の人間と関わるたびに、やっかいごとが増えていく。避けても避けても、逃げ切れない面倒もある」(第3話)


「人の心をかき乱す雑念は、いつだって外から持ち込まれる。俺以外の誰かから。余計な悩みを抱えたくないなら人と距離を置くのがいちばん。それなのに……」(第6話)


 先ほどから、ちょいちょい引用しているのは、ドラマの冒頭で毎回披露される大介のモノローグ。実は、これが本作のキーとなっているのだ。決して表には出さない、というか本編における台詞や態度で直接示されることは少ないけれど、大介が心の中で確かに思っていること。それが冒頭のモノローグによって、毎回端的に示されるのだ。一見すると、「アフォリズム(警句・箴言)」のような「上から目線」で語られる、一連のモノローグ。ちなみに、本作のクランクアップ後のコメントとして、香取はこんな言葉を残している。「実はこのドラマのナレーション、『大介の心の声』がすごくイヤでした。僕が今まで必死に隠してきた“心の声”を全部言わされている気がして。本当にひとつも間違っていないくらい、びっくりするほど“僕自身の声”だったから」。


 けれども、「大介」にとっての現実は、それらの「モノローグ」とは毎回裏腹な様相を呈していくのだった。しばらく会わないあいだに、寡黙で自分勝手な父親から饒舌で社交的な父親へと変化していた陽三との交流をはじめ、義理の弟・浩太と大介の、ぎこちないながらも次第に接近していく関係性、あるいは大介の会社の同僚である入江(千葉雄大)や佐々木(荒川良々)といった人々が巻き起こす「事件」。それらの出来事が、冒頭に掲げられるモノローグとは裏腹に、大介の心を徐々に開いていく……その感情の「流れ」が、このドラマでは非常にていねいかつ「リアル」に描き出されているのだった。


 それはもうひとりの主人公、「葉菜子」についても同じである。会話の端々で再婚を促すなど、娘に対する小言が絶えない母親・律子との関係性、出来の悪い部下だったはずの後輩・莉奈(水原希子)が、やがてみせるようになった頼もしさ、海外から戻ってきた元旦那・和哉(田中圭)との再会、そして何よりも、自分勝手な親に振り回される同じ単身者として、どこか共通するメンタリティを持つ大介との交流によって、彼女の心もまた、次第にほどかれてゆく。とりわけ、力みのない自然体の芝居でありながら、その随所にキラリとした魅力を打ち放つ上野樹里の演技は、改めて瞠目する素晴らしさがあった。


「やまない雨はない。開けない夜はない。終わらない冬もない。いつか必ず、物事には終わりがやってくる。不毛なこの同居生活にも、とうとう終わりのときが……」(第8話)


 かくして、大介と葉菜子の周辺にいる人々が重なり合い、いつしかほっこりと温かな感情が流れる「疑似家族」とも言うべき大きな関係性が築き上げられていった本作だが、陽三が浩太とともに実家に戻ることを決意して、その関係性もいよいよ終わりを迎えようとしている。しかし、そんな最中、陽三は大介たちに、突如「ある告白」をするのだった。自分が末期がんを患っており、余命いくばくもないということを……。


「笑顔は心の鎧だ。本当の気持ちを隠してくれる。怯えも動揺も怒りも、ほとんどの感情は、これで隠せる。そう、笑顔を作ることで」(第9話)


 冒頭のモノローグでそう語りながらも、突然の告白に動揺を隠せない大介。さらに大介は、自らの率直な気持ち……もはや「アフォリズム」ではない自らの率直な「心情」として、次のようにひとり語るのだった。「人はこんなとき、普通どんな顔をするんだろう。図々しくて迷惑だとばかり思っていた親父に、いきなり『俺、死ぬの』なんて言われたら……」。そんな彼の異変を誰よりも早く、そして誰よりも深く察知したのは葉菜子だった。前回のクライマックス。川辺に佇む大介のもとに歩み寄り、「やめなよ、その作り笑い」と語りかける葉菜子。互いに目を潤ませながら川辺で静かに語り合い、やがてそっとハグし合うそのシーンは、このドラマ切っての名シーンと言える、実に感動的なものだった。


 家族や友人ではない「他人」だからこそ、率直に話せることがある。それは、これまで本作が描いてきたテーマのひとつでもあった。しかし、そのときその「他人」は、果たして本当に「他人」と言えるのだろうか。ここへ来て急速に近づき始めた大介と葉菜子の関係は、最終回でどんな結末を迎えるのだろうか。そして、あらかじめタイトルに銘打っているように、本作が提示する新しい「家族の形」とは、果たしてどんなものだろうか。いよいよこれで終わりなのかという一抹の寂しさはあるけれど、そのなりゆきと結末を、テレビの前で静かに見守りたいと思う。(麦倉正樹)