2016年01月28日 07:11 リアルサウンド
ふと入った居酒屋で「何かすぐにできるものはありますか?」と客が尋ねたところ、「そうですね、サラダやフライドポテトみたいなものであれば、すぐにお出しできますよ」と店員が答える。すると客は「じゃあ、“みたいなもの”を一人前」とオーダーする…。そんなアホな! と思うかもしれないが、3代目三遊亭金馬の十八番として今なおCDなどで聴き継がれている落語「居酒屋」を、今風にすると、こんな感じになるのではないだろうか。
参考:松山ケンイチ、『の・ようなもの のようなもの』舞台挨拶で故・森田芳光監督への思いを語る
酔っぱらいが店の小僧をからかいながら酒を飲み続けるやりとりを演じる「居酒屋」では、小僧が「へえーい、できますものは、汁、はしら、鱈昆布、鮟鱇のようなもの、鰤にお芋に酢蛸でございます、へえーい」と奇妙な早口で答えたため、酔っぱらった客が「いま言ったものは何でもできるのか?」と問いただし「じゃあ、すまねえけど“ようなもの”ってやつを一人前もってこい」と揚げ足を取るのである。
この「居酒屋」は、森田芳光監督の商業映画デビュー作となった『の・ようなもの』(81)のタイトルの由来となったお噺。つまり、『の・ようなもの』の35年後を描いた映画『の・ようなもの のようなもの』(16)は、“『の・ようなもの』みたいな映画”なのだということをタイトルが示している。しかし同時に、「居酒屋」の解釈と照らし合わせると、“『の・ようなもの』の物語はもう作ることができない”ということも示しているように見える。その理由のひとつは、森田芳光自身「他の続編は撮れても『の・ようなもの』の続編は撮れない。プロの映画作りに無知だったから撮れた」と述懐し、2011年に急逝してしまったからである。
それでも『の・ようなもの のようなもの』は、続編として揺るぎない骨格を持っている。オリジナルから35年後という年月は、観客にとっても、出演者・スタッフにとってもリアルな時の流れ。続編では松山ケンイチ演じる志ん田が新たな主人公として登場するのだが、『の・ようなもの』の主人公だった志ん魚の行方を探すという物語が展開することで、過去と現在の物語が交錯してゆくのである。志ん魚を演じた伊藤克信をはじめ、尾藤イサオやでんでん等の役者が『の・ようなもの』と同じ役で出演。舞台となった街並には、変わらないものと変わってしまったものとの両方があり、その対比によって35年の月日の流れが何であるかを物語らせている。
監督の杉山泰一は、『の・ようなもの』以来16本の森田作品に助監督として参加した人物。森田作品をよく知る杉山監督にとっても、(ドラマ演出経験を除けば)これが商業映画初監督という共通点がある。さらに『の・ようなもの』の製作当時に株式会社ニューズ・コーポレイションを森田芳光と共に設立したプロデューサーの三沢和子をはじめ、森田組での助監督経験者である堀口正樹が脚本を手掛け、撮影・照明・編集・録音・美術・音楽など、主要スタッフは全員森田組経験者で構成されている。
またキャストにおいても、これまで『椿三十郎』(07)、『サウスバウンド』(07)、『僕達急行 A列車で行こう』(12)という3本の森田作品に出演した松山ケンイチや、同じく『間宮兄弟』(06)、『サウスバウンド』、『わたし出すわ』(09)の3本に出演した北川景子だけでなく、仲村トオルや三田佳子などが演じる脇役に至るまで、歴代の森田作品出演者が顔を揃えているという徹底ぶり。
森田芳光はもうこの世にいないけれど、森田芳光に関わりのある人たちによって作られた『の・ようなもの のようなもの』には、「森田芳光ならこうしたであろう」という人間讃歌が慎ましくも描かれ、森田作品への愛に溢れている。それがタイトルに少し自重的な「のようなもの」という言葉を加えた所以であるように思えるのだ。
昨今、ちょっとした落語ブームの再来を予感させている。例えば、立川談春のエッセイを二宮和也主演でドラマ化した『赤めだか』や、雲田はるこの漫画をテレビシリーズとしてもアニメ化した『昭和元禄落語心中』の放映。CDショップには落語コーナーが設けられ、東京に限って言えば(業界の是非はどうであれ)「渋谷らくご」のような落語イベントも盛況を見せている。
しかし『の・ようなもの のようなもの』を、その潮流のひとつと捉えることは、個人的に少々抵抗がある。それは『の・ようなもの』も『の・ようなもの のようなもの』も、落語の世界を描きながら、高座そのものや演目をさほど作品の中心に描いていないからだ。
落語の世界は、『しゃべれども しゃべれども』(07)や『落語娘』(08)などでも映画の中に描かれてきたし、落語の演目そのものも「粗忽長屋」を題材にした『月光ノ仮面』(11)や「居残り左平次」をモチーフのひとつにした『幕末太陽傳』(57)などで描かれてきた。ところが、落語は映画の題材にあまり向いていないのか、その数はあまり多くない。
例えば、映画の中で文学賞に輝くベストセラー作家を描くには、本が売れていることを示すための広告や書店のディスプレイを映画の中に描けばいいし、サイン会に人が集まる状況や、表彰式そのものを描くことでも成立する。しかし歌や絵画、そして落語は、観た人が映像の中で本当に「凄い!」と思わなければ成立しないという側面がある。役者が“凄い落語家”であることを体現するのが難しく、演じるハードルが高いとされるのは、実際のスキルが必要とされるためでもある。
ドラマ『ちりとてちん』が高座よりも人間ドラマを中心にしていたり、『タイガー&ドラゴン』のように高座と劇中劇が同時進行するというトリッキーな演出が不可欠となるのも、同様の理由からだと考えられる。また落語は、演目にある程度の尺を取らないと説得力が生まれないという点もある。およそ2時間という限られた尺の中で、演目をまるまる見せるということは、映画における映像表現とあまり相性が良くないのだ。森田芳光は、大学時代に落語研究会に所属していたことで知られているが、落語をよく知るからこそ、落語を題材にしながらも、高座や演目そのものを作品の中心に置かなかったのではないかと解せる。
『の・ようなもの』は、公開当時“落語映画”と評価される一方で、当時としては斬新なオフビート・コメディという評価も受けた作品だった。人間スケッチの連続によって作品全体を構成してゆく手法は、後の監督作『家族ゲーム』(83)や『そろばんずく』(86)等に繋がるものがあり、当時の社会を風刺しながら、人間讃歌“のようなもの”を描いていた。『の・ようなもの』や『家族ゲーム』は、どこか<世紀末>とも解釈できるような終幕を迎え、作品に対する様々な論議を生んだが、『の・ようなもの のようなもの』の終幕は、どちらかというと<希望>を前面に押し出そうとしているように見える。
僕の生まれ育った関西において、“ツッコミ”は“ボケ”に対する優しさであり、(勘違いされやすいが)けっして“怒り”の表現ではない。むしろ、みんなでツッコむことによって、その場を和ませる機能がある。同様に、僕は落語における“ツッコミ”にも、一度相手を受け入れて“和”を作る優しさがあると感じている。落語「居酒屋」における酔っぱらいの揚げ足取りも、“粋なツッコミ”と解釈すれば、周囲から少し変わっていると思われている人物を受け入れるための“和”のあり方が隠されているように思えてくる。
観客は『の・ようなもの のようなもの』が、森田芳光監督の作品でないことを判った上で観ている。その前提で『の・ようなもの』の続編であることを受け入れ、そこに集うキャスト・スタッフの想いも受け入れている。その構造が、落語における“和”を作る優しさに似ているからこそ、本作には人間讃歌としての優しさが漂っているのではないだろうか。(松崎健夫)