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ショー的要素に欠けていた? 「白人偏重」に揺れた第88回アカデミー賞授賞式を考える

2016年03月02日 07:01  リアルサウンド

リアルサウンド

第88回アカデミー賞授賞式の様子(写真提供:Getty Images)

 激戦の作品賞を制した『スポットライト 世紀のスクープ』、レオナルド・ディカプリオが『レヴェナント:蘇えりし者』で初の主演男優賞を受賞、『クリード チャンプを継ぐ者』で40年ぶりのノミネートとなったシルヴェスター・スタローンが涙を飲み、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は最多6部門を受賞して技術部門が評価された、など断片的なトピックスとして報じられている第88回アカデミー賞授賞式。


参考:作品賞は『スポットライト』、最多受賞は『マッドマックス』 第88回アカデミー賞結果発表


 1929年に行われた第1回の授賞式は、招待状が発送された時点で既に受賞者が決定していたため授賞式自体は4分半ほどで終わり、基本的にはホテルでの晩餐会形式だったと言われている。ところが第二次世界大戦中に晩餐会形式は不適切だとされたことから、第16回から会場を劇場へと移し、ショー形式へと移行したという経緯がある。


 そのためアカデミー賞授賞式といえば“華やかなショー”というイメージがあるのだが、今回の授賞式には、そのショー的要素が少し欠けていたという印象があった。例えば、歴代の受賞作や前年の話題作を題材にした大掛かりな歌やダンスといった類いのショーに今回は派手さが無かったし、話題の映画に対するパロディも例年に比べると精彩を欠いていた。その主たる理由は、ノミネーション発表の折から話題となっていた、アカデミー賞候補者の「白人偏重」に対する抗議が、授賞式自体にも大きな影響を与えていた点にあるようだった。


 司会のクリス・ロックは授賞式の冒頭、およそ10分間に渡って「白人偏重」に対するブラックジョークを連発し、会場の笑いを誘った。このスピーチを黒人であるクリス・ロックが引き受けたことで、「白人偏重」に対するエクスキューズが式典の頭で済まされたように思えたのだが、その後も授賞式は「白人偏重」に対するネタのオンパレードで、話題の映画に対するパロディも「白人偏重」ネタばかり。わだかまりが解けないまま閉幕した状態は、後味の悪さを感じずにいられなかった。


 クリス・ロックがどのようなブラックジョークを展開したのか? はたまた、どのようなボイコット運動があったのか?については、多くのサイトで検証が成されているので参照頂ければと思うのだが、一例を挙げると「黒人の候補者が欲しければ、黒人のカテゴリーを作るしかない」或いは「男女は別のカテゴリーだけど、演技の賞に男女の区別は必要ないでしょう? 陸上競技じゃあるまいし」とクリス・ロックが皮肉を込めた点に、実は本来議論すべき問題が隠されているのではないかと思うのである。


 近年、アカデミー賞は「これまで評価してこなかった映画人を評価しよう」という類いの流れがあった。例えばそれは、過去2年の授賞式を振り返ってみるだけでよくわかる。2年前の第86回で作品賞に輝いたのは、黒人奴隷の自由を描いた『それでも夜が明ける』(13)だった。この年の授賞式では、黒人として初めてアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエなど、歴代の黒人受賞者や黒人の映画人をプレゼンターに配するなどの配慮が成されていた。作品賞のプレゼンターを務めたのはウィル・スミスで、これは「黒人俳優から黒人を描いた映画に手渡したい」という映画芸術科学アカデミー側の“意図”が反映されたものだった。


 ならば「アカデミー賞は八百長なのか?」と言えばそうではない。今回の授賞式が「白人偏重」を配慮したものが“意図”となったように、授賞式には毎年ある種の“流れ”を演出している。実はこの前年の第85回、当初作品賞の最有力と言われていた作品が、スティーヴン・スピルバーグ監督の『リンカーン』(12)だったことを記憶している方も少なくないだろう。結果、作品賞は『アルゴ』(12)に譲ったのだが、このとき作品賞の発表はホワイトハウスから中継され、プレゼンターはミシェル・オバマ大統領夫人だった。つまり“意図”としては、「奴隷解放を行ったリンカーン大統領を描いた作品を黒人大統領在任のホワイトハウスから讃える」というものだったのだ。ところが、『アルゴ』でベン・アフレックが監督賞候補に漏れたことから同情票が集まり、形成が逆転したため“意図”が外れてしまったという訳なのである。


 ただ、このことから言えるのは、クリス・ロックが「黒人が選ばれなかった年は過去に71回はあったはず」と発言したように、アカデミー賞では黒人の映画人を冷遇してきたという歴史があり、そのことをハリウッドの映画人たちが『それでも夜が明ける』によって改めて評価しようとしていたのではないか? ということ。アカデミー賞の投票は、映画ファンや評論家ではなく、監督・俳優・スタッフというハリウッド同業者である“身内”が行う点で、業界内の好き嫌いが大いに反映されるという特徴がある。それだけに、その年々のアカデミー賞授賞式には“意図”のようなものが見え隠れするのである。


 その視点で第87回を思い返すと、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14)による作品賞以下の受賞によって、「これまで評価されなかったラテン系の映画人を評価する」という“意図”が、前年に監督賞を受賞したアルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』(13)に引き続いて成されていたことが伺える。


 それだけではない。第86回のエレン・デジェネレス、第87回のニール・パトリック・ハリスと、アカデミーは2年連続でLGBTを公言する人物を司会に選んでいた。LGBTもまたハリウッドが抱える問題のひとつなのだが、近年アメリカで同性婚が洲によって認められつつあるように、そのこともハリウッドで評価していこうという流れが何となくあったのである。


 LGBTの問題を描き、前評判や前哨戦において高い評価を得ていた『キャロル』や『リリーのすべて』が今回辛酸を舐めたことは、『ブロークバック・マウンテン』(05)における苦い過去を想起させる。この年、ハリウッドでは『ブロークバック・マウンテン』の第78回アカデミー作品賞受賞如何で、今後LGBTの問題をハリウッドメジャー作品で真正面から描けるようになるか否かという正念場にあった。実は第66回でも、『フィラデルフィア』(93)が評価されるか否かで、エイズの問題をハリウッドメジャーで描けるようになるか否かという瀬戸際にあった。結果トム・ハンクスが主演男優賞を受賞したことで、ハリウッドはエイズの問題を映画の題材にしやすくなったと言われている。同様の期待が『ブロークバック・マウンテン』にも寄せられたのだが、結果はアン・リーの監督賞などに留まり、作品賞を『クラッシュ』(05)に譲ったことで、「ハリウッドはLGBTを描くにはまだ早いと判断した」とされたのだ。


 今回『キャロル』で主演女優賞候補となったケイト・ブランシェットは、事前のインタビューで受賞が難しいことを自認しながら「10年前なら候補にすらならなかった、だから候補になったこと自体に意味がある」とLGBTを描いた作品がハリウッドで認められることにまだ時間がかかることを静かに訴えていた。それ故、『007 スペクター』で歌曲賞に輝いたサム・スミスが、受賞スピーチでLGBTの問題に言及したことにも意味があるように思えるのだ。


 確かに「白人偏重」は重要な問題だけれど、社会に点在する問題はそれだけではない。例えば、今回の候補作で長編や短編のドキュメンタリー部門や短編実写部門に目を向けると、民族や紛争・難民の問題を描いた作品で占められていたことにも気付く。また、男性から暴力を受けるパキスタンの女性たちの現実を描いた『A Girl in the river』で、シャーミーン・オベイド=チノイ監督が同様のテーマを題材にした『セイビング・フェイス 魂の救済』(12)に続いて短編ドキュメンタリー賞を受賞したことや、レディ・ガガが歌曲賞候補となった『ハンティング・グラウンド』の主題歌「Till it happens to you」のパフォーマンスで、女性への性差別問題が根深いことを感じさせた点も忘れてはならないのである。


 多様化を認める、ということは、そのこと自体が“利権”のようになってはならない。例えば、我々日本人からすると、『思い出のマーニー』(14)が長編アニメ映画賞を受賞しなかったことだけでなく、この映画で美術を担当した種田陽平が『ヘイトフル・エイト』の素晴らしい美術で候補にすらなっていない、或いは『レヴェナント:蘇えりし者』で坂本龍一が候補になっていない等、いくらでも難癖はつけられる。しかし、そんなこと言っても仕方ないことは百も承知なのだ。


 その“百も承知”であることが何となく反映されたのは、レオナルド・ディカプリオの受賞に際して、Twitterの呟きが1分間に44万もあったという記録の一方で、全米の番組視聴率自体は過去8年で最低であったという視聴者側の率直な反応にあるように思う。


 とはいえ悲観的要素ばかりではない。『ルーム』のブリー・ラーソンや『リリーのすべて』のアリシア・ヴィキャンデルといった新しい才能、他の候補作品と比べて圧倒的に製作費の低い『EX MACHINA』 に対するアナログ的な視覚効果への評価など、ハリウッドはまだまだ捨てたものではないとも思わせてくれる。そして授賞式自体も“映画製作における順序に添って受賞者を発表する”という趣向を凝らすなど、ハリウッドが「映画とは何なのか?」ということを今いちど検証・模索しているようにも見える。


 アカデミー賞の楽しみは「何が獲ったのか?」という受賞結果だけではなく、「なぜ獲ったのか?」或いは「なぜ獲れなかったのか?」という背景にある。そのことを導けば、10年先、20年先におけるハリウッド映画の展望が、今回授賞式にも見えてくるのではないだろうか。(松崎健夫)