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一大ブーム到来!?  中南米ドラッグ・カルテル作品が量産されるようになった理由

2016年03月15日 17:31  リアルサウンド

リアルサウンド

『エスコバル 楽園の掟』より

 コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルをファミリーの一人であるカナダ人青年の視点から描いた『エスコバル 楽園の掟』が、先週末公開された。来月(4月9日)には今年のアカデミー賞で3部門ノミネートされたことでも話題となった『ボーダーライン』が、そして再来月(5月)には同じく今年のアカデミー賞で長編ドキュメンタリー部門にノミネート、キャサリン・ビグローが製作総指揮に名を連ねている『カルテル・ランド』が公開される。とりあえず「ハリウッド映画人中南米代表」のベニチオ・デル・トロは、エスコバル(『エスコバル 楽園の掟』)を演じたり、捜査に加わる謎のコロンビア人(『ボーダーライン』)を演じたりと大忙しなわけだが、近年では他にも『悪の法則』や『野蛮なやつら/SAVAGES』のような秀作もあったし、昨年は『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇』のようなマニアックなドキュメンタリー作品の日本公開もあった。言うまでもなく、テーマがテーマだけに他にも日本未公開の作品はたくさんある。今や、海の向こうでは中南米ドラッグ・カルテル作品の一大ブームが到来していると言ってもいいだろう。


参考:なぜ『ナルコス』は数ある“麻薬モノ”の中で突出して面白いのか? 実録ゆえの説得力に迫る


 一口に「中南米ドラッグ・カルテル作品」と言っても、作品ごとに舞台やテイストはまったく異なる。コロンビアが舞台、イタリア人監督アンドレア・ディ・ステファノによるフランス・スペイン・ベルギー・パナマ合作映画『エスコバル 楽園の掟』は実在の人物を中心に描いたノンフィクション風味のフィクション作品だし、アメリカとメキシコの国境地帯が舞台、カナダ人監督ドゥニ・ヴィルヌーヴによるハリウッド映画『ボーダーライン』は女性捜査官(エミリー・ブラント)が主人公の完全なオリジナル作品だし、『カルテル・ランド』はアメリカ、メキシコ両国それぞれの自警団のリーダーを追ったドキュメンタリー作品である。しかし、総じて言えるのは、どれもそれぞれのジャンルにおいてとても秀でた作品であるということだ。


 中南米ドラッグ・カルテルを都合のいい黒幕設定などで描いた作品は過去にもたくさんあったが、作品のクオリティ的にも事実のディテール的にもある一定のレベルをクリアした作品が量産される大きなきっかけとなったのは、やはり2008年から2013年にかけて5シーズンが製作・放送された米AMCのテレビシリーズ『ブレイキング・バッド』だろう。『ブレイキング・バッド』はアメリカ南部の田舎町アルバカーキに住む化学教師がメタンフェタミン精製やドラッグ・ディーリングに足を踏み入れるブラック・コメディ的作品で、ドラッグ・カルテルは彼と対立する存在として描かれるいわば脇役だが、メキシコのドラッグ・カルテル特有の不条理な暴力性、見せしめの生首処刑に象徴される残酷さ、そこでの人間の命の冗談のような軽さを克明に描いたことで、視聴者に大きな衝撃と(あえて言うが)興奮をもたらした。


 テレビシリーズの世界で、『ブレイキング・バッド』の達成の先に、さらなる金字塔を打ち立てつつあるのが、現在もシリーズ続行中のNetflixのテレビシリーズ『ナルコス』だ。コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルとアメリカ・フロリダ州の麻薬捜査官の長年にわたる攻防を描いたその作品は、実際のところエスコバルの半生を描いた「実録もの」的な色合いが強い。先日LAで『ナルコス』のメイン・ディレクターであるブラジル人監督ジョゼ・パジージャ(母国作品『エリート・スクワッド』シリーズで名を上げ、リブート版『ロボコップ』でハリウッドに進出、その後『ナルコス』監督に抜擢された)にインタビューをする機会を得たのだが、そこで「もしかして、東映の実録ヤクザものとか観てます?」と話を振ったところ、『仁義なき戦い』シリーズへの偏愛とそこから受けた影響を嬉々として語り始め、「やっぱり!」と膝を打ったものだった。


 テレビシリーズにおける『ブレイキング・バッド』から『ナルコス』へのぶっとい流れと、それと並行して起こっている映画界におけるリドリー・スコット(『悪の法則』)やオリバー・ストーン(『野蛮なやつら/SAVAGES』)といったベテラン監督たちの参入を経て、今やテレビ/映画界において最もホットな題材となっているドラッグ・カルテル関連作品。その背景には、『ブレイキング・バッド』がもたらした世界的熱狂によってテーマへのタブー視がなくなったことと企画が通りやすくなったこと、エスコバル(1993年死去)関連においては映像や捜査資料や証言が出尽くしたことで細かいティテールまで正確に描写することが可能になったこと、南米社会におけるエスコバルのヒーロー化にせよ、欧米におけるエスコバルのアンチ・ヒーロー化にせよ、いずれにしてもエスコバルの歴史的評価が確立したこと、エスコバルの死後にコロンビアからメキシコへと主導権が移ったドラッグ・カルテルの勢力拡大・過激化が進んで社会的な関心が高まっていること、などが挙げられるだろう。また、アメリカ国内におけるヒスパニックの影響力の増大と、世界中のスペイン語圏の視聴者/観客のニーズの高まりという事実も見過ごせない。作中の台詞の大半がスペイン語の『エスコバル 楽園の掟』や『ナルコス』を観た後では、コロンビア人同士やメキシコ人同士や何故か英語で会話をしているような一時代前までの「作りのあまい」ドラッグ・カルテル描写は、ちゃんちゃらおかしくて鑑賞に耐えられるものではなくなった。もちろん、それはテレビ/映画界にとって極めて重要な「進化」である。


 自分が最も興味をひかれるのは、このジャンルが、テレビ/映画の壁を崩し、役者も含むアメリカ映画人/他国の映画人の交流を促進し、これまでのハリウッド映画中心主義に、その枠組から大きく揺さぶりをかけていることだ。そしてもう一つ。ドラッグ・カルテルという題材が、旧来のマフィア映画は言うまでもなく、戦争映画、ポリティカル映画、アクション、サスペンス、スリラー、ミステリー、ホラー、コメディ、ドキュメンタリーといったあらゆるジャンルを飲み込むブラックホール的な魅力を持っていることにも気づかされずにはいられない。ドゥニ・ヴィルヌーヴ(『ボーダーライン』)のような当代きってのキレキレの映画作家がこの題材に引き寄せられたのも、そう考えると必然と言えるだろう。(宇野維正)