数年前から「私には論理的思考力があります。なぜならば…」といった書き出しの自己PR文をよく目にするようになりました。最大の理由は求める人材像に「論理的思考力がある人材」と書く企業が増えたことでしょう。
この手の表現を使うことを推奨する就活本があることも、影響しているかもしれません。しかし、このフレーズに意外な副作用があることはあまり知られていません。一番の副作用は、「自分で自分のハードルを上げてしまうこと」です。(文:河合浩司)
ディベートサークルの活動だけでは根拠として希薄
「私には論理的思考力がある」と主張する人を見て、あなたはどう思いますか? そのひと言だけで、この人は仕事ができると判断するでしょうか。それよりも「ずいぶん大きく出たなぁ、大丈夫?」と思ってしまうのが人の常でしょう。
実際、さぞかしスゴイことが書かれているのかと期待して読み進めると、ディベートサークルの活動やプレゼンやスピーチ大会の出場経験などについてアピールしていることが多いです。活動に打ち込んだこと自体は素晴らしいですのが、それだけで論理的思考力が証明されたとはいえません。
これは書類選考だけでなく、面接時も同様です。面接の冒頭で「論理的思考力がある」と言いながら、論理的な返答をしてくれる学生は稀です。あらかじめハードルを上げてしまうと、余計にアラが目立ってしまいます。
そもそも面接とは雑談のように会話が展開していく中で、お互いを知っていくことが目的です。終始論理的な話し方をする必要はありません。あまりにも飛躍しすぎるようでは困りますが、臨機応変に受け答えをすることも大事なことです。
「完璧に論理的に考え行動する」ことなど不可能
社会人でも「自分には論理的思考力がある」と言い切れる人は多くありませんが、それは致命的な欠点ともいえません。仕事やビジネスにおいては、ある一方から見て論理的に正しいと思われることを主張するだけでは、物事は動かないからです。
未確定であいまいな条件を基に、賭けのような判断を下さなくてはならないことも往々にしてあります。さまざまな異なる価値観を持った人の利害を、うまく調整しながら推進しなければならないことも。「完璧に論理的に考えて行動する」ことなど、そもそも論理的に不可能なのです。
いくら論理的な人であっても「ある程度」という留保がつくもの。それを自分のウリにするのはリスクが高すぎます。わざわざ「論理的思考力がある」と主張しなくても、論理的な話し方をすればそのスキルは自然と伝わってくるものですよ。
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