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AKB、SKE、NMB、HKT、乃木坂……ドキュメンタリー映画が迫った各グループの「奥行き」

2016年02月29日 07:01  リアルサウンド

リアルサウンド

AKB48『君はメロディー』

 この一年ほどの間に、AKB48系の各グループのドキュメンタリー映画が相次いで公開されてきた。被写体となったのはSKE48、NMB48、HKT48といったAKB48の姉妹グループ、そしてAKB48の公式ライバル乃木坂46の4グループである。発足から間もないNGT48と欅坂46を除けば、国内のAKB48派生グループすべてがドキュメンタリー作品を持ったことになる。もっとも、AKB48のドキュメンタリー映画だけでも過去に4作を重ねている。第1作目を監督した寒竹ゆり、そして2作目以降、回を追うたびにフォーカスするポイントや遠近感を少しずつ変えつつAKB48のトレードマークの一面を作ってきた高橋栄樹によって、AKB48系の組織の諸側面は多角的に捉えられてきた。そこに加えて、この一年でさらに4作品が積み重ねられたことになる。作品数だけを見れば、いかにも48系ドキュメンタリーは飽和しているようだ。けれども、AKB48本体がドキュメンタリー映画を発表しなかったこの期間の作品群が見せるそれぞれのスタンスの広がりは、10周年を迎えた組織が抱えるダイナミズムの総体がまだまだ豊かで巨大であることを示している。

 ちょうど1年前、2015年2月27日に公開された『アイドルの涙 DOCUMENTARY of SKE48』は、それまでのAKB48ドキュメンタリーとは捉えようとするスパンが異なっていた。公開時点で6年を超える歴史を重ねていたSKE48について、監督を務めた石原真はその歴史全体を追い、素人然とした初期メンバーたちが鍛えられてプロフェッショナルになっていくまでの足跡をたどった。直近の一年間程度にフォーカスされることの多いAKB48のドキュメンタリーに対して、この作品は見据える期間が圧倒的に長い。それゆえ、インタビューで初期のSKE48について語る顔ぶれの中には少なからずグループを卒業している者もいたし、映画の構成として公開時点のSKE48主力メンバーとそうした元メンバーとが同等の比重で扱われていた。AKB48グループで長きにわたって活躍する人物と、ある時点で48グループの外へと視野を移して別の道へと分かれていった人物とを、その人生において同じ重さで扱うこと。石原が手がけたこのドキュメンタリーにはそうした意図が忍ばされているように見えた。


 48グループから離れた「別の道」を尊重するその作りは、姉妹グループの中で最もAKB48系の内部競争に意識的なグループであるSKE48を扱う作品で実現されるからこそ効果的になる。初期からグループ内で鍛え上げられることで48グループ屈指の存在感を示すようになった松井玲奈は、同時に48グループの外へのビジョンを獲得しながらキャリアを重ね、この映画公開の年にこれ以上なく準備万端の状態で卒業を発表した。この映画でももちろん重要人物となる松井の歩みは、メンバーそれぞれのライフコースが同等に尊いことを示していたSKE48ドキュメンタリーと相まって趣き深い。

 その松井玲奈が、短いシーンながら強い存在感をもって、ある種の超越者として立ち現れるのが7月10日公開『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』だ。一時乃木坂46にも兼任メンバーとして加入していた松井はこの作品内で乃木坂46について、「グループとして自分たちの方向性がまだ見出だせていない」という表現を用いる。急いで補足すれば、これは必ずしも批判的な意図ではない。乃木坂46というグループの性質を「何か、透明な感じ」と語る中で、あくまでニュートラルな視点として分析した言葉だった。AKB48グループが仕掛け続ける大掛かりなストーリーにコミットしてきた松井の視点は、乃木坂46というグループの性格とある意味で非常に対照的だ。乃木坂46のMVも多く手がけてきた丸山健志が監督する『悲しみの忘れ方』が基調とするのは、AKB48を代表とする今日のアイドルシーンに対する、乃木坂46メンバーの心理的な距離感である。それはナレーションの言葉がメンバーたちの母親という、「一般人」の視点でつづった文言によって構成される点に象徴的だ。我が娘にオーディションを勧めたことについて「とりかえしのつかないことをしてしまった」という表現を選んだメンバーの母の言葉にもあらわれるように、この映画の視点はアイドルシーンにではなく、そこに乗りきれない人々の視点に寄り添っている。とはいえ、この映画が公開された2015年はまさに乃木坂46がアイドルシーンの中心に自らを位置づけた年である。それは、松井の言う「グループとしての方向性」を確固たるものにしていったということでもあるが、乃木坂46というブランドはそれでもなお、競争的なアイドルシーンに素直に順応するのとは違う仕方で独自色を築いている。そうした色合いの違いも、グループ単独のドキュメンタリーが作られることであらわになる。


 とはいえ、ドキュメンタリーとグループの色調とはイコールではない。SKE48や乃木坂46の作品のカラーがある程度、そのグループのスタンスから導き出されたものであるにせよ、ドキュメンタリーは常に、作り手の世界観とそれに基づく意図的なフレームの切り方によって成型される。それを対照的な形で示したのが、2016年1月に入って公開された二本のドキュメンタリー『尾崎支配人が泣いた夜 DOCUMENTARY of HKT48』と『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』だった。48グループ最重要メンバーの一人・指原莉乃が監督を務めた『尾崎支配人が泣いた夜』はその性質上、指原自身が被写体ともなる。このグループ内でひとり特権的な場所にいる指原は、メンバーとしての自分やHKT48というグループ全体のみならず、そうした立場で映画を撮っている監督としての己さえも俯瞰し、このドキュメンタリー自体をいかに制御するのかという手の内を解体して見せていく。ただし、そうした作りにもかかわらず、映画自体は指原個人の独善としてあるのではなく、あくまでメンバーたちの躍動や成長、メンバー同士の関係性へと収斂していく。その秀逸なバランス感覚は、グループアイドルの何が楽しまれ、どこに困難があるのかを熟知している指原ゆえであるし、またそのスタンスは過去に幾度も撮られてきたAKB48のドキュメンタリーの蓄積があってこそ、豊かなバリエーションのひとつたりえるものだ。

「指原監督」がアイドルシーンにとってこれ以上ないほどの内部者であるならば、NMB48のドキュメンタリー『道頓堀よ、泣かせてくれ!』を監督した舩橋淳は、AKB48系ドキュメンタリー史上最も「外部」に位置する。同作が携えているのは、いわば「世間」から見たAKB48的なるもののパブリックイメージを自然となぞっていくような視線である。この作品は、他の作品群に比べればシンプルすぎるほどにクローズアップする要素を絞っていく。作品トータルで見て、ここまで「握手」と「選挙」を競争の要素として重く扱ったものはなかっただろう。そうした要素はいわば、「世間」にとっての、AKB48グループを表す記号である。先のSKE48との対比でいうならば、NMB48は選抜総選挙を通じた競争を、相対的に追求してこなかったグループである。それでもなお、この映画の視点は選挙にとても重い意義を見出そうとするし、そのぶんメンバー間の些細な人間関係を拾うような「遊び」は少なくなる。そうした作りは、先の指原のスタンスとはまったく違うかたちで、ドキュメンタリーがある固有の視点から恣意的に切り取られるものであることを浮き彫りにする。そして、このようなフレーミングもまた、巨大なメディア的存在となったAKB48グループに対して社会が抱くパブリックイメージのひとつなのだ。おそらくは、ファンやメンバーにとってよりも、ファンではない「世間」の方が、AKB48グループにおける選抜総選挙を大きく絶対的なものとして位置づけている。たとえばそんなことも、この作品独特の足場によってこそ認識させられるのだ。

 AKB48グループは、内輪的に楽しまれるような集団のダイナミズムを無数に備えたエンターテインメントであり、また同時にファンではない人々にとっても大きな存在感を放つメディア的存在である。AKB48の派生グループがこの一年で描いてきたドキュメンタリー群は、そうした巨大で複合的な意味を持つこの組織の奥行きを、さまざまな位相で表現してきた。次にやってくるのはAKB48の新作ドキュメンタリーとなるはずだ。派生グループによってドキュメンタリーがいくつもの視覚を提示してみせたうえで世に放たれる本家のドキュメンタリーは、その背景に重層的な景色を帯びているはずである。(香月孝史)