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たけし&西島共演『女が眠る時』が描く、“窃視”ミステリーの醍醐味

2016年02月28日 07:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 映画「女が眠る時」製作委員会

 プールサイドで見つけた年の離れたカップルに興味をそそられ、彼らの行動を監視する作家の男。元来、作家という職業は人を見ることによって物語を頭の中で構築する才を持っている。作家でなかったり、作品として還元されなければ、それは単なる妄想に過ぎない。奇しくも作家はスランプに陥っている設定で、積極的に題材を探そうとしていたに違いない。倦怠期真只中の妻と訪れたリゾートホテルでの時間は、何か新しい題材を見つけることができなければ、無駄な時間になってしまうと思えるからだ。


参考:ビートたけし×西島秀俊×ウェイン・ワン監督が語る“映画と女” 新作『女が眠る時』インタビュー


 作家が見つけた題材は、毎晩少女の寝姿を録画し続ける男の姿である。この男が何を求めているのか、決してその真意は語られることはない。男は少女の最後の姿を記録するために、常に上書きをし続けていると語るのだが、実際には幾つかの寝姿を残しているのである。男が少女に向けているのは性的な欲求なのだろうか。それとも少女の寝姿に、大いなる美を夢想しているからではないだろうか。


 『女が眠る時』というタイトルの古風さは、まさに年老いた男が美しい少女を夜な夜な観察する川端康成の『眠れる美女』の世界を連想させるものがある。スペインの作家ハビエル・マリアスが紡いだ短い物語を、映画としてアレンジする上で、日本を舞台に選んだのは紛れもなく日本文学へのそこはかとないオマージュを捧げることのアピールである。


 そのような文学的なアプローチを選んでいるにもかかわらず、映画は正攻法で窃視ミステリーというカテゴリーのセオリーを踏襲している。他人を盗み見る「窃視」行動によって導かれるミステリーは、まずはアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』に結びつかなくてはならない。


 『裏窓』の中で、車椅子生活に退屈をしていたジェームズ・スチュアートが、隣のアパルトマンに暮らす者を監視するために使うのは、望遠レンズをあしらったカメラであり、彼がカメラマンであるという職業上、最も相応しい武器になる。それ故、『女が眠る時』で西島秀俊が演じる作家は、職業的な武器となるパソコンは部屋に置いたまま、自らの足で、自らの目で対象となるカップルを追い続けるのである。プールサイドで麦わら帽子越しにカップルの姿を見つめたり、彼らが訪れる民宿を訪ねてみたり、部屋に忍び込んだりと。もちろん対象に直接会って話を聞き出そうとすることも厭わない。結果として、作家の男の頭の中で、あらゆる耽美な妄想が構築されていることが可視化され、単調な窃視行為が映画としての装飾を纏うのである。


 現実と妄想が重なり合い、それが一本の映画の中で複雑に絡み合うという様も窃視ミステリーの醍醐味である。妄想というものは相手を窃視することによって生み出されるものであり、例えばアラン・レネの『去年マリエンバートで』のように、ある限られた場所で出会った相手に対して、深く関わり合いを持とうとする主人公によって、現実から乖離された登場人物の主観的世界を観客に味わわせることは、本作でも体験できる。


 興味深いのは、この映画の登場人物たちの関係性が、よりミステリアスさを駆り立てることである。西島秀俊演じる作家の男が監視するのはビートたけしが演じる男。その監視されている男が監視するのは忽那汐里演じる少女。この三人が一方的に監視し合う構図だけが存在するのかと思わせておいて、作家の妻を演じる小山田サユリが演じているのは編集者の女であり、当然のごとく作家の男に新作を書かせるために監視をしているのである。作家がタバコを吸おうとするのを止めたり、プールサイドではカップルを見ようとする作家に対して帽子を手渡して、彼の行う監視を幇助する。


 それによって、この映画のメインキャスト4人の間では「書かせる女」「書けない男」「撮る男」「撮られる女」の順にそれぞれが一方的に監視し合うシンプルな構図ができあがるのだが、それが終盤に一方通行でなくなることによって、複雑なミステリーとして初めて成立することになる。まして、そこに劇映画の根底を司る「書く」という行為と「撮る」という行為の両方が成立するのだから、魅力は尽きることがない。


 さらに、ホテルの従業員を務める渡辺真起子や、民宿のオーナーを演じるリリー・フランキー、地元の刑事を演じる新井浩文といった脇を固める演者たちが、どことなく不気味な雰囲気を放ち続ける。とくにリリー・フランキーのぶっきらぼうでありながらも、的確に相手に言葉を伝えようとしているような喋り方と、時折見せる不穏な笑みは、この映画をよりミステリアスに落とし込むためのフックとしての重要な役割を果たしているのだ。


 ウェイン・ワンという映画作家というと、やはり『スモーク』という輝かしい一本のフィルムによって厚い信頼を寄せられている存在である。香港で生まれ、アメリカで映画を撮り続けていた彼のこれまでの作品に現れてきた多国籍感が、日本を舞台にどのような印象をつけることができるのか、正直不安な部分もあった。しかしながら、東京からわずか2時間半で行くことができる伊豆のリゾートホテルですら、外界から隔絶された異世界のように見せるその手腕は、まだまだ彼の突出した才能が健在であったことを証明したのである。(久保田和馬)