2016年01月27日 19:01 リアルサウンド
昨年12月19日土曜日。いちばん美味いと私が断言する《松岡》を皮切りに、朝から《がもううどん》《たむら》《長田in香の香》と一人レンタカーで廻って讃岐うどんを堪能したシメは、なぜか〈三人太鼓deヒットパレード〉キング・クリムゾン来日公演@サンポート高松であった。
まだ鼻腔や口腔に残るいりこの芳しい残り香を愉しみながら、「21馬鹿」や「クリムゾン・キングの宮殿」、「エピタフ」に「冷たい街の情景」に「太陽と戦慄」に「スターレス」の生演奏をほくそ笑みながら眺める私を、まだいたいけな中学3年だった31年前の私がきっと、「この罰当たり者めが!」と断罪したことだろう。
その昔は日常的な海外アーティストの来日公演すら夢のまた夢だったのに、あのクリムゾンのライヴがうどんのついでに四国で観られる世になるとは、悦ぶべきか哀しむべきかいまいちぴんとこない今日この頃なのだ。
それにしてもかつての来日公演は、いろんな意味で大変だった。
いまでこそオール・スタンディングのライヴも珍しくなくなり、ウォールオブデスにサークルにモッシュダイヴにクラウドサーフまでもが、BABYMETALによって急速に一般化が進行している。モッシュッシュだもんなあ。
1970年代の洋楽ライヴ、もといコンサートの観客は全員整然と着席しており、起ち上がるだけでも相当の勇気を要した――と思われがちだが、中期あたりからは演奏が始まると同時に、実はステージ前に殺到するようになっていた。しかも暗黙の了解で、見逃されていたのだ。
それでも1978年1月、レインボー@札幌中島スポーツセンター公演で19歳の女子大生が殺到した観衆の下敷きになって死亡するに至り、再び着席の世界に。しかし喉元過ぎればてなもんで、我先でステージ前に群がる光景がいつしかまた日常化する。
80年代前半の私は名古屋の大学生だったが、当時の愛知県は〈洋楽=ヘヴィメタル〉な特殊すぎる文化圏で、ニューウェイヴやらニューロマやらテクノやら新しいモードのロック百花繚乱期だったにもかかわらず、非ヘヴィメタのライヴ会場は閑古鳥の巣窟だった。あのU2の初来日公演なんて、「どうせ入らないから」と瀬戸市文化センターで行なわれたほどだ。名古屋から見下されたバンド、U2。わははは。
それだけに客がまばらなライヴでは、私も開演と同時にステージ前にダッシュしたものだ。当時飛ぶ鳥落としまくりのユーリズミックス初来日だって、名古屋市公会堂に千人もいなかったんだもん。
だが結局1987年4月に、日本のパンクバンドではあるがラフィン・ノーズの日比谷野音ライヴで起きた、死者3名に及ぶ将棋倒しが決定打となり、その後場内整理のバイトが門番のごとく客席中に配置されるようになったのは、周知の事実である。
ことほどさように来日公演事情もすっかり様変わりしているのだけれど、かつて我々リスナーにとって最も理不尽だったのは、やはり突然の来日中止に尽きる。まあ中止自体は現在でも珍しくないが、昔はその理由が不条理だったのだ。
ローリング・ストーンズの初来日ライヴが1973年1月の武道館5日間公演に決定すると当然、前売券は即座に完売した。しかし公演20日前の1月8日に、大麻所持の前科を理由に外務省がストーンズの入国拒否を発表し、結局来日公演は中止の憂き目を見た。
よほどショックだったのか単なる便乗なのか、辺見えみりのお父さん・西郷輝彦がなぜかサンタナ「ブラック・マジック・ウーマン」のイントロを明らかにパクった曲「ローリング・ストーンズは来なかった」を唄ったのであった。
ウイングス絶頂期のポール・マッカートニーの1975年単独初来日公演も、訪日直前になってポール&リンダの薬物犯罪歴でビザが取り消され、武道館3日間公演が幻になった。ストーンズは外務省だったがポールは法務省の発表――この管轄の違いは何だったんだろうな。
そして1980年1月、今度こそのポール・マッカートニー&ウイングス初来日公演が決定。武道館6+大阪・名古屋各2の全10公演がソールドアウトと、5年前の悲劇を払拭するかのように我々は胸膨らませて待ちわびたわけだ。そして1月16日、ポールたちは成田に降り立つ。と思ったら次の瞬間、ポールは空港内にて大麻不法所持で現行犯逮捕され、そのまま警視庁本部2Fの留置場に9日間も勾留されちゃったのである。
国外退去処分で公演「再」中止ってこのおっさん、単なる馬鹿か? と心底思った。
そんな《ロックの古典》的事件から35年も経った昨年秋、意表を突く本が出版された。瀬島祐介という人が書いた、その名も『獄中で聴いたイエスタデイ』(鉄人社)ときた。
ちなみにこの瀬島氏のプロフィールを、そのまま抜粋する。
「少年時代に少年院を行ったり来たりした後、19歳でヤクザとなる。その後、組が解散したことで大阪に行き、ストリッパーの派遣業で大儲けするも、フィリピン・マニラの拳銃密輸に絡み仲間一人を射殺、殺人罪で逮捕され、東京の警視庁で取り調べを受ける。同じ頃、成田空港で大麻所持の現行犯で逮捕されたポール・マッカートニーが警視庁へ連行、偶然“獄中”で出会う。この時、壁越しにポールが歌ってくれた『イエスタデイ』を聴いたことで人生観が変わる。出所後は、昔の仲間に誘われるままヤクザに復帰。日本最大級の暴力団の二次団体で特別参与を務めた後、紆余曲折を経て、カタギとなる。2015年現在76歳。(原文ママ)」
そう。〈ポールが留置場で唄った〉というエピソードはある意味都市伝説化していたが、壁と廊下に隔てられながらもわずか数mしか離れていない雑居房の住人――正真正銘の「元」ヤクザさんから「イエスタデイ」を所望されたポールは、本当に唄っていたのである。しかも4曲も!
でもってその際にポールにサインしてもらったハンカチの写真が、本書の表紙だったりする。マジックで書かれた文字は「Paul McCartney 25.1.1980」……うわ、勾留最終日だよ生々しいよ。
そしてこの圧倒的な1エピソードを免罪符に、本書ではヤクザさんの洒落にならない半生が語られていく。一応3歳年下のポールの半生が時間軸になってはいるが、普通に生活していたら絶対体験できないタイプの人生を激しく堪能できるわけだ。
2012年になって一念発起した著者は、一面識もない湯川れい子氏にポールを紹介してもらおうと試みたり、ポールに逢うために渡航するはずだったデンマーク公演が突然中止の憂き目を見たりする。2015年の来日の際には、とうとう宿泊ホテルや東京ドームで出待ち/入り待ちまで敢行していたらしい。うわ、待ち伏せ写真付きだ。
こうした数少ない〈一方的な接点〉は微笑ましいけれど、ポール・マッカートニー・ファンが読むべき本かと言えば、読まなくても何の問題ないアイテムである。しかし考えてみたら、我々も一方的な想い入れをもって聴きこんで勝手に「あーでもないこーでもない」と言ってるだけなので、著者と似たようなものなのではないか。
そう考えたら、かなり特殊な職業のファンの半生を覗いてみるのも悪くない。
ただし熱狂的なビートルマニアは、本書を読んで必ず共通の不満を抱くはずだ。
「ポールが日本の留置場で唄った、『イエスタデイ』以外の3曲を教えてくれ!!」と。
その探求心は理解できる。しかし残念ながら著者は、「イエスタデイ」しかビートルズ・ナンバーを知らなかったのであった。
たぶん。(市川哲史)