トップへ

Ken Yokoyamaはなぜ8年ぶりの武道館で「語り続けた」のか? 石井恵梨子がその理由を探る

2016年03月17日 18:01  リアルサウンド

リアルサウンド

Ken Yokoyama(Photo by Jon)

 本編と2回のアンコールを合わせて披露されたのは24曲。ボリュームたっぷりと思われるかもしれないが、そもそもKen Bandの楽曲は2分半前後のショートチューンが多い。単純計算すれば1時間でも24曲やりきることは可能なのだ。だから開演からラストまで2時間10分という演奏時間を考えれば、曲が少ない、あるいは曲数に対して時間がたっぷりある、ということになる。


 そのたっぷりの時間を使って、横山は終始、語り続けていた。演奏と同じくらいの時間をかけ、同じくらいの熱量を込めて、客席に言葉を投げ続ける。安定のシモネタや最近ブームらしい「コマさん」ネタで盛り上がる場面があり、なぜ日の丸を掲げるのかを熱弁し、明日で5年だと東北に思いを馳せるシーンが多々あった。さらには演奏に入る前、これはどんな気持ちで作った歌、どんなふうに受け止めて欲しいと、一曲ごとの簡単な説明も加えていく。そうして演奏しながらもスタンドマイクを移動させ、アリーナの歌声を、観客それぞれの声をなるべく聞き取ろうと動き回る。つまり、このライブの中心にあったのは、声であり、対話であった。


 「音楽」を主語にするなら、別にやらなくてもいいことだ。だらだらとMCを垂れ流すくらいなら演奏で納得させてみろ、曲の解説なんて野暮だから歌で伝えろと、私も普段ならそう思う。さらにマイクの移動はケーブルが絡まるからスタッフも大変だし、ぐらつくスタンドが床に倒れることで不要な雑音が何度も演奏中に入ってくる。そういうことを全部わかったうえで、横山はこれをやるのだろう。「音楽」にとって「やらなくてもいいこと」が「俺」にとっては「やらなきゃいけないこと」なのだと、強い使命感すら感じさせる表情。彼の一語一句に大興奮している観客は、だから「音楽」を楽しみにではなく「横山健」を感じるために来ているのだ。曲が始まればモッシュとクラウドサーフの嵐だが、ただ馬鹿騒ぎがしたいというノリはまったく感じられない。前回の武道館公演と比べても、どれほどの変化だろうと気が遠くなる。


 8年前はもっと軽かった。今思えば「俺たちのヘッドが大舞台に立つから、今日は祭りだべ」と騒ぐヤンキー集団のようなノリさえあった気がする。我ながらひどい喩えだが、当の横山だってきっとお山の大将だった。ハイ・スタンダードの呪縛から抜け出してようやく軌道に乗せたソロキャリア。家庭を持ち子供を授かったプライベートの幸福。そういう身辺を曲にしては喜び、初の武道館だからそのための曲も用意しようとノリノリで新曲も作り上げた。自分を肯定することが最重要で、祝祭は自分に付いてきてくれる人たちのために。そういう世界で完結していたのが2008年1月の話だ。


 だがそこから作品の色は急速に変わっていく。ぬるいロックシーンに突然牙を剝いた4th『FOUR』。東日本大震災を受けて必死のユナイトと愛を呼びかけた5th『Best Wishes』。さらには老いていく自分をロックンロールと重ね合わせ、存在意義はどこまであるのか、やり残したことはないかと自問を始めた最新作『Sentimental Trash』。すべてが熱苦しいまでの使命感を背負った、渾身のメッセージだった。


 そう、今の横山が掲げるシリアスな問いの数々は、重苦しいのではなく、熱苦しいという言葉に尽きる。それまで自分のことを歌っていた人が突然シーンや国家や戦争について言及しだすのは「世相を反映した閉塞感が…」というレベルの話ではないだろう。言わなくていいこと、やらなくてもいいことを積極的に選び取るエネルギー。それが誰かを不快にさせるかもしれないと配慮せず、じゃあなぜこれをやるのかと熱弁するバイタリティ。そういう熱苦しさに対して、人は敬遠するか巻き込まれるかのどちらかだが、今回の武道館も即日完売だったようにファンのほとんどは彼の熱量に巻き込まれていった。なぜか。教育が上手かったからだ。教育という言葉が悪ければ、伝え方、教え方、考えさせ方が上手かった。この日のセットリストにもそれが如実に表れている。


 これぞケニー節と言いたい「Maybe Maybe」を皮切りに、極上のパンクロックが続いたオープニングとMCで大きく雰囲気を変え、最新作のロックンロール・モードに切り替えた前半の流れ。これだけで〈メロディックからグレッチへ〉という最新アルバムの音楽的テーマはほぼ網羅できるわけだが、そのタームの終わりに自分の人生を綴った「Yellow Trash Blues」を持ってくることで、次のテーマとして〈では横山健の人生とは〉が浮かんでくる。客からリクエストを受ける形だったが、おそらく曲はこれしかないと決まっていたのだろう。ソロ一作目から「Running On The Winding Road」、ハイ・スタンダードの「Stay Gold」、そして「I Won’t Turn Off My Radio」と続く流れはゾクゾクするほど鮮やかだった。どれも名曲中の名曲だが背景が大きく違う。「~Winding Road」は不安を抱えつつ一人で歩き出した時期であり、「Saty Gold」は言うまでもなくハイスタ絶頂期の象徴。そして「~Radio」は現在の代表曲、『Mステ』でも披露された今の橫山のリアルな声である。振り切ったはずの過去は今も生きている。それどころか今にありがたく繋がっている。すべてが一直線上で、ここからまだ進める。そんな己のキャリアを「~Radio」に集約させたあとは、〈そのために俺は何を信じてきたか〉〈どう行動したか〉という結論が次々と発表されていく。むろんここはMCの説明じゃない。「Punk Rock Dream」「Believer」、さらには「We Are Fuckin’ One」や「Rickye Punks III」などのナンバーが、横山の生き方考え方を雄弁に語ってくれるのだ。なぜここでこの曲なのか。ここで何を考えるべきか。本人の説明がなくとも、ファンひとりひとりにそれは伝わったはずである。


 わかりやすい間口から、明るくさりげなくテーマを変えて、多角的に考えさせ、答えを確認させる。その流れの作り方が本当にクレヴァーだと改めて感服した。英詞だと何を言ってるかわからないと言う邦ロックファンの感覚は、この場においては皆無だったはず。何度も「一緒に歌ってくれ」とマイクを向ける横山は、全ファンが歌詞の内容と意味を完全に把握していると信じきっている。そのためにコラムで、インタビューで、ラジオやテレビも使って積極的な発信を続けてきた。なんとか歌詞カードに目を向けさせ、そのあとは自分たちの頭で考えさせるようリスナーを教育し続けてきたのだ。だからこそ、メインのシンガーが一万人のファンという形になった「Believer」は本編ラストに相応しい美しさだった。もちろん8年前にもこの曲はあったが、当時とは歌声の大きさが違う。それぞれの理解の深さと覚悟がまったく違う。そこが何よりも美しかった。


 この武道館がおそらく最後。そんな本人のコメントが「引退示唆か?」と騒動になってしまった今回の武道館公演だが、まだまだ、横山にはやることがあるし、やりたいこともあるだろう。大丈夫、これだけ立派なファンに支えられているアーティストはそうそういるものじゃない。横山がパンクスであることに誇りを持っているように、彼のファンは、横山を信じ横山に付いていくことが誇りなのだ。対話は、これからも、続く。(文=石井恵梨子)