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「これからの才能があちこちで産声をあげている」門間雄介が“日本映画の新世代”を探る連載開始

2016年02月04日 18:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016『俳優 亀岡拓次』製作委員会

 1月8日、アップリンクの東京上映最終日に観た『孤高の遠吠』は、噂にたがわず、とんでもなくでたらめで、とんでもなく面白い映画だった。「ははは、マジかよ」。エンドロールで意外にも福山雅治「HELLO」のカバー・バージョンが流れだした時、終始ぶつぶつ呟いていた隣席の客が、聞こえるか聞こえないかくらいの声音で言った。まさにそうだ。『孤高の遠吠』は一作まるごと「ははは、マジかよ」な作品だった。


参考:青文字系モデル・青柳文子が恋愛群像劇『知らない、ふたり』に出演して気づいたこと


 カナザワ映画祭2015で上映され、静岡県富士宮市のガチな不良たちを起用して話題となったこの問題作は、現在25歳の小林勇貴監督(①)によるバイオレンス群像劇だ。撮影中に出演者が失踪したり、逮捕されたり、あるいはゲリラ撮影のバイク走行シーンがおそらくイリーガルだったり、そういった話題性の点だけでも十分に観る価値のある作品だが、感心したのはストーリーが何より魅力的だったことだ。合計前科数数十犯の凶悪な猛者が次々とあらわれ、不良たちによる抗争は激化し、となりの富士市まで拡大していく。ヤンキー漫画10巻分を一篇に凝縮したような内容を、セリフが録れていないなどの技術的な不備はお構いなしに、この映画は一気に語り倒す。


 思い出したのは『定本 映画術』のなかでアルフレッド・ヒッチコックがフランソワ・トリュフォーに説いたストーリーテリングの基本だ。“子どもたちにお話を聞かせていると、こう尋ねてくるだろう、「ねえ、次はどうなるの?」って”。ヒッチコックは主にサスペンスの手法として、ストーリーはそのような対話を通して語られるべきだと主張している。でもそれはジャンルを問わず、娯楽作において観る人を惹きつけるために、作り手が心の片隅にとどめておくべきことだ。きっと『孤高の遠吠』を観る人も同じようなことを感じるだろう。ねえ、次はどうなるの? ははは、マジかよ。


 わずか5万円強という超低予算でこの作品を作りあげた小林勇貴をはじめ、目を配れば、これからの才能があちこちで産声をあげている。大学の卒業制作作品ながら堂々とした完成度を誇った竹内里紗監督(②)の『みちていく』や二宮健監督(③)の『SLUM-POLIS』は、昨年観た映画のなかでもこれはと思うものだった。こういった才能のほとばしりを観て、数億円かけてこんな出来かというような映画を作ってしまう監督たちは何を思うんだろう? あの人とか、あの人とか。


 映画の出来不出来を監督の力量だけに起因させる作家論は、いまや一種のファンタジーかもしれない。映画の制作には多くの人の思索と思惑が絡みあい、とりわけ予算規模が大きくなるほど、その方向性は関係者のコミュニケーションによって決定づけられるからだ。でも監督でなければできないことが紛れもなくあって、それは映画の出来不出来を大きく左右する。例えば役者を撮影現場でどう演出するか。その魅力をどのように引きだすか。そういったことは監督の匙加減ひとつでいかようにでもなる。


 今泉力哉監督(④)はインディペンデントな監督のなかでも役者を活かすことに長けたひとりだが、『知らない、ふたり』を観ると、彼が演出において何を大事にしているかわかる気がする。片想いも両想いも二股も、等価な恋心として扱うこの恋愛群像劇が焦点を当てるのは、誰かを好きになる瞬間に心が跳ねたり弾けたりする、その揺れ動きだ。じゃあNU'ESTのメンバーを主人公に起用し、韓国語と日本語が交錯する芝居を通して、その心の揺れ動きをどう表現するのか。演出が強調しているのは――少なくとも僕にはそう思えるのは――鮮度だろう。


 役者の新鮮な芝居を、鮮度もそのままにすくいとること。それは心のなかで何らかの感情が芽生える瞬間を、漏らさずカメラでとらえることと相通じている。人づてに聞けば、彼の現場はテイクを多く重ねることなく、撮影に長時間を費やすことがないらしい。きっとインディペンデント作品ならではの制作環境も影響しているはずだが、これまでの作品でも鮮度管理を決して怠らなかった彼の演出は、この作品はもちろんのこと、ひょっとしたらいずれ規模が大きくなる将来の作品でも、役者を活かすことにつながるだろう。


 「あの子どもたちの演出に嫉妬する」。かつて『ジャーマン+雨』を観た山下敦弘監督がそう話したのは、『俳優 亀岡拓次』の横浜聡子監督(⑤)だ。たとえ子どもたちであっても嘘っぽい芝居を排し、その生き生きとした部分を絶妙に引きだす彼女の演出は、7年ぶりの長編監督作となった今回の作品でも錆びついていない。主演の安田顕が扮するのは、さまざまな映画の現場で奇跡を起こす脇役俳優、亀岡拓次。でも奇跡を起こす俳優役だからと言って、目が飛び出るとか、何度も吐しゃするとか、そう書かれた脚本通りに誰もが芝居できるわけではない。当たり前だ。なかには脚本を読んだだけではイメージしにくい、光と影と音によって構成されると書かれた、外国人監督とのオーディションシーンもある。


 でもそうやってもうけられたいくつもの難関難所が、結果として、すでに芸達者で知られる安田顕のポテンシャルをさらに引きだすことに成功した。原作はあるものの、そのような趣向を凝らした脚本は当然、横浜聡子自身の手によって書かれている。つまりそれも演出に組み込まれた一部なのだ。


 役者にチャレンジさせることで、その能力を遺憾なく発揮させる。そんな手法を近年得意としているのがカナダ出身のジャン=マルク・ヴァレ監督だ。以前、彼が海外サイトのインタビューでこんなふうに語っているのを目にしたことがある。“(ハリウッドの)役者は金も名誉も手に入れている。彼らが欲しがっているのはチャレンジだ”。『ダラス・バイヤーズクラブ』のマシュー・マコノヒー、『わたしに会うまでの1600キロ』のリース・ウィザースプーンといった具合に、彼の作品から続けてオスカー候補が生まれたのは偶然ではない。『俳優 亀岡拓次』における横浜聡子の演出も、僕からすると同じような観点で評価できる。


 ※人物名の後ろに丸囲みの数字が振られているのは、この人たちがこれからの日本映画を面白くしてくれるはずだという、期待と希望を込めたナンバリングです。今後も監督に限らず他のスタッフや俳優を含めて、この数字が10とか20とか50とかになるまで、たくさんの才能を紹介していく予定です。自薦、他薦などあれば編集部へ。(門間雄介)