2016年01月28日 13:01 リアルサウンド
過去の大ヒットドラマ(『あぶない刑事』は1986年10月スタートのテレビ連続ドラマであり、6作の劇場版もある)を改めて映画化する場合、“現在”との関係をどう構築するかが、極めて重いテーマとして存在することになる。どんな作品であれ、発表することを前提とした時、「なぜ、いま、この作品をつくるのか?」は必ず問われるテーマのひとつだが、とくにお茶の間の娯楽であるテレビは、メディアの特性上、時代(言い換えれば“現在”)を強く反映するものとなり、その結果、古くなるのが早い。昔大好きだったテレビドラマを見返してみれば、誰しもこの感覚は理解できるはずだ。
参考:森田芳光監督への愛に溢れた『の・ようなもの のようなもの』 落語の世界の描き方から考察
さらに、テレビドラマの映画化は、無料で自宅で見られるものから、有料(大人は1800円もするわけで)かつ足を運んでもらうものになるため、テレビ以上の“豪華さ”を検討する必要がある。これなら1800円払う価値があると納得してもらえるような理由を用意するのだ。その“豪華さ”は、キャスティング、セットやロケ地、アクションやCGとして表れることがほとんどだろう。
加えて、“既存のファン”も大きな検討材料だ。テレビでは放送枠に応じて制作費がおおよそ決まっており、その制作費の範囲内で作品をつくることになるわけだが、映画の場合は、まだ見ぬ観客を想像し、劇場・ビデオグラム・配信などでどれぐらい収益があがるのか見込みを立て、そこから逆算して制作費を決める。つまり、テレビは放送局から支払われる制作費内でつくればリスクはないが、映画は制作費・宣伝費などすべての費用(いわゆる総製作費)を回収できなければ赤字になるというリスクのある興行である。テレビドラマの映画化は、“既存のファン”がいるので基礎票を読むことができるメリットがあり、数多くつくられるわけだが、“既存のファン”の期待を裏切れば、アテにしていた数字に逃げられるといったパラドキシカルな落とし穴もうまれるのである。
さて、今回の『あぶない刑事』だが、公式ホームページの情報から推測するに、鷹山敏樹(舘ひろし)と大下勇次(柴田恭兵)は、“老い”とどう向き合うのか!? ヒロインの夏海(菜々緒)・最強の敵ガルシア(吉川晃司)という“新キャラ”がメタファーとして背負うであろう“現在”は、何を問いかけるのか!? といった話を想像していた。
つまり、“老い”と“新キャラ”が“現在”との関係を表す道具として用意され、“カーチェイス”“銃撃戦”が“豪華さ”を彩る。さて、“既存のファン”への目くばせはどうなっているのかしらと鑑賞してみると……もう想像と全く違う!
定年退職という設定や危険ドラッグという旬なネタはあるものの、荒唐無稽なストーリー(=漫画的リアリティ)と御都合主義の展開(=整合性<勢い)という、あの『あぶ刑事』の世界がグイグイ進んでいく。おなじみのレギュラーメンバーたちは、立場は変われど成長は無く、あの日のまま。そこには、“現在”との関係とやらに懊悩する姿は皆無。菜々緒・吉川晃司という豪華キャスティングや派手なカーチェイス・銃撃戦はあれど、それらも、この『あぶ刑事』の世界に違和感なくスッポリと内包されている。そして気がつけば、昔のように、あの『あぶ刑事』グルーヴに巻き込まれているのだ。
ノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセは、「人は成熟するにつれて若くなる」と説いた。鷹山と大下の軽妙洒脱にみえる空気こそ、もしかしたら、この言葉を体現しているのかもしれない。劇中で大切なものを失ってなお、変わらないふたりの在り様は、成熟した者の若さと言えないだろうか。そんな若いふたりにとって、“現在”は、関係を模索する対象ではなく、今も自然と生き続けることができる場所なのだろう。
公式ホームページに誇らしく書かれている「DVDマガジンの累計販売数120万部突破」という実績が、それを証明しているのだ。これまでのメンツでこれまで通りにつくること、それは『あぶ刑事』が今なお“現在”の作品であると、堂々と宣言しているに他ならない。
見終わった後、鷹山と大下に「俺たちって、まだまだイケてるだろ?」と聞かれたような気分になった。もちろん、その答えは「YES」だ。(昇大司)