2016年03月14日 16:01 リアルサウンド
目を血走らせ、異常なハイテンションの暴力的な演技をさせれば右に出る者がなく、また、下がった眉毛と子犬のような潤んだ瞳で母性本能をもくすぐる、相反する極端な二つの魅力を持つ稀有な俳優が、ニコラス・ケイジだ。
参考:増村保造、三島由紀夫、『ドラゴンボール』……『マジカル・ガール』監督が語る、日本文化からの影響
彼の代表作に、『リービング・ラスベガス』がある。ラスベガスで好きな酒を飲みまくって死んでいこうとする、仕事も家庭も失ったアルコール依存症の男の物語だ。ニコラス・ケイジの酩酊演技は、凄まじいリアリティと説得力を持ち、快楽と苦しみの狭間で破滅していく男の弱さと美しさを表現した。その儚い姿は、舞台となる虚飾に彩られたラスベガスという街に重なっていく。『リービング・ラスベガス』によって、アカデミー主演男優賞をはじめ、その年の主要な演技賞を軒並み獲得し、一躍、演技派俳優として名を馳せたニコラス・ケイジは、その後、意外にも多くのアクション映画や商業的な大作映画にも次々出演し、ハリウッドの顔になっていく。この過程で、彼の狂気の演技はコミカライズされていき、笑って楽しめる「狂気俳優」ニコラス・ケイジ像をも作り出した。
今回考察する『グランド・ジョー』は、『リービング・ラスベガス』を髣髴とさせる、ニコラス・ケイジがシリアスな狂気演技に回帰する作品のように見える。舞台となるのは、ラスベガスのようにきらびやかなイメージとは真逆の、秘境とも揶揄されるアメリカ深南部の貧困層の世界である。
■告発されるアメリカ南部の「現実」
ミシシッピ川を舞台にした、マーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」が描いたような、川や沼地、森林に恵まれた自然豊かな土地が広がっているというのが、アメリカ南部の代表的なイメージだ。また、コカ・コーラやペプシコーラ、ルートビアなど、アメリカの有名な清涼飲料水の多くが南部発祥であるという事実は、それらを必要とした南部が、高い気温でじめじめとした気候であることを物語っている。
ノースリーブの上着を着て、じめじめとした南部の農村で森林の伐採業に従事し、現場で労働者を指導監督している、『グランド・ジョー』の主人公、ジョーは、いわゆる典型的な「レッドネック」と呼ばれる南部の肉体労働者である。本作におけるジョー自身や周囲の人々の生活の描写で驚かされるのは、南部貧困層が直面している困窮の深刻さだ。職場の男たちは、酒場や売春宿でストレスを発散しながら、なんとか日々をやり過ごしていく。小林多喜二の「蟹工船」で描かれたような雰囲気で、これがアメリカの現在の風景なのかと思わされる。もちろん、近年の政策によって悪化した、経済的な格差拡大が影響しているだろう。ここでは、南部の懐古的な美しい風景を切り取っている余裕はない。
実際に森林を伐採していくシーンでは、彼らが木そのものを切り倒すのではなく、木に切れ込みを入れて、背中に担いだポリタンクに入った、農薬などを混ぜ込んだ液体を切り口に染み込ませているだけだということが分かってくる。何故、木に毒を盛るのかというと、材木会社が伐採できるように、故意に木を枯らす必要があるというのだ。
毒で木を枯らしていくという違法的な伐採は、アメリカ南部・フロリダ州で行われていたことが2012年に発覚している。本作で描写されたように、マチェーテ(主にメキシコ以南で使われる農林業用の刀)で木を傷つけ、毒を注ぎ込み枯らしていくという、伐採従事者による違法伐採の手口の告白を、経済誌が取り上げスキャンダルになっているのだ。本作は、そのような南部の現状の告発にもなっている。ジョーら労働者は、企業に利用されていることを知りながら、ただ生きるために、マチェーテを振るい続けるのである。
■擬似的な親子関係が映し出す「南部」のイメージ
ある日、アルコール依存症の年老いた父親を持つ少年が、ジョーの職場を訪れ、仕事をさせて欲しいと頼み込んでくる。飲んだくれの親父が全く働かず、病気の母や妹を助けるために金が必要なのだ。少年は真面目に働き、せっせと木に毒を盛り続ける。ジョーは少年の仕事振りを認め、父親と一緒にここで働けばいいと提案するが、これが間違っていた。少年の父親は、本作がこれによって映画史に刻まれてもおかしくない程の、ろくでなしだった。酒のためなら家族を殴り、犯罪すら厭わないが、真面目に働くことだけは絶対にしないのである。現場をフラフラと歩いているだけで何もせず、それを咎められると怒りだしてトラブルを起こし、ティーネイジャーの息子の信用すら失わせるという信じ難いほどの非人間性を発揮し、観客を驚かせる。だが、父親のひどさはとどまるところを知らず、さらにエスカレートしていくのだった。
もちろん、ここまでひどい家庭環境は珍しいかもしれないが、貧しい家庭の子供達が十分な教育を受けられず、さらに社会の格差が固定化されていくという状況は、アメリカや日本を含め、多くの国々の社会的な課題となっている。ジョーは、そんな父親を持つ少年にシンパシーを抱き、彼らの間には、擬似的な親子関係が結ばれてゆく。アルコール依存症の老人と、ジョー、そして少年は、親子三代の擬似的な家族のようにも見える。
南北戦争時、南軍は北部人を「ヤンキー」、北軍は南部人を「レッドネック」と呼び、互いに罵倒し合った。「レッドネック」は、南部の日差しを浴びて首周りが赤くなった白人の貧しい労働者を指す。奴隷制を擁護したという立場から、南軍は戦争後も多くの批難を浴び、映画を含め、多くの創作物でも批判され続けてきた。南部では奴隷解放後も、人種差別が続き、ベストセラーにもなった書籍を映画化した『ヘルプ 心がつなぐストーリー』では、南部でもとくに保守的なミシシッピ州において、60年代になっても、露骨な白人、黒人間の、違法な隔離的差別があったことを告発している。また、1940年の映画『スワンプ・ウォーター』では、無実の罪を負った男が、ジョージア州の町の人々による人間狩りから逃れ、広大な湿原地帯で原始生活をするという、驚愕の物語であった。南部は文化が遅れた「未開の地」として、北部の州の人々から、ときに恐れられ、また嘲りの対象にもなってきた。
本作で描かれる、どうしても変わることができないろくでなしの老人は、北部の人々のイメージする、新しい時代に対応できず役に立たない「古い南部」そのものの姿の象徴であるように見える。対してニコラス・ケイジが演じるジョーは、基本的には善人として好意的に描かれる。彼は働き者であり情にも厚く、地域の老人などの面倒さえみる。たが反面、無闇にケンカをし道路交通法違反を繰り返し、何度も逮捕されている。そして、むしゃくしゃすると売春宿を利用する。過去、無実の罪で投獄されたという経験が、彼を自暴自棄な行動に駆り立てるのである。優しい素朴さと粗暴さを併せ持つジョーというキャラクターは、より現実的な「現在の南部」の実相を表しているといえるだろう。
■ニコラス・ケイジが演じる、ジョーの「狂気」の理由
ポール・ニューマン主演の『暴力脱獄』という、南部を舞台にした映画がある。主人公・ルークは、軍人として数々の武勲を立ててきた国家の英雄でありながら、何故か街のパーキングメーターを故意に破壊し、投獄される。些細な罪だが、彼は刑務所の中でも、刑務官や先輩の囚人たちに媚びへつらうことなく、何度も何度も脱獄を試みる。ストーリーのなかでは、彼の不可解な行動の理由ははっきりと示されないが、作品内では直接描かれない、彼の戦争体験がその心理に影響しているだろうことは読み取れる。ルークの反抗的行動の意味は、おそらく、戦争という名目で自分に殺人をさせた国家、社会への反発である。刑務所長が支配する南部の刑務所という場所が、アメリカ政府と、利用され管理される国民を暗示しているのだ。
そのような構図は、本作におけるジョーの、何度も警察に逮捕されようとする自暴自棄な行動ともリンクしているように感じられる。ジョーを狂わせるものは、南北戦争後、世代を超えて背負わされてきた十字架であり、搾取され続けることを宿命づけられた、出口のない圧迫感であろう。階級や貧富の差によってがんじがらめになっている保守的な風土と、それを受け入れてしまう人々や自分への苛立ちが、ジョーの狂気の源泉なのである。それは、本作のニコラス・ケイジの狂気の演技に漂う、『リービング・ラスベガス』にも通じる悲劇的な印象を与える理由でもあるだろう。
確かに南部が、思想や経済的な面で、不当に傷つけられ、北部の企業などから搾取され続けてきたということは事実だろう。そのツケを、貧困者や弱者ばかりが支払い続けるというのも酷な話である。だが、その暴力性は、さらに南部の女性たちや子供たちなど、さらなる弱者に向けられていくことも、本作は描いている。この暴力の連鎖は、全ての人々がそれぞれの立場で断ち切る努力をするべきであろう。そして本作のジョーは、自分の中の毒を用いて木を枯らすように、暴力の連鎖、貧困の連鎖、悪徳の連鎖を断ち切ろうとする。それは、自分自身の贖罪でもある。
本作の脚本を読んだニコラス・ケイジは、すぐに出演のオファーを受けたという。南部の作家ラリー・ブラウンによって書かれた、原作に宿る優れた文学性は、ニコラスの演技者としての欲望に火をつけただろうことは、想像に難くない。本作の冒頭は、少年の父親の横顔を写したカットから始まる。その対となる最後のシーンは、同じような構図の、少年の横顔である。その類似は、南部の将来の不安を感じさせる。しかし、そこから移動するカメラが、正反対の意味を持つ情景を写すことで、新しい南部への希望を暗示する。その映画的な演出によって、本作は映画化作品としての存在理由を確かにしているといえるだろう。(小野寺系(k.onodera))