2016年02月08日 13:41 リアルサウンド
映画に相応しい動物は何なのか。制作側からしてみれば、従順に指示に従ってくれて、かつ映像に躍動感を与えてくる動物が有難い。これまで映画で多用されてきた動物というと、やはり馬であろうか。西部劇を始め、古くから人間と密接な関係を築いてきた馬は最も理想的である。とはいえ現代劇で、街の中を舞台にするとなると馬を使うのはかなりアンバランスである。そう考えると、今最も人間の近くにいる動物である、犬か猫のほうが相応しい時代になってきたのではないだろうか。
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そうなると、今度は犬か猫のどちらかを選択しなくてはならない。「犬派」か「猫派」かという問いは、人の趣向に関する問いかけの中でもポピュラーな話題で、実際のところ日本ではペットとして飼われているのは犬の方が多いようだが、最近は猫派の割合が高くなってきているようだ。海外に目を向けてみても、欧米諸国では比較的猫派の方が多数を占め、一方で南米やアジア圏では犬派の方が多いというデータがある。
ここ数年になって、日本映画では犬よりも猫を扱う映画のほうが多くなってきたように思える。数年前に『クイール』や『マリと子犬の物語』など、犬の映画が頻発していたことを考えると、単に流行り廃りのようにも思えるが、意外とそうではない。これまで猫を中心に描いた映画は犬と比べて圧倒的に少なかっただけに、それだけ映画の方法論が増えたということである。
何故猫の映画が増えてきたのか。もちろん猫の自由気ままな姿に共鳴する人口が増えていることが大前提であり、そんな自由気ままな役者を映画に起用するために調教方法や撮影方法などを工夫した結果であろう。前述した通り、映画にキャスティングするのであれば、監督やスタッフの指示に従えることが重要である。そういった点で、人間に忠実に従うイメージの強い犬のほうが重宝されている歴史も頷ける。睡眠時間が長く、かつ気まぐれさが売りの猫にとっては、待ちや撮影で長時間を要する現場はいくらボディダブルを使ったところで、どうしてもストレスが大きくなってしまうのである。
では本質的に、犬と猫でそれぞれ映画にもたらす効果が違ってくるのか。例えば犬の映画として代表的なものを挙げてみると『南極物語』や『ハチ公物語』といったみたいに、人間を待ち続ける忠実な姿であったり、『ウォレスとグルミット』シリーズのように主人公をサポートする相棒を演じるイメージが強く、ほとんど主演を張れるだけの器に描かれる。対照的に猫となると、忠実さや相棒のイメージはほとんどなく、どちらかというと騒動の引き金を作ったり、主人公に何らかの変化をもたらす役どころが多い。しいて言うなら悪役やライバルといった助演俳優の立ち位置であろうか。
現在公開中の『猫なんかよんでもこない。』を観てみると、まさにそのイメージに相応しい猫の姿が描かれる。ボクサーの夢を絶たれたうだつの上がらない主人公が、兄の拾ってきた猫の世話をしていくうちに、人間として成長していく姿を描いたシンプルな物語である。ここに登場する二匹の猫は、飼い主である主人公に突然トカゲを持ってきたり(劇中でも説明のある通り、猫は自分よりも下だと思う者に狩りの仕方を教えるためにこのような行動に出るらしい)、ひたすらわがままに振舞う。もっぱら「猫あるある」が描かれる作品ではあるが、猫の存在によって主人公が変化していくというドラマ性は、かなりわかりやすいものがある。
しかし、このタイプのドラマ性が生じるのは決して猫だからというわけでもなさそうだ。『猫なんかよんでもこない』を観ながら、想起したのはチャップリンの名作『犬の生活』であり、そこでは浮浪者を演じるチャップリンが野良犬と出会い、共に行動する中で出会う女性と暮らすことを夢に見て、拾った財布を取り返す姿が描かれる。現代の映画で重視されがちな「主人公の成長」という点は皆無ではあるが、少なからず犬の存在が主人公の心情を変化させていることは間違いない。
そう考えてみると、もしかしたら犬と猫で大きく変わることは何もないのかもしれない。『パリ猫ディノの夜』では大泥棒の相棒として忠実な働きを見せる猫が描かれるし、『猫が行方不明』も『ほえる犬は噛まない』も『ベートーベン』シリーズも、周囲の人間たちが奔走する群像喜劇を構成することができている。また、人間の寂しさを紛らわす役割も、『巴里の空の下セーヌは流れる』でたくさんの猫と共に暮らす老婆と、『アモーレス・ペロス』で犬と行動を共にする殺し屋からわかるように、どちらでも担うことができるのである。
さらに、時には恐怖の対象として描かれることも珍しくなく、『呪怨』では不穏さの象徴のように黒猫が描かれる、古典的な演出がされる一方で、『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』のように直接的に犬が暴れ回る姿で恐怖が演出されることもある。アプローチの仕方は違えど、人間の近くに存在する両者だから成立することであって、これがあまり馴染みのない動物だと、もっと平坦な恐怖にしかならないのである。
ということは、もはや作り手側が「犬派」なのか「猫派」なのかに委ねられてしまうのだ。走っているショットで画面にもたらされる躍動感は犬のほうが俊敏であり美しく見えるが、猫が走る姿も負けてはいない。そしてどちらも人間の予想の範疇を超えた動きを見せるのだから、映画をより映画らしく見せる効果を持っているのだ。もちろん、文化的かつ生物学的な条件で、どちらかのほうが相応しい場合は少なからずあるが、ニュートラルな条件下ではどちらでも映画は作ることができるのである。仮に101匹わんちゃんが101匹ねこちゃんになったとしても、映画であることは変わらなし、どちらでも愛らしいのである。
今年はこの後も『世界から猫が消えなたら』や、韓国映画『ネコのお葬式』など猫を扱う映画が目立つのは、猫派にとってはとても嬉しいことである。もちろん犬の映画も、タイトルからはわからなくてもコンスタントに制作されているし、5月に行われるカンヌ国際映画祭では犬の演技を表彰するパルム・ドッグがあるなんて実に羨ましい(そのうちパルム・キャットもできないだろうか)。夏にはアニメーション映画ではあるが、ペットたちの姿を描いた『ペット』が公開されるので、「犬派」も「猫派」もそれ以外の派閥の人も楽しめることだろう。(久保田和馬)