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シュワルツェネッガー史上最大の珍作!  “戦わない”ゾンビ映画『マギー』が制作された背景とは

2016年02月05日 15:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『マギー』 (c)2014 Maggie Holdings, LLC.All Rights Reserved.

 珍作の誕生である。本作を観て激しく動揺した。自分が今の今までこの映画の存在を知らなかった無知さ加減にも驚いたが、いやそれ以上に我々は、この『マギー』であまりに多くの信じがたい表象を目撃することになるのだ。今の私の状況といえば、それは掘った穴に向けて、今しがた観たばかりの事実を必死に告発しているようなもの。果たしてそれをレビューと呼ぶのかどうかは皆目分からない。


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 2015年はアーノルド・シュワルツェネッガーにとって俳優人生を左右する大一番の年だった。もちろんそれは『ターミネーター』シリーズの再起動を意味し、アメリカ本国ではそれほど良い興行成績は上げられなかったが、しかし中国での人気で底支えが働き、全興収の8割を海外で売り上げる結果となった。だがこの巨大な打ち上げ花火に隠れて、天下のシュワちゃんが『マギー』という線香花火に出演していたことはあまり知られていない。


 本作はゾンビ映画である。しかもシュワちゃん自身が脚本に惚れ込み、プロデューサーの役目まで買って出たという肝入りの一作。彼がプロデューサー業に乗り出すのは2000年の『シッックス・デイ』以来というから、感度のいい珍作インジケーターをお持ちの方ならばこの時点でもう、針先がビュンビュンと振れて色めき立っていることだろう。


 ゾンビ物、そしてシュワちゃんとなれば、観客はさぞ本編中で飽くなき死闘が繰り広げられることを夢想する。いつしか絶望的な状態に追い込まれた主人公がその腕力とマシンガンだけで一筋の突破口を開いていくような、荒唐無稽かつ気分爽快な一作を。でも予想は事実と大きく異なる。大ハズレだ。


 ここは近未来のアメリカ。都市はゾンビウィルスによって崩壊し、政府は感染者の隔離政策に余念がない。そんな中、農村部で暮らすシュワちゃんの娘マギーもまたゾンビに腕を噛まれてしまう。本来ならばすぐに収容されなければならないのだが、医師の許しをもらい、ゾンビウィルスが発症し“チェンジ”過程に入るまでの2週間あまり、自宅で最後のひとときを過ごすことに。少しずつ朽ち果てていく娘。胸に去来する昔の思い出。どうすることもできない無力感。タイムリミットが迫る中、父親としてできる最後の愛情とは何か。父娘の試練の時が訪れようとしていた……。


 ここまで読めばお分かりの通り、本作ではシュワちゃんは、戦わない。ただ寡黙に眉間にしわを寄せて、娘のためにできることをただひたすら考え続けている。もっとも、自宅内にいつチェンジするのか分からない娘を抱えながら「娘のために…」などと平然と構えていられるのはシュワルツェネッガーの強靭なフィジカルとメンタリティあってこそ、と言えないこともないのだが。上映時間は95分。あまり身構えることなく、仕事終わりにサクッと見れてしまう作品だ。けれど、なぜシュワちゃんがこんな作品を? という思いだけは、上映後もゾンビのように次々と増殖して頭をもたげてやまない。


 もう少し情報を探ろう。本作は2011年にスタジオ重鎮らが選ぶ“未製作の優秀脚本”、通称「ブラックリスト」に選出。ハリウッド業界内で大々的に評価されてきた過去を持つ。


 そもそもゾンビ映画の流れとしてはジョージ・A・ロメロによる伝統軸がある一方、『バイオハザード』や『ワールド・ウォーZ』といった超大作、さらにはアマチュア監督が予想外のヒットを放った『コリン』などもあり、その上で2010年にはフランク・ダラボンらが始動させたTVシリーズ『ウォーキング・デッド』という決定打も生まれた。現在ではもはやゾンビ物のアイディアも出尽くした感があり、2011年時点でフレッシュだった本作の脚本素材でさえ観客の目にはどう映るかわからない。旬なものが朽ち果てるスピードはあまりに早く、リスクも高いもの。それでもシュワちゃんは突き進んだ。ここに金の鉱脈があると信じたのか。あるいは今、自分自身が肉体派から演技派へとチェンジせねばならぬと感じたのかーー。


 できれば本作を「ゾンビ映画」として期待して観るのはやめてほしい。むしろこれは肉体派シュワルツェネッガーが藁をもすがる思いで演技派へと移行しようとする修練の場。我々はその一場面に遭遇したにすぎないのだ(たぶん)。そのレッスン料と感じたのか、彼は本作の出演料を一切受け取っていない。


 もちろん、修練のためにはその導き手が必要だ。これが初監督作となるヘンリー・ホブソン(彼は『ウォーキング・デッド』のタイトル・デザインを手がけた人でもある)にその役目が務まったとは到底思えない。むしろ私は、本作で娘マギー役を演じたアビゲイル・ブレスリンこそが、シュワちゃんを演技派へと引き上げるべく手を差しのばし、手取り足取りの共演を通じて、いわば演技のインストラクターのような役割を果たしたのではないかと感じた。


 彼女は弱冠5歳で『サイン』(02)にて映画デビューを飾り、『リトル・ミス・サンシャイン』(06)ではアカデミー賞の助演女優賞にノミネート。今年で20歳を迎える彼女の姿をネットで検索すると、こちらも随分と容姿がチェンジしてしまったことに驚かされるが、しかし本編における彼女の演技はこの映画にはもったいないほど熱がこもっている。シュワちゃんが眉間にしわを寄せて寡黙な分だけ、彼女が何とか作品を右へ左へと動かして成立させていると言っても過言ではない。二人だけのシーンなど、実質的にそのやりとりを演技へと昇華させているのは明らかにアビゲイルの方だ。ストーリー的には娘を守るべき父親が、実際にはここでは娘に守られ、いざなわれているというわけである。そんな彼らのぎこちない父娘ぶりは一見に値する。


 ゾンビであることは副次的で、つまり父娘の家族愛の物語、それが『マギー』。


 シュワルツェネッガーにとって『ターミネーター』(84)以来となる低予算映画であると同時に、おそらく彼の全キャリアを通じての最大の珍作として位置付けてもいい。もしもあなたにその変異を見届ける勇気が芽生えたなら、このレビューを記した甲斐があったというものだ。私は叫んだ穴を塞ぎ、何もなかった、何も見なかったような立ち振る舞いで、日常生活に戻るとしよう。(牛津厚信)