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ビートたけし×西島秀俊×ウェイン・ワン監督が語る“映画と女” 新作『女が眠る時』インタビュー

2016年02月26日 07:01  リアルサウンド

リアルサウンド

【左から】西島秀俊、ビートたけし、ウェイン・ワン監督

 『スモーク』(1995年)で第45回ベルリン国際映画祭審査員特別賞を受賞したウェイン・ワン監督が手がけた、初の日本映画『女が眠る時』が2月27日に公開される。妻の綾とバカンスを過ごすため、リゾートホテルを訪れた小説家の健二が、プールサイドで初老の男・佐原と若い女・美樹の姿に目を奪われたことから、次第に彼らを覗き見するようになり、常軌を逸した行動へと走っていく姿を描く。リアルサウンド映画部では、自身監督作以外での映画主演は12年ぶりとなるビートたけし、たけしとは昨年の『劇場版 MOZU』に続いての共演となる西島秀俊、そしてメガホンを取ったワン監督にインタビューを行い、撮影時のエピソードや本作についてそれぞれが感じたこと、解釈の仕方が何通りもある本作を通して、観客に訴えたかったことなどを赤裸々に語ってもらった。


参考:ビートたけし主演『女が眠る時』予告編公開 中森明菜によるイメージソング&タイトルコールも


■「今回の作品では、我々は監督に翻弄された」(たけし)


ーーまず、脚本を読んだ時の感想をそれぞれ教えていただけますか。


ウェイン・ワン監督(以下、ワン):この作品は、ニューヨーカー誌に掲載されていたハビエル・マリアスによる短編小説が基になっていて、オリジナルストーリーの舞台はスペインでした。それを、日本の脚本家にお願いして、日本を舞台にしたものに書き直してもらいました。原作はとても複雑なものだったんです。特に、若い女性に対する佐原の執着は非常に哲学的なものでした。原作に忠実でありながらも、舞台を日本に変えたことで、そういう哲学的な側面をカットすることができ、よりインパクトのある内容になったと思います。もともと作家の傾向として、セリフに頼りすぎてしまうところがあるので、それは逆によかったですね。


ビートたけし(以下、たけし):俺は、「単なる変態オヤジだな」って(笑)。変態オヤジの役だから嬉しくもあり、悲しくもあり。だけどストーリーを追っていくと、これは非現実的な変わりものを見せているんじゃないかなという感じがして。休暇でリゾートホテルを訪れた作家夫婦に見せていることなのか、作家夫婦も含め、全体的な妙な世界を観客に見せているのか。最初はいろいろ考えたけど、そのまま撮影に入ったんで、まあ妙な性癖のある変なやつには間違いないということで、完成するまで言われた通りにやっていった。で、いざ出来上がった作品を観てみたら、現実なのか、非現実なのか、解釈のしようがいくらでもあって。俺は自分の中で一番面白いと思う解釈の仕方をしたけど、観る人によってそれぞれ違う解釈があるなと思った。


西島秀俊(以下、西島):僕は最初、ある不思議なカップルを覗き見しているような、エロティックなストーリーなのかなと思って。それで読み進めていくと、だんだんサスペンスのようになっていって、急に事件が起こったり、死が訪れたり……というようなストーリーが展開されていったので、非常に楽しく読めました。


ーータイトルにも入っている“女”という存在が重要な役割を果たしているわけですが、“女”という存在に対して、皆さんそれぞれどのような印象を抱いていますか?


たけし:まあ……西島くんは結婚してないもんな?


西島:いや、したんですよ(笑)。


たけし:えっ? あ、そうか。なんだ、言ってくれりゃ止めたのに。


一同:(爆笑)


たけし:カミさんはすごいですよ。女はすごい。あらゆるモノを持ってるから。基本的にすべての生き物は女で生まれて、そのまま女になるか、途中から男に変化するかだから。よく言われるけども、すべての可能性を持っているのはメスだよね。それに男が翻弄されていく。正直に言うと、今回の作品では、我々は監督に翻弄されたわけ。この監督は何を考えているんだろうかーー。俺は一体何をしてるんだろうかーー。途中から意味不明になっていった(笑)。


ワン:役者さんにはそのぐらいの演出でいいと思うんです。翻弄させたい。そうすると、役者さんは自分たちの本能に頼らざるを得なくなりますから。まあ、それは半分ジョークですけど(笑)。たけしさんには、この作品は彼が撮ってきた刑事モノやヤクザモノに近いんだということを伝えました。同意や裏切り、そして殺し。ある種の忠誠心についての映画でもあります。


ーー西島さんはいかがですか?


西島:たけしさんも言っていたように、この映画は本当にいろいろな解釈がある。あるスタッフが、すべてをコントロールしていたのは健二の妻なんじゃないかって言っていて。そう考えると怖いですよね。今回の映画を観ても、“女に翻弄される男”っていうのは感じます。全然違う視点で見ていますよね。実生活でも、こっちが必死でやっていることを、実はあんまり大したことだと思っていないっていうのを感じる時はあります。こっちは結構命がけでやってるんだけどなって(笑)。


■「イチからいろいろやり直そう、考え直そうって思いました」(西島)


ーー“覗き”や“妄想”を通して、観客も翻弄されていく作品でもありますよね。


ワン:映画を観るという行為自体が“覗き”ですからね。我々は映画館に行き、座席に座り、照明が落ち、そしてスクリーンの中の人たちを観るわけです。この映画には、変態性を持った男と、その変態性を持った男を見ることに興味を持ち始めるもう1人の男が出てきます。でもこれがすべて本当なのかという問いかけも同時に存在するわけです。皆さんには、ただの覗き見ではなく、それ以上のものになるような見方をしてほしいですね。


たけし:自分の解釈では、この映画は覗いていること自体がまず妄想になっている。覗くこと自体が妄想なんだけど、その中にさらにもうひとつ妄想が入っているという、バームクーヘン状態なんだよね。最後のシーンが一番外側の妄想で、その妄想ですべて語っちゃったっていう。


西島:僕の役は本当は必要ないんですよ。観客の方たちは、謎めいた男性と女性の関係を観ていればよくて、僕はその観客の視点で入っています。彼らを覗いていたら、逆にどんどん侵食されていく。客観的に安全な場所で観客の方たちに観てもらうんじゃなくて、より危険なところに入っていってもらうために僕がいて、彼らを覗いてるっていうことだと思うんですね。だから僕も普通に観客として観ると、何でこんなにのめり込んじゃうんだろうっていうぐらい引きずり込まれました。それは、監督がそういう構造にして、そう作用しているからかなって思います。実際に観ていただくと、本当にどんどん引き込まれていくんで。


ーーたけしさんは西島さんとの再共演はいかがでしたか?


たけし:俺はこの映画で変態オヤジの役をやったり、『MOZU』ではダルマっていう……自分でも誰だかわからないんだけど、悪い奴には違いない(笑)、そんな役ばかり演じているから、嫌われ者タレントになっちゃって(笑)。まあ俺は自分の演技がうまいとは全然思ってないし、演技の基本的な教育も受けていない。だから、画面の中の自分が監督のイメージ通りに映ったかどうかだけが心配で。西島くんはそれにどう関わってくるかっていうだけだから、西島くんがこうだから俺はこう動く、というようなことを考える余裕は全然なかった。監督が、「ここからあそこまでこの方向に歩いてくれ」って言うと、その方向にただ歩いていっただけ。もしその時の佐原の心情を教えてもらったとしても、別にステップが変わるわけでもない。ただ映像として、ある人にはこう映るけど、またある人には別の姿に映るとか、映像の中のイメージで被写体として成り立っていると感じてもらえたらいいなと思う。


ワン:あるシーンを撮影する時、たけしさんに佐原の心理的な説明をしようと、私は心の準備をしていました。けれど、たけしさんはその時すでに、そのシーンに必要な“怒り”を持っていらしたんです。だから、特に説明はせずに立ち位置のリハーサルだけをして、本番に臨みました。結果、ものすごくパワフルに演じていただきました。私はそれを撮っていただけです。彼の体が、そのシーンで伝えなければいけないことを全て物語っていました。


ーーなるほど。西島さんは今回の作品でのたけしさんとの共演はいかがでしたか?


西島:僕が演じる健二は、現実に起こっている様々なことを見ないようにして生きている役なんですよね。一方、佐原は、こういうことをやりたいとか、この子を手放したくないとか、愛情をストレートに出すキャラクターです。この佐原と関わることによって、日常生活の中で見ないようにして隠していた健二のいろいろな部分が、どんどん暴かれていく。これはやっぱり、みんなが見ないようにしている部分を暴いていくという、北野さんがもともと持っている資質が、役と一致しているんじゃないかなって思いました。僕のイメージでは、北野さんご本人もいろんなことに執着がない方で、今まで演じられてきたキャラクターも、死や生に対しての執着がない。もちろん女性に対してもそうで、それが素晴らしいなと。でも今回、初めて愛情にすごく執着・固執するっていう役だと思って、それが本当に素晴らしくて。現場でもすごく勉強になりましたけど、今回は完成した作品を観て、ちょっともう一回イチからいろいろやり直そう、考え直そうって思いました。アート映画で北野さんがやられると、もう勝負にならないというか……参りました。この作品は2015年の一番大きい出来事で、2016年からは心を入れ替えていろいろやり方を変えていかないといけないなと……。


一同:(笑)。


西島:いや、本当にそう思ってるんです。昨日観て、「俺ダメだこれ本当に」と思って。非常にいろいろなインパクトを受けた作品になりました。


ワン:たけしさんも西島さんも、役者として非常に強いものを持っていて、リアルに感じていないことは演じない方々です。私は映画監督として長年ひとつのセオリーを持っています。演出面でおふたりに唯一言ったことは、「演技をしないでくれ」ということです。ただキャラクターとしてリアルに存在してくれということしか、申し上げられませんでした。


■「皆さんには、ぜひ想像力を発揮させていただきたい」(ワン)


ーー“北野武監督”として、ワン監督の姿はどのように映ったのでしょうか?


たけし:ワン監督はコンテンポラリーというか、現代映画作家だと思う。自分が監督した映画で取材を受ける時とかに、記者からよく「あなたはこの映画で何を言いたいんですか?」って質問されるんだよね。すると俺は、「言葉で説明できるぐらいなら映画は撮らねえだろ」っていうようなことをよく言うんだけど(笑)。今回の映画は、「あなたはこの映画で何を言いたいんですか?」っていう質問を逆手に取って、「あなたはこの映画をどう思う?」って問いかける、逆襲の映画だと思う。作り手側がこう思ってるってことは絶対に言ってないし、性別も年齢も教養度も全部含めて、それぞれが全部違う意見を持っても構わないと。そういう映画で演じてくれって言われると、どうにでも解釈できるような役にならないといけない。だから監督が「演じないでくれ」っていうのはそういうことだと思う。ビートたけしっていう見た目の俺が、言われた通りに動く。その動きを観客がどう解釈するかだよね。


ーー本当にいくつもの解釈があると思います。何度も観たくなる映画でもありますね。


西島:きちんとしたストーリーがベースにありつつ、これだけ観客に委ねられた映画っていうのはなかなかないんじゃないですかね。最後のシーンだけがリアルであとは全部イメージっていう人もいるだろうし、もしかしたら最初のプールサイドだけがリアルであとはイメージっていう人もいるかもしれない。この作品を観た人の数だけストーリーと解釈があって、それが全部正しい。監督が特に何か正解を設定しているわけでもないですし。よく言いますけど、“観客のみなさんが観ることによって映画が完成する”というものの、本当の形だと思います。だから、観る人によっては本当に楽しめる、自分が最後に完成させるっていう映画だと思いますね。


ーーこのような様々な解釈ができる作品にした意図みたいなものはあるんでしょうか?


ワン:私が映画学校に通っていた頃、それも初日だったんですが、教授が私のところにやってきて、プラトンの『洞窟の寓話』について話してくれました。ストーリーはとてもシンプルで、洞窟の中に、鎖で繋がれた囚人たちがいる。彼らの前には大きな壁があり、彼らの背後では炎が燃え盛っている。その火と囚人の間で、人形使いたちが操り人形を使って、囚人たちに“影”で物語を見せていく。幼い頃からその洞窟にいる囚人たちには、その操り人形の影だけが、全人生のリアリティなわけです。映画も同じなんです。政府にも、ハリウッドにも、日本映画にも言えることですが、こういうふうに考えなさいということを、我々は押し付けられているのではないでしょうか。人間の脳はとてもクリエイティブなもので、一瞬のうちにものすごい想像力を発揮する。僕は映画作家として、観客をプラトンの洞窟の中に置きたくないんです。この映画をご覧いただく皆さんには、ぜひその想像力を発揮させていただきたいですね。(取材・文=宮川翔)