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長渕剛が語り尽くす富士山麓ライブ、そして表現者としての今後「世の中に勇気としあわせの爆弾を落としていく」

2016年01月29日 18:51  リアルサウンド

リアルサウンド

長渕剛 10万人オールナイト・ライヴ in 富士山麓

 2015年8月22日~23日に開催された『長渕剛 10万人オールナイト・ライヴ in 富士山麓』がついに映像化され、2月3日にリリースされる。長渕剛は霊峰富士と10万人にどう立ち向かい、何を思ったのか。富士のこと、震災への想い、表現者・アーティストとして、今後の活動についてーー現在の胸の内を本人に迫ったロングインタビューを掲載する。インタビュアーは、長渕剛オフィシャルサイトでも掲載されているライブレポートを執筆した冬将軍氏。


・正直言って、苦しみしかなかった


ーー『10万人オールナイト・ライヴ in 富士山麓』を思い返してみて、今何を考えますか?


長渕剛(以下、長渕):正直言って、苦しみしかなかった。いわゆる「コンサートをやる」という感覚ではなかったです。「大変だった」という言葉もそぐわないですし。桜島のとき(『桜島 ALL NIGHT CONCERT』2004年)は、故郷に対する恩義、その故郷にみんなを招き入れたい、父と母に見せてあげたい気持ちもありましたので、非常にリアルに迫ってきたんですよ。今回は僕自身が生まれ育ったわけではない富士。他人様の土地をお借りして、失礼のないよう礼儀を正して入って行く。富士を祀る浅間大社にもお参りさせていただいて、神事に近いニュアンスが多分にあった。富士を選んだのは東北の震災がきっかけでもありました。だから、楽しむことはまったくできなかったんです。とにかく10万人の心をひとつに束ねて、富士に向けて“祈りの儀”を執り行なうんだ、という意識でいっぱいいっぱいでした。


 ここ何年かの不穏で混沌とした社会に対し、矢を射していく。富士に向かって、国に向かって、個に向かって、矢を突きつける祭典でもあった。それをやらなければいけないという、大きな使命感がありました。ところが、どこかで「やったことのないこと」に対しての不安や恐れもありますから、「10万人集まらなかったらどうしよう」と当然考えますよね。そこを「集めるのだ」という意識に転換していくときに、「フードコートはきちっと配置しなければいけない」「10万人に対する仮設トイレは多くなくてはいけない」であるとか、いろんな知恵を拝借していく。みんなが懸命に考えたんですけど、本当に僕がやりたかったのは「食べ物なんて何もないから、手弁当を持ってきなよ」ということだったんです。「トイレなんてその辺の茂みですればいいじゃん」なんていう野蛮な考えも持ってたんですけどね(笑)。そのくらい、集中するものが音楽ひとつしかないという環境を作りたかった。音楽を以て儀式を行い、富士にぶつけていくのだという目的意識が散漫になることが多かったということに、僕自身ものすごく反省してます。


ーー今回の富士はフードコートもトイレも充実していて、快適に過ごすことができましたが、反面で近年のフェス事情を見ると、参加者が音楽を聴くためではなく、レジャー感覚になっている節もありますからね。


長渕:「歌い狂う長渕の姿に自分を投影して人生が肯定できた」「昇る朝日を見て、立ち向かっていかなければいけない勇気をもらった」という意味で、「すごかった」という言葉で集約されればいいんですけど。「美味しいものがたくさんあった」とか「快適でよかった」とか。それが今の時代、一番良くないことだと思ってるんです。ただ、あれだけの人たちが集まってきてくれたということは、みんな、自分の取り巻く環境や社会に対して不安や不満を感じ、その怒りの拳を上げたかった、あるいは“本当の幸せや愛とは何なのか?”といったことを突き止めたかったんだと思います。でなければ、いくら今どきの快適なフェス形態を提案したところで、集まらないと思います。「動員に勝る演出なし」「論より証拠」ーーこれだけの人間の塊で「ちょっともの申したい」ということを富士に届けることができた。これがどう評価されていくのかは、これからのことですけど。苦しみしかなかったけど、やらないよりやったほうが1000倍良かった。しかし、これを誰かがやると言ったら、決して薦めませんね(笑)。


ーー映像化にあたり、客観的に見られたところもあると思いますが。


長渕:あらためて「行ってよかった」「行くべきだった」と思わせる自負はあります。それは、奇跡に近い風景を我々が創り出したということ。周りからはいろんなことを言われた節もありますけど、このDVDを見てもらえれば、嘘偽りのないドキュメントであることが理解できます。何百億のお金を使い映画を撮ろうとも、あの映像は作れません。来てくれた10万人と我々スタッフの想いがひとつになった瞬間でなければ、自然というものは動かせない。叩きつけるような雨が一週間降り続き、夏とは思えない凍りつくような寒さという過酷な状況の中、あの一瞬だけが晴れて太陽が出た。そこにみんなが理屈のない歓喜の涙を流したわけです。


ーーまさに10万人が「朝日を引きずり出した」という表現こそ、ふさわしい風景でした。


長渕:僕は一生懸命歌ったんだけど、朝日を引きずり出したのは僕じゃない。10万人の想いであり、その中で僕がいわば、“いけにえ”になることで太陽が出た。その朝日にみんなが一体感を醸し出した、というストーリーになるわけです。神に捧げる儀式というのは昔から残酷な一面がありますから。だから、当然僕は四部のときに、“お別れ”をして出て行ったんです。あの朝日は真実であり、我々の想念であります。それをあのときの10万人各々が胸にしまい、それぞれの社会や環境に持ち帰ったとき、ぜひとも、周りより一馬身も二馬身も先に進んでいってほしい。そうしないと僕も命を懸けた甲斐がないですから。DVDではじめて見る方にもそうした我々の想いをどうか汲み取っていただき、今後の自分に何らかの変革を持って生きていってもらいたいなと願っています。


ーーそのような命がけの覚悟と苦悩が、<DISC 5 スペシャル・ドキュメンタリー>に収められています。


長渕:ただ、奇跡の風景に至るまでの過程において、長渕剛も、山崎社長以下キョードー東京グループ、音響、照明、舞台設営のとび職までの総勢2500名のスタッフ全員が、震災から復興していく東北の人たちのような気持ちで本当にひとつになれていたかといえば、そこには疑問が残ります。自分は「2500人くらい束ねられなければどうするんだ」と思っています。だけど、実際僕はクリエイションチーム400~500人を束ねることに四苦八苦して倒れてしまいました。多くの人をひとつの心に誘うことはとても大変なことです。以前、紅白(歌合戦 2011年)で「ひとつ」という歌を門脇(宮城県石巻市)で歌いましたけど、あれはひとつになっていないから、“ひとつにならなければいけない歌”を歌わなければいけなかった。そうした意味で、宮城、福島、被災地以外はどこか他人事で、やっぱり僕たちは震災や原発の煙を被ってないんじゃないのか、という疑念が新たに生まれてきています。それはこれから先、僕が活動していく大きなテーマでもあるし、怒りのエネルギーになることだと思っています。


・なぜだ?なぜもっとこっち来ない?


ーーライブの内容についてうかがいたいと思います。まず、ヘリで登場されましたが、上空から見下ろした10万人の光景というのはどういう風に見えたのでしょうか?


長渕:青く光る生命体です。顕微鏡を覗いて細胞分裂が活発に行われているような……。田村(有宏貴キョードー東京 プロデューサー)に「見てみろ、この光を絶対忘れないようにしような」と話しました。あの漆黒の中でうごめく青い生命体の中に飛び込んで同化していくんだ……そういう気持ちになりましたね。


ーーそして実際に、青い生命体の中に飛び込んで行った。


長渕:その光がリアルな絵として自分の中に飛び込んでくるわけです。ステージに立ち、「さぁ、いくぞ!」と「JAPAN」を歌った瞬間、この巨大な空間に集まっている生命体をひとつにするんだぞ、という想いが一気に弾ける。とにかく必死だったんで、どこで何をやったのか、ほとんど覚えてないくらいで。ここ数ヶ月の映像編集で「こうだったのか」とあらためて思うことも多かったですね。


ーー僕ら観る側もあんなに壮大な光景を目の辺りにしたのははじめてですし、ヘリから降り立った長渕さんの気迫に圧倒され、「剛コール」のタイミングも見失ってしまうほどで。


長渕:「何が起きるんだろう」という、唖然とした感じでしたよね。「おまえらの声が聞こえない、聴こえない」という思いでいっぱいでした。「いつもと違うじゃねぇか!」って。でも、僕も違ったんだよね。登場してニコリともできませんでしたから。「これはやるしかねぇぞ」と。


ーーそういう意味で、いつものコンサートと比べて良くも悪くも会場の熱気が上がっていくまで時間が掛かりましたね。


長渕:長かったですねぇ(笑)。僕の感覚だと三部でしたね、たくさんの人がひとつになったと確かに感じることができたのは。「絆」で車転がしながらセンターステージに行く最中。そして、ステージに上がって「ああ、これがいつもの感じだ、よくぞおまえらここまで来てくれた!」というのが正直な気持ち。それまではどこか探り合いをしてたような感覚だった。「なぜだ?なぜもっとこっち来ない?」という。


ーー観客も「これは現実なのか?」「どうノッていいのか解らない」みたいな感覚がつかめないところがあったと思うんです。規模も時間も、何もかもがいつもと違う。


長渕:あまりに巨大すぎて、コンサートという感じじゃないんですよね。一部の終わり、「勇次」はわけ解らないくらいに号泣しながら歌ってたんだけど。僕自身、何十年歌ってきた歌は「もう歌わねぇぞ」という気持ちでステージに立ちましたから。あの臨場感の中でパーンと破裂したものが「勇次」の中でのリアルな言葉だったと思うんです。ステージからたくさんの泣いている人を目撃しました。あの涙って、どういう涙だったのかなぁ、とひとりひとりに訊いて回りたいくらい。同じ想いの涙だったらいいなと思っています。


ーー僕も泣いてましたけど、反面で「剛、大丈夫かな? まだ一部だし……」というのは、多くの人が思ったことではないかと。


長渕:実際、大丈夫じゃなかったんです。今までの自分の経験では為す術がないくらいに「おまえらの本気に着火するにはどうすればいいんだ?」ということを、ずーっと考えてましたからね。はじまって2時間過ぎたくらい、一部の終了間際でその想いが一気に出たんだと思う。それから二部に向けての間、一番休憩時間も必要だったし、苦しかったです。


ーー二部では震災への想いが強く表れていて、「カモメ」「ひとつ」「しあわせになろうよ」という流れ、とくに浪江町の光景が映し出された「カモメ」が印象的でした。日米混合バンドが富士で、あの曲を演奏するというのは、深く意味のあることだったと思います。


長渕:日の丸と星条旗が「カモメ」という歌でひとつになる表現。これはスタッフ全員に解ってほしかったことでもありますね。来てくれたファンは一目瞭然で解ってくれたと思ってます。そういう質の拍手をもらえたんでね。


ーーあの映像も映し出された巨大なステージセット。着工前のデザインなどのイメージをお聞かせください。


長渕:“三角形”の縮図です。いつの時代も底辺の力が押し上げたところに、頂点がある。頂点に立つ、立たせてもらう責任というものも象徴していて。いくつか案があって、なぜかみんなこれを選びましたね。


・言葉は悪いけど『ざまぁみろ』と思った


ーーそして三部では、古くからのファンが喜んだ、笛吹利明さん(Gt)のサプライズ出演がありました。久々の共演にどんな言葉を交わしましたか?


長渕:もう長い付き合いなので、大きな言葉はないのですが、「本当にうれしかった、ありがとう」と言ってくれました。僕の30代から10数年あまりを支えてくれた仲間ですからね。だから富士のステージに呼んで、しかも亡くなった親父の歌「鶴になった父ちゃん」で参加してもらったことは、大きな意味のあったことだったと思います。笛吹さん、独特のフレーズ、ギターを弾きますからねぇ。


ーー四部のステージに向かうときに「お別れをして出て行った」とおっしゃいましたが、一部、二部、三部とステージに向かう心持ちはそれぞれ異なっていたのでしょうか?


長渕:一貫とはしてますね。でも本当に「死ぬんだな」と思ったのは、やっぱり四部。それまでも死を覚悟して挑みましたけど、四部ほどの「何もかも捨てて行く」という胸中ではまだなかった。「まだいけるぞ」「やらなきゃ」という懸命さしかなかった。その僕の精神、肉体をケアするためにスタッフも、もの凄く動いてくれましたんで、そういう意味でも「途中で終わるわけにはいかない」と。「死にたいんだったら、死なせてやらなきゃいけない」と三崎(和雄/総合格闘家)は思ってたはずだし。


ーー前日まで悪天候だったこともあり、「朝日を引きずり出せるのか」という不安も少なからずあったのではないかと。


長渕:強烈にありますよね。朝日が出なかったら、すべて終わっちゃうわけだから。当然「どうなるのかな……」という思いでずっとやってましたよ。ただ、三部でセンターステージに立ったとき、風がすごかったんです。「シェリー」のときかな。「もしかしたら雲を全部吹き飛ばしてくれるんじゃないか」と思えるような強烈な風が吹いてきた。僕、タンクトップ一枚で凄く寒かった。「誰か長袖持ってきてくれないかな」と思ってた。誰も持ってきてくれなかった(笑)。で、四部前に空を眺めたときに「大丈夫かもしれない」と少し感じました。でも油断はできませんよね。


ーー僕ら観ている側は空が明るくなっていく様、富士の姿が現れて行く様を眼前に見ていたわけですが、長渕さんは富士を背にして歌っている。日が登って行く光景をどのように感じていたのでしょうか?


長渕:徐々に明るくなっていって、客席の向こう側に日が当たっているところと、当たっていないところの境界線がまっすぐ一直線に出たんです。それを確認したとき、「あ、出たぁ!」と思いました。その境界線をこっちまで持ってこなければいけない、「最期まで歌いきるぞ」という想いで、自分の中のもう一つのエンジンが着火しましたね。「よしっ!」と。


ーーそこから「富士の国」での壮絶な戦いがはじまりました。


長渕:もうね、歌いながら何度か気を失いそうになるんですよ。シャウトの連続、首の後ろから圧が掛かってくる。疲労、酸欠……気が遠くなるんです。マイクスタンドにしがみつきながら、「(スタンドを)頑丈にしておいてよかった」と思ったり(笑)。


ーーそして、ついに朝日を引きずり出した。


長渕:思いっきり後ろを向いて、朝日を見つめる……いや、睨みつけた。言葉は悪いけど「ざまぁみろ」と思った。誰に対して、というわけじゃないんですけど、それが正直な気持ちですね。映像見ると「クソッタレ、クソッタレ」叫んでますからね。


ーー終演直後、何を思いましたか?


長渕:何も考えられない、地の底に墜ちて行くような感じ。だけど、それは恐怖でも何でもない。自分の全体重が土の中に吸い込まれていく、埋まってしまうような感覚。みんなは眠ってると思ったんでしょうけど。脈がどんどん落ちて、血液が送りこまれなくなったんで、ヤバかった、と言ってました、医師が(笑)。


・いよいよ本来の意味での自主制作の時代に入った


ーー富士を終えて、アーティストとして、表現者として何か変わったことはありましたか?


長渕:表現者としての“死”を見つめるようになりました。これまでも考えなかったことではないんですけど、より深く見つめていかないと伝わらないぞ、という。「死を以て表現が完結す」と考えたときに、生あるうちに自分をどう表現していくか、自分の死に様をどう表現するか。寿命はあっても動けなくなったら表現できないですから。この先、もし大病をして、身体に管を通されてまで生きたいかといえば、僕はそれを選ばない。表現者としての道を最期まで貫くのであれば、管を外してギターを持ってパーーーン!と散るほうを選びます。


ーー「オールナイト・ライヴは今回で最後」と開催前より公言してましたが、“アーティスト・長渕剛”として今後やりたいこと、野望はありますか?


長渕:新しい歌を書きたい。「とんぼ」「乾杯」は生涯歌わない、歌ってやるもんか、という。昔「順子」がヒットしてね、あるときから10年歌ってない。あのときも今と同じで、「なぜ、ヒット曲にぶら下がらなければならないのか」と思ってた。曲は作り手の瞬間的な作品であって、ヒットしたものは聴いた人たちのもの、という感覚があるんです。だったら自分がカラオケ行って歌えばいいじゃない、と思ったりするんですよ(笑)。作り手としては自分の新境地を作品に投影していくことが、まず表現者としてやらねばいけないこと。それに対して「聴きたくない」と酷評が出たら終わりです。


ーー「とんぼ」しかり、オリジナルとはまったく違うアレンジで演奏されることも多いですが、ファンの間では賛否両論あるところですね。


長渕:歌というものは時代とともに変幻自在に変わるべきものだと思ってるんです。「俺たち、私たちが聴いた昔のまんまで歌ってほしい」という気持ちはもちろん解るんですけどね。でもそれって、「昔の自分の時代は輝いていて、現在の時代は輝いてないということなんじゃないか」とも思ったりします。常に輝いていなければいけないし、常に新しいものに立ち向かって行かなければならない、そういうメッセージでもあるんです。現在の時代の中に「GOOD-BYE青春」や「ひまわり」といった歌がどうやったら溶け込むかを考えると、ああいうアレンジになるんですけど。それが伝わらなきゃ、自分が失敗したんだろうし。「昔、あのとき、あの歌は」というカテゴリになってしまうのはイヤなんです。「そうはいかねぇぞ」と(笑)。まぁ、夕暮れに思い出を重ねて涙するような気持ちも解るんですけどね。そういうもの対しては企画ありきでやったほうがいいですね。「何も変えない、昔のまんまで歌います」という。70歳過ぎてからね。


ーーそして、気になるのは今後の活動なのですが。


長渕:今年はゆっくりしようかと思っていて。この何十年の自分自身のことを振り返ったり、この先どういう活動をしていけばいいのか、今後のことをきちんと考える。こういうこと考えるの、実ははじめてなんですよ。今、我々が作ってきた音楽業界が総崩れになりましたでしょう。それ、「ざまぁみろ」と思ってるんです、自分を含めて。バブルに浮かれて、虚栄心バリバリで、満足しすぎて危機感もなく、歌を消耗品として大量生産した。その結果、大衆が離れていった。時流の中で、貸しレコード屋やインターネットの氾濫といったものも出てきましたけど、それを越えて行ける作品がなかったんですよ。人というのは、苦しければ苦しいほど、音楽、歌を必要とするものなんです。そのときに必要な音楽を作ってこなかったツケが回ってきたんですね。


 僕も、組織の中でいろんなことがうごめいて、あれよあれよという間にヒットしたということもありましたけど、それだと自分のことだという感じがしないんですよ。聴く側も情報や電波にごまかされて、本当は好きじゃないんだけど、ヒットしてると聞けば買わなきゃ損みたいな気分になりますよね。でも、そうは問屋が卸さない時代になったんじゃないかな。聴く人の耳も精確になってきただろうし。これは僕が望んでた現況かもしれない。


ーーヒット曲の概念も、ここ何年かでずいぶん変わりました。


長渕:昔、アイドルを生産しつづける勢力があり、片や僕らのような自分の言葉とスタイルで歌うもう一つの勢力ができて、争ったんですけどね。ところが、それがいつのまにかどこかで吸収されちゃうんですよ。それに対し、僕はひとりで牙を剥いてきた。叩かれながらも屈強に耐えようと、作品を生み続けてきた。それをファンがガチッとロックしてくれた。長渕剛とファンが一つの“影響力”を創りながら時代に問いかけてきたんです。これは僕とファンとの信頼です。この“影響力”がある以上、僕は歌を書き続けてファンと一緒にロックして、世の中に発信していく。さらに研ぎ澄ました歌を書きたいという気持ちは以前より強くなってますし、もっと密接に、自由に、彼らに届けることができるのではないかとも思っています。だから、いよいよ本来の意味での自主制作の時代に入ったことでもありますよね。これはとてもいいことだと思う。


ーーこれまで以上に“求められる音楽”が重要になってくる時代ですね。


長渕:この“影響力”ーーあの青い生命体はとんでもない生命力ですから。あの生命体の中にいつでも僕は入っていきます。誰から何を言われようと、僕と、長渕剛の歌を愛してくれる人間の中で生まれる作品を確実にロックして、世の中にバーン!バーン!バーン!と、勇気としあわせの爆弾を落としていかなればいけないと思っています。
(取材・文=冬将軍/写真=辻徹也、西岡浩記)