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Fly or Dieのライブは、めくるめく“メイキャップ・ショウ”である 矢野利裕がツアー初日をレポート

2016年03月10日 13:01  リアルサウンド

リアルサウンド

Fly or Die・Dar'k~ness(撮影=Yasuhiro Ohara)

 マキタスポーツ presents Fly or Die『矛と盾』発売記念ツアーの一発目が3月5日、渋谷WWWでおこなわれた。ゲストに選ばれたのは、ゴールデンボンバーと同期で、彼らの試みと共振するパフォーマンスを続けるヴィジュアル系バンド、Jin-Machineである。音楽とともに笑いを提供するふたつのバンドによって、この夜は、見事なヴィジュアル系エンタテイメント・ショウとなっていた。


(関連:マキタスポーツがV系バンドで体現する『矛と盾』とは? 矢野利裕が作品の“たくらみ”を読む


 ちょっと状況論的に。音楽がデータ化されるにともなって、一回的なライブ体験の価値が相対的に上昇したとよく指摘される。CDの売り上げが下がる一方で、フェスへの動員が上がっていることもよく言われる。分析の妥当性は措くが、ライブが重要視されている現状はたしかなのだろう。したがって乱暴にまとめると、現在、音楽に対しては参加性・体験性が重視されている、と言える。現在、多くのバンドがこのことを自覚しており、ライブをアトラクション的に演出して、音源では味わえない体験を提供しようとする。振り付け満載で、体と体をぶつけ合い、触れ合い、魚を投げ合い(!?)するJin-Machineのライブは、まさにアトラクション型のライブとして圧巻の完成度だった。とくに、阿波踊りのように体をくねらせながら会場を右に左に揺れ動く一連の流れがクセになる。また来たくなる。観客席とステージが一体となったライブで、見事に会場が熱くなった。Jin-Machineのようなアトラクション型のライブが気づかせてくれるのは、音楽が身体の動きとともにある、という考えてみれば当たり前の事実である。歌声は声帯の振動によって発されるし、楽器を演奏するときは手足が動いている。聴いているほうも、振り付けをせずとも、激しく踊っていなくとも、体を動かしている。


 今回のライブで僕が強烈に感じたのは、Fly or Dieが堂々たるダンスバンドだということだ。もちろんFly or Dieの楽曲は、ほぼ一貫してヴィジュアル系的なアレンジが意識されているが、多彩な音楽性の底に流れるのは、実はファンキーなノリなのではないか。このことを本人たちが意識しているかどうかはわからない。しかし、Fly or Dieの母体バンドにあたるマキタ学級が、「はたらくおじさん」や「Oh! ジーザス」といった曲で、ファンキーでソウルフルな演奏をしていたことはたしかだし、そこで聴けるハネたドラムやベース、あるいはファンキーなギターは、Fly or Dieにも変わらずに流れ込んでいる。それが発揮されるのは、例えば、ドラムが弾む「ダーク・スター誕生」や、ベースが小気味良い「怨歌~あんたじゃなけりゃ」、あるいは、4つ打ちでリズムキープされる「愛は猿さ」、カッティングするギターがファンキーな「あいしてみやがれ」といった曲たちである。グルーヴィーなこれらの曲で踊っているだけで、ライブとしてはとても満足である。そのうえさらに、ザ・スペシャルズ「Little Bitch」顔負けの2トーン・スカ「中年」まで披露されたら、どうにも踊らずにはいられない。


 それにしても、ゆったりとした裏打ちが印象的な「矛と盾」もそうだけど、Fly or Dieには、不思議とどこか中南米的なノリが、いや正確には、中南米を経由したイギリスのロックバンド(パッと思い浮かぶところだと、それこそ「Little Bitch」をカヴァーしていたジ・オーディナリー・ボーイズとか)のノリがある気がする。アルバムだと、サウンドが全体的にもう少しヴィジュアル系に寄せられている印象があるが、観客を前にしたライブだとダンスバンドとしてのグルーヴ感がかなり解放される。その意味ではFly or Dieは、Jin-Machineとはまた違ったかたちのライブバンドなのかもしれない。Fly or Dieは、グルーヴィーな演奏で観客を巻き込むという、実にストレートな、しかしそれゆえに文脈もウンチクもいらない、強度のあるライブを披露する。その意味では、Fly or Dieもマキタ学級も変わらないと言えば変わらない。


 ひと言に踊らせると言ってもいろいろあって、それこそJin-Machineのように楽しく振り付けることもひとつだ。Jin-Machineをヴィジュアル業界の先輩として「Jin-Machine兄さん」と呼ぶFly or Dieも、「矛と盾」に振り付けを設けたり「Fly or Die!」という決めポーズをさせたりすることで、観客の体をいかに動かすかという点を工夫している。「あいしてみやがれ」直前のMCでは、「愛させてください」という言葉とともに観客を拝ませることで謎の疑似宗教空間が出現しており、これは笑った。ダー様(Dar'k~ness(Vo.))は「この不思議な光景を外国人に見せたい」みたいなことを言っていたが、これもマキタスポーツ一流の批評精神の表れだ。つまり、「(お)約束」を徹底させることでガラパゴスな価値体系を生み出すのがヴィジュアル業界のビジネスモデルだ、ということである。この疑似宗教に乗ることができれば、そりゃ物販も喜んで買うさ(うん、僕も買ったよ、CDと生写真)。さらに面白いのは、ライブ中にも説明されていたように、Fly or Dieのファンシステムがポイント会員のような制度になっていることだ。Fly or Dieに忠誠を誓うファンは、「野良ローズ」から始まって「ロイヤル・ローズ」を目指すべくライブに通い続けることになる。マックス・ヴェーバーも驚き(?)の宗教と資本主義の蜜月だが、ここで重要なことは、拝むことも物販を買うことも、踊ったり振り付けに合わせたりすることと同様、身体の動きだということである。さまざまな水準で、みんなの身体を動員することがライブ体験の本領なのかもしれない。


 このように考えると、つくづく「しもべ」(キャンタマコ)の存在は貴重だ。彼女の身振り手振りは、観客にとって良い導きとなる。いや、個人的には、なにより彼女の満面の笑顔がグルーヴィーだ。「しもべ」の存在によって、Fly or Dieのパフォーマンスは説得力を増す。この日、飛び入り参加して堂々たる舞台人としての振る舞いを見せた鈴木このみとともに、見事な身体の動きである。また、観客を踊らせるという点で面白かったのは、ライブ中盤で披露された「ロンリーワルツ」だった。ヴィジュアル系の世界観にふさわしい、舞踏会をイメージさせるこの三拍子の曲は、先述のグルーヴィーさとは違ったかたちで観客を踊らせる。だとすれば、なるほど、ダンスバンドとヴィジュアル系的な世界観との結節点で生まれたのが「ロンリーワルツ」ということか。この曲の重要性も、ライブで初めて理解した気がした。「ロンリーワルツ」におけるミカ様(魅蛙(Key.))のキーボードが、耽美的な世界観を見事に彩っていた。いや、「ロンリーワルツ」に限らない。あらゆる楽曲から曲間のMCに至るまで、ミカ様のキーボードはつねにその曲の世界観を演出していた。そうなのだ。いままで述べてきたさまざまな曲に対して、そのサウンド的なイメージを支配していたのは、ウワモノであるキーボードを担当するミカ様だったのだ。だから、ライブで初めて理解したことはもうひとつ。実はFly or Dieというバンドの本質は、ミカ様なのではないか。いちばん奥で、誰よりも真っ白に化粧しているミカ様こそ、Fly or Dieの核心なのではないか。つまり、こういうことだ――Fly or Dieの本質とは「化粧」である! そもそも多彩な音楽性をもつFly or Dieは、その都度、音楽的な「化粧」を施す感覚で、ユニークなグッド・ミュージックを披露するのだ。音色を自由自在に変えることができる多機能キーボードは、その音楽的メイキャップにおいて、重要な役割を担っている。音楽的にもルックス的にも、Fly or Dieの「化粧」の中心にいるのはミカ様に他ならない。


 同じことはもちろん、歌詞についても言える。今回のライブのオープニングは、Fly or Dieの出発点となった「Virgin Marry~聖母マリア~」だったが、この曲は、母親とのマンガ的なやりとりを仰々しく表現した歌詞である。つまり、「お母さん」に「化粧」を施して「聖母マリア」に仕立て上げるというのが、この曲のコンセプトである。そもそもこの曲は、「お母さん」というタイトルで、マキタ学級のアルバム『マキタスポーツの金もうけ』に収録されていた。メンバーの「化粧」とともに、曲名にも「化粧」を施されたということだ。また、鈴木このみとの「残響FANATIC BRAVE HEART」も、目玉焼きに醤油をかけるかソースをかけるかという談義が、「ジハード」にまでメイキャップされている。メンバーのルックスと同様、サウンドや歌詞にも「化粧」は貫かれているのだ。


 Fly or Dieを単なるヴィジュアル系のパロディ・バンドだと捉えてはならない。ライブを見て、ますますそう思った。端的に言うなら、Fly or Dieとは「化粧」を施したダンスバンドである。ここで言う「化粧」の意味は深い。「化粧」とは、ひとつの強固な世界観であるとともに変幻自在の顔でもある。ライブ後半では、「世界にひとつだけの花」をパロッた「世界中にある花」という曲を披露していた(メロコアのようなアレンジが、10年くらいまえに流行った凡百のパンク・カヴァーを想起させて笑った)。「世界中にある花」であることを自覚しつつ、ほんのつかのま「世界にひとつだけの花」になること。「化粧」は、そのための手段として存在する。音楽的に懐の深いFly or Dieのライブは、音楽的にはむしろ、めくるめくメイキャップ・ショウである。この絶え間ないメイキャップに追走するように、観客は歌い踊っていた。なかでも、「矛と盾」がやはり最高だ。序盤のゆるいレゲエのノリで体を揺らしていると、重いサウンドとともにテンポが2分の1になり、リズムにタメを作らされる。終盤になると、2トーン・スカ的かつ祭囃子的な展開に、観客も狂乱状態になる。いくら「化粧」を施しても、汗だくになって「化粧」は溶けてしまう。動員的な振り付けだろうが狂乱的なモッシュだろうが、身体が動けば汗をかくのだ。幾重ものたくらみの果てにFly or Dieが体現するのは、身体を動かして汗をかくという至極真っ当なライブのありかたであった。「矛と盾」の歌詞には「嘘か誠か」という言葉があるが、したがって、「嘘か誠か」という二者択一はにせの問題なのかもしれない。だって、ステージと観客席を貫く、あらゆる身体の動きこそがリアルなのだから!(矢野利裕)