2016年02月11日 07:01 リアルサウンド
「彼の通ったあとは、ぺんぺん草も生えないですからね」
当時、『おもひでぽろぽろ』のプロデューサーを務めていた宮崎駿が、苦笑いしながらそう表現したのは、同作の監督を務めた、日本アニメーション界の重鎮、高畑勲のことである。
完璧主義者で理想の高い高畑監督の異常なこだわりは、用意された時間と労働力を、限界を超えて費し、スタジオジブリをはじめとする製作環境の屋台骨を軋ませながら、今までに規格外の名作を生み出してきた。最近になって、そのジブリも、高畑・宮崎両監督が、長編作品からの引退を示唆すると、当時製作中だった『思い出のマーニー』を最後に、早々に作品の製作がストップしてしまった。それほどまでに、このスタジオは、「両監督のためのもの」であったという事実が分かる出来事だ。しかし、それも無理はないと思わせるのは、ジブリのみならず、現在の日本の若手・中堅アニメーション監督と比べても、その演出の力量に、あまりに歴然とした差があると感じさせるからだ。
『かぐや姫の物語』では、惜しくもアカデミー賞の受賞を逃した高畑勲監督だが、この度「アニメ界のアカデミー賞」とも呼ばれるアニー賞で、アニメ界の功労者に贈られる「ウィンザー・マッケイ賞」を受賞した。過去にウォルト・ディズニーやフレデリック・バック、そして川本喜八郎、手塚治虫、宮崎駿、大友克洋など日本人クリエイターにも同賞が贈られているが、高畑監督の作品が世界に与えた功績を思うと、むしろ受賞は遅すぎるといえるかもしれない。今回は、世界が評価する高畑作品のすごさはどこにあるのか、宮崎駿監督との比較も交えながら考えていきたい。
東映動画時代、監督として頭角を現し始めた高畑勲は、右腕として宮崎駿を見出し、その後数十年、お互いの作品に協力し、また競い合いながら関係を続けてきた。それまでミリタリーや、東映動画『白蛇伝』などのアニメ美少女に夢中だった宮崎が、東大仏文科出身である高畑の、インテリジェンスや思想、文化的な豊かさや高尚さに傾倒し、憧れていったのは想像に難くない。宮崎は、高畑監督のために身を粉にして作品のレイアウトなどを担当し、作品の質を大幅に向上させた。宮崎は後に、「青春を全て高畑に捧げた」と語る。
主に日本のTVアニメで使われた、数枚の動画を繰り返すことで簡略化を図る「リミテッド・アニメーション」に対抗し、本来のリッチな動きに立ち戻る「フル・アニメーション」にこだわることで、繰り返しの鑑賞にも堪える、高い質を持った作品が、高畑らを中心とした、熱意を持つ優秀なスタッフによって作られていく。だが宮崎駿は、高畑監督の静的な作風に次第に不満を感じ、冒険娯楽活劇を自分で監督することに熱意を燃やし、その後、絶大な人気を集めていく。また高畑も、「それとは違うものを作りたい、作らざるを得ない」と、さらに自分の作風を深化させ、同じスタジオの中にいながら、二人の道は分かれてゆくことになる。
自分で絵コンテを描き、自らが陣頭に立つ「闘将」である宮崎駿と比べ、高畑勲は、自分で作画をしない。彼は、「ディズニーは、すでに無声映画時代から絵を描いていません。あとの半生は、アンサンブルを作り出すことに徹していました」と言っている。ここから、「日本のディズニー」の役割を目指し、自分が日本アニメーションの道を切り拓こうという、高畑監督の強い意志を感じるのである。その達成のためには、独自のアニメ表現を模索することが何より必要だった。
そのひとつが、「日常表現」へのこだわりだ。宮崎駿が、高畑監督の最高傑作だと言う、TVアニメ「アルプスの少女ハイジ」では、地味な生活の描写を、リアリティを持って丁寧に描きあげることで、「生活を通して人間の本質や美を描き得る」ことを証明した。その後、プロデューサーとなった宮崎の資産を投じさせて撮った実写ドキュメンタリー『柳川堀割物語』は、日本に残る、古い水路や水門の仕組みや歴史、そこでの生活について執拗に追った、ただただ研究的な作品である。こんな作品を作ってしまう、病的なまでに他の追随を許さない「生活への探究心」が、凄まじい「静的な熱」を、以後の演出作品にも与えていく。
もうひとつは、アニメーションによる映像表現への実験的取り組みである。代表的なのは、『ホーホケキョ となりの山田くん』で試みられた、従来のペッタリした色の動画とは異なった、「紙に描いた絵が、塗った色がそのまま動き出す」ように見えるという、画期的な表現方法だ。それは監督が研究する、カナダのアニメーション作家フレデリック・バックの作品をはじめ、ロシアや中国のアニメーションの技術を発展させた、非ディズニー的な映像へのアプローチでもある。世界的にCGによる実写的な3D表現が主流になりつつあるなかで、CG技術を使い、手描きの味を活かすという独自性と意義は、日本よりも、むしろ海外で評価され、「山田くん」は、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に永久収蔵されることにもなった。
現時点で最後の作品となる『かぐや姫の物語』は、そのふたつの方法論と美学を極限まで突き詰める、高畑勲監督の代表作といえる傑作になった。さらに、この作品は、理解しづらい「竹取物語」の内容を、仏教哲学や、社会における女性の苦難などを中心に、わずかに改変することによって、より普遍的で、現代に必要とされる作品に生まれ変らせている。原作のテーマを追求し、考え抜くことで、さらに深いところで作品の本質をとらえる。世界の名作や宮沢賢治文学、そして古典に至るまで、高畑監督がアニメ化して新たな生命を吹き込むことができるのは、他を寄せ付けない知性と教養、そして高い志あってこそである。同作の西村プロデューサーは、「高畑監督は、雑談レベルの日常会話ですら高尚すぎて、まともに付いていける人が誰もいないぐらい、ジブリの中でも特別な存在でした」と語っている。
高畑監督作の描くヒロイン達、ヒルダ、ハイジ、じゃりン子チエ、そしてかぐや姫などは、主体性を持って、自分の力で前に進んでいく強さを持っている。かぐや姫が都の屋敷を逃げ出し、山へ走り出すシーンを覚えているだろうか。「女性は男のための消費物である」という封建的で男性優位の社会のシステムに気づいたかぐや姫は、その世界から必死の逃亡をする。与えられた十二単を脱ぎ捨てながら、都の大路を、野山を一気に走り抜ける。この「逃亡」は、現在の、観客に媚びる都合のよい女性キャラの魅力を下敷きにしたアニメが蔓延する現状を見続けてきた、高畑監督の心の叫びでもあるだろう。アニメーションは観客の欲望をそのまま叶えてあげるような、ただの商品でも消費物でもない。「アニメーションとは、全ての表現に勝る芸術である」。この監督の高い志とアニメーションに人生を捧げてきた執念が、ここでの狂気を帯びた怒りの疾走表現に宿っているのである。だからこそ、この場面は本当に感動的だ。
日本にいると、ついついアニメーションというのは盤石な文化で、「日本はアニメ先進国である」と思ってしまう。だがその中で、本当に観る価値のある作品はどれだけあるだろうか。優れて芸術的な作品を生み出すには、ウォルト・ディズニーや東映動画の大川博のように、常識を逸脱したトップの狂気じみた決断があってこそだ。高畑監督や宮崎監督は、スタジオジブリで、それらと同等の狂気と芸術性を保ち、世界のトップ・クリエイターとして、その流れを絶やさなかったという意味でも、考えられている以上に重要な功績を残している。このような普遍的な作品を手がける狂気の作家たちが、いかに例外的に貴重だったかという事実は、これから年月が過ぎることで証明され、伝説的に語られていくだろう。渦中に生きていた我々は、そのことの重大さをまだ実感しきれていない。(小野寺系(k.onodera))