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“音痴な歌姫”はなぜ観客の心を揺さぶるのか セザール賞4部門受賞『偉大なるマルグリット』の魅力

2016年02月29日 13:22  リアルサウンド

リアルサウンド

『偉大なるマルグリット』(c)2015 - FIDELITE FILMS - FRANCE 3 CINEMA - SIRENA FILM - SCOPE PICTURES - JOUROR CINEMA - CN5 PRODUCTIONS - GABRIEL INC.

■『偉大なるマルグリット』が描く、妥協なき“音痴な歌姫”の人生


 はっきり言おう。主人公マルグリットはすごい音痴だ。これがアマチュアならまだ我慢も効く。だが自分では歌がうまいと思い込んでいるのだからタチが悪い。しかも裕福な貴族階級ときたもんだ。こうなると周囲も同罪。特権階級どうしがご機嫌を伺って「ああ、なんて素晴らしい歌なんでしょう」などとやるものだから、ますます調子に乗ってしまう。まさに『裸の王様』の法則だ。純粋な少年がパレードを端から見ていたなら、その様子を「音痴だ!聞いていられない!」と実に客観的に笑い飛ばしたことだろう。


参考:菊地成孔と幸田浩子、『偉大なるマルグリット』を語る 菊地「音楽家としての純粋さに感動する」


 しかし、本作は『裸の王様』のようにはいかない。ここからがマルグリットの“偉大さ”の真骨頂。てっきり空気読めずの、女王様気取りおばさんと思っていた彼女の生き様に、感情にカメラがぐいぐいと迫って、観客をみるみる引き込んでいく。その語り口が実に見事。まさにこの題名に偽りなしだ。


■狂騒の時代に花咲いた、ソプラノ歌手


 本作の舞台は1920年、パリ。英国のテレビドラマ『ダウントン・アビー』をご覧になってる方なら時代が想像しやすいと思うが(シーズン3のあたりだ)、第一次大戦にて多くの身近な者たちの喪失を経たのち、自由と平和を謳歌し、芸術やファッション、音楽、建築など、ありとあらゆるところで創造性を爆発させていた“狂騒の時代”だ。ピカソやダリなどが出現したのもこのあたりで、何かしらこれまでの古い価値観が崩れて新しいものが一気に咲き乱れた頃だったことがうかがえる。


 しかしそれにしても、たとえ狂騒の尺度で測ったとしても、このソプラノ歌手はあまりにアヴァンギャルド過ぎる。ヒロインのマルグリット・デュモンは、自身の邸宅内で開かれたサロン・コンサートの大トリとしておもむろに登場したかと思うと、どんな素晴らしい歌声が聴けるのかと期待に胸を高鳴らせて待ち構える聴衆の鼻をへし折るほどの手痛い洗礼を食らわせるのだ。もちろん、本人はそれが“手痛い”ことを全く理解していない。音程はずしどころか、もはや一つでも正しい音程で歌えた箇所すらあったのかと神様に問いかけたくなるほど。かつてジャイアンの歌唱を「ボゲ~♪」と表現した藤子不二雄先生は紛れもない天才だったが、マルグリットが奏でる調子っぱずれの歌唱もまた、妙な弛緩ぶりが絶妙に効いている。その場に居あわせた聴衆の、顎が外れたような驚き顔、こみ上げる笑いを奥歯で咬み殺すかのような見事なリアクションの数々も素晴らしい。


 いやそれより我々は、この妙ちくりんな歌声とともに、どういうわけか彼女のまっすぐな眼差しに惹かれていく。その目は一点の曇りもなく、純粋に芸術を、音楽を、ただひたすら愛している。まるで初恋に落ちた思春期の少女のような表情で、サロン・コンサートの直後も召使に「ああ……高音がうまく出せなかったわ……」と溜息まじりの告白をする。もちろん誰も「なんの! 高音どころか、音ぜんぶ外してましたから!」と教えてくれる者はいない。それはそれで幸運であり、そしてまた悲劇。


■実在した“伝説の歌手”がモデル!?


 この話、てっきりフィクションかと思っていた。しかし本作には実在のモデルがいるという。その名はマルグリットではなく、フローレンス・フォスター。アメリカ人の歌手で、40年代にはカーネギーホールに立ち、さらにレコード盤などでも歌声が残されている(YouTubeで検索するとその奇跡の歌声に触れられる)。その上、彼女の逸話を映画化した、その名も「Florence Foster Jenkins(原題)」が、メリル・ストリープ、ヒュー・グラント主演で製作中であるのをご存知の方も多いだろう。


 『偉大なるマルグリット』を手がけたグザヴィエ・ジャノリ監督も、そんな彼女の存在に魅了され、取り憑かれたようにリサーチを続けてきた一人だ。しかし彼のアプトプットの仕方は実に興味深いものだった。伝記映画という形式に興味のなかったこの監督は、フローレンス・フォスター・ジェンキンスという人物をあくまで着想の域にとどめ、舞台やテーマ性を全く別の枠組みへと昇華。そうやって物語を自由自在に構築して、ここに新たなマルグリット・デュモンという歌姫の物語が誕生したのだ。


■“マルグリット”という存在が投げかけるもの


 何よりも面白いのは、この映画が幾重にも形や輝き方を変えて、観る者の内側に光を差し込ませてくるところだろう。あらかじめ定められた音階を外して歌ってはいけないと誰が決めたのか? 耳心地の良いものの定義は誰が決めたのか? この映画を2時間見終わった時、マルグリットの歌声がどこか病みつきになって、自分もああやって音程を外した調子で歌いたくなってしまうのはなぜなのか?


 カトリーヌ・フロ演じるヒロインは、狂騒の時代にそぐわぬほどの赤子のような純真さで、健気に愛の歌を奏で続ける。最初から最後まで微塵も変わらぬそのまっすぐさ。そんな彼女をおだて上げて利用しようとする者がいる。笑い者にしようとする者がいる。彼女が持つ富の恩恵にあずかっている者たちもまた、その社会構造上、「あなた、音痴ですよ」と言えるはずもない。誰しもに非がある。しかし本作は、だからと言って誰かを糾弾したり、なにが素晴らしい価値観なのかを観客に押し付けることもない。彼女の人生こそオペラなのだと言わんばかりに、クライマックスへ向けて心を高揚させ、ただひたすら突き進んでいく。


 伝説の幕切れの瞬間、観客の心に刻まれるものは一体どんな風景なのか。すべてを喜劇として捉える人もいれば、悲劇として涙を拭う者もあるだろう。いずれにしても本作は痛烈かつ鮮烈な何かを残し、観客の琴線を震わせ、共鳴の渦を広げていく。上映後、劇場を一歩外に出ると、これまでとは全く世界が違って見えるはず。思わずこみ上げるあなたの鼻歌もまた、えらく調子っぱずれのメロディに仕上がっているかもしれない。きっとそれでいい。それでこそ人生。それでこそ、オペラ。(牛津厚信)