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SexyZoneや西野カナ、AAAを手掛けるSiZKの作曲術「構造的な部分より『聞かせ方』を研究していた」

2016年01月12日 19:31  リアルサウンド

リアルサウンド

SiZK。(写真=竹内洋平)

 音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、山本領平のトラックメイキングでデビューし、AAAやSexyZone、西野カナ、BENNIE K、など、様々なジャンルの楽曲を手がけるコンポーザー/アレンジャー、SiZKのインタビュー記事を公開した。


 同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたインタビューの前編を掲載。インタビュー前編では、ソロプロジェクトであるSTAR GUiTARとしても活躍する彼が、ルーツとして掲げる音楽や作り手として参考にしたアーティストなど、キャリアについて紐解いた。


・「ピアノはおろか歌すら歌えないので、作る曲もインストばっかりになる」


――SiZKさんが音楽に目覚めたキッカケは、小室哲哉さんだそうですね?


SiZK:そうです。中一か中二くらいのときに、globeがデビューして。globeって、最初のシングル3枚くらいは顔を出してないんですよ。記号みたいなジャケットで、その匿名性も含めて気になったんです。そこからいわゆる「小室ファミリー」もCDも集めるようになって、気が付いたら曲が作りたくなっていたんですよね。


――小室さんの、どのあたりが特に魅力的だったのでしょうか。


SiZK:見せ方ですよね。裏方だけど表に出てくるっていうのは、今まであまりいなかったんじゃないかと。それがすごくカッコよく見えて、自分もああなりたいなって思った。それと、シンセをL字型に並べて弾くとか、そういうヴィジュアル的な要素にももちろん惹かれましたね(笑)。最初に購入したのは、当時小室さんがプロデュースしていたヤマハのEOSです。


――どのように楽器をマスターしていったのですか?


SiZK:えーっと、マトモに鍵盤が弾けるようになったのって、ここ2、3年なんですよ。とにかく反復練習が苦手で(笑)。「曲を作りたい!」ってところから入っちゃったので、何をどうやったらいいのかわからないまま、見よう見まねでひたすら(曲を)作っていましたね。ステップシーケンスという、1音ずつ音を入力していくやり方で、コードも和音もわからぬまま形になるまで重ねていくっていう。


――曲作りが楽器の練習みたいな感じだったのですね。


SiZK:そうかもしれないですね。ただ、ピアノはおろか歌すら歌えないので、作る曲もインストばっかりになるんですね。そうすると、自分が影響される音楽も小室さんからかけ離れていくわけですよ。


――なるほど(笑)。


SiZK:入り口は小室さんだったのに、当時好きだったのはエニグマとか。ちょっとヒーリングっぽいテクノミュージックに足を踏み入れて。友だちの両親が当時「バー兼ライブハウス」みたいな店をやっていたんですけど、昼間そこを使わせてもらって音を出したりしてたんです。そうしたらその友だちのお母さんが、「これ聴いてみたら?」って言って何十枚もCDを貸してくれて。その中にエヴリシング・バット・ザ・ガールが入ってて、ものすごく気に入ったんですよね。他はほとんどメタルのCDだったんですけど(笑)。


――エヴリシング・バット・ザ・ガールがクラブミュージックに接近した頃の作品ですね。


SiZK:そう、『Walking Wounded』(96年)ですね。ドラムンベースを取り入れていて、当時ベン・ワットが「ドラムンベースは21世紀 のボサノヴァである」といった趣旨のことを言っていて。「なんてカッコいいんだろう」って思いました(笑)。そこから段々クラブミュージックも好きになって、元々のエニグマからの影響とも混じり合って、今でいうエレクトロニカみたいなサウンドを作っていました。近所のレンタルCD屋がまたメチャクチャ偏ったセレクトだったんですけど(笑)、そこでオウテカとか借りていましたね。


――中学を卒業して、高校に入る頃ですよね。まわりに話の合う友人はいましたか?


SiZK:ギターを弾いている人はいましたけど、鍵盤を使って曲を作っている人は周りにいなかったですね。僕の作っているものはまったく共感されず(笑)、ひたすら作っていました。


――まだクラブにも行けないですもんね、年齢的に。


SiZK:そうですね。ネットもまだ全然発達していなかったし、雑誌『GROOVE』の情報やレビューから、面白そうな音楽をどんどん聴いていくっていうことをしていました。そしたら、今思うとほんと「すごいところまで行っちゃったな」っていうような、ノイズミュージックとか聴き出してましたよ(笑)。


――その頃の曲を、今聴いてみたらどうでしょうね。


SiZK:いやー、聴けたもんじゃないと思いますね。でも、アイデア的には面白いことやってます。昔の曲のデータがいくつか残っているんですけど、今聞くと「よくわかんないけど面白いことやろうとしてるな」って思います。和音とか破綻しまくってるんですけど。本当は違うことをやりたくて、別のものになっているっていう。


――その頃は、Jポップへの意識は?


SiZK:そこで小室さんから離れてしまってからは、全然聞いていないですね。ケミカル・ブラザーズの「Dig Your Own Hole」を聴いて、サンプラーでブレイクビーツを作るにはどうしたらいいのかとか、そういう実験をするのが楽しかったので。ヤマハA3000っていうサンプラーと、EOS、それからローランドのVS-880を使ってひたすら曲作りをしていました。


――バンドやユニットを組もうという気持ちもなかったのですか。


SiZK:その頃の僕の考え方はとにかく偏ってて、生演奏が大嫌いだったんですよ(笑)。グリッドに沿わない、ズレる音楽っていうのが理解できなくて。カチカチ固まっている音楽ほどカッコイイって思ってたんですよね。18歳くらいまでは、人とセッションやコラボは一切やってないと思います。


・「少しでも『自分』を出そうとあがいてたのかもしれない」


――和音がまったくわからない状態から、独学でどのようにスキルを身につけていったのですか?


SiZK:とにかく試行錯誤ですね。自分が作ったものとCDの音を聞き比べてみて、「ここからどうやって近づけていこう?」みたいな。このドラムの音はどうすれば出るのか?とか、トライアンドエラーの繰り返しです。当時は機材も限られていたので、その中でなんとか工夫しようとするわけですよ。それで、「あ、こうするとこういう音が出るんだ」っていう経験を、少しずつ積み上げていったという感じですね。なので楽曲の構造的な部分よりも、ドラムの音色だとか、そういう「聞かせ方」の部分を研究していた感じですね。


――レコード会社への売り込みも、その頃から始まったのでしょうか。


SiZK:そうですね。レコード会社とか芸能事務所の連絡先が掲載されている季刊誌『Musicman』を買ってきて、片っぱしからデモテープを送ったんです。当時はMDでしたね。全部で50社くらいかな。連絡があったのは、今所属している事務所のスタッフだけだったんですよ。しかも夜中の3時に電話がかかってきた。17歳の少年からしたら、あまりにも怪しくて最初は警戒しましたけどね(笑)。


――「17歳の子が作ったトラックとは思えない完成度」だと驚かれたそうですが、楽器も弾けない、コードも打ち込みの仕方も知らないっていう状態からわずか数年で、よくそこまで上達しましたよね。


SiZK:曲としては成り立つようになってたんでしょうね(笑)。もう、「これしかない」っていう気持ちで、のめり込むようにやっていましたから。デモテープのタイトルとか、ラベル作りも結構こだわったんですけど、それは思いっきり小室さんの影響です。曲名は番号だったりとか。


――そこはやっぱり小室さんなんですね。事務所から連絡があって、そのあとはどうなったのでしょう。


SiZK:てっきり、すぐにでもデビューできるものだと勘違いしてたんですが、当然そんなことはなく(笑)。上京して専門学校へ通いながら、最初はリミックスやトラックメイキングの仕事などをしていましたね。当時はアーティストデビューを目指していたので、作家になるという意識はあまりなかったです。


――なかなかデビューできずにいた頃、迷いや葛藤はなかったのですか?


SiZK:ありましたね。「なんでデビューできないんだろう」とは思いましたし、小さな挫折みたいなものは何度も味わった。よくわからない、暗闇の中にいる感覚っていうのはあったけど、「とにかくやり続けるしかない」と。


――転機となったのは、どのタイミングなのでしょうか。


SiZK:まずは二十歳くらいのときですね。僕はずっとインスト曲ばかり作ってきたので、歌モノのメロディがあまり得意じゃなかったんですね。その頃はアートフル・トジャーやクレイヴ・デイヴィッドのような、2ステップにハマっていて。そういうトラックを作ってたら、コンペに通っちゃったんです。それが僕にとっての最初のキャリアとなる山本領平さんの「Set Free」。この時のトラックは、歌メロが入らないんじゃないか?っていうくらい音を詰め込んでしまって、「もう少し音数減らしたら?」って言われたのを覚えています(笑)。


――作家というよりも、アーティスト志向だった?


SiZK:ええ。少しでも「自分」を出そうとあがいてたのかもしれないですね。あとは、専門学校へ通うようになって、色々と知識もついてきて。例えば「繰り返しのフレーズも、最初だけ響きを変えるとこんなに印象が変わる」とか、そういうことを色々試してみたいっていう欲求もありました。


――では、専門学校へ通うことでソングライティング能力は飛躍的に伸びましたか。


SiZK:伸びましたね。それに、理論的なことだけじゃなくて、仲間が増えたことも大きいですね。自分以外で、同じような音楽をやっている人たちがいるっていうのは大きな刺激になりました。Blu-Swingのメンバー半分くらいは同級生だし、3B LAB.☆SのキーボーディストだったSHOJI-METASONIK(川代祥治)も同じ学校で、僕の別名義★STAR GUiTARでサポートでピアノを弾いてくれていたり。ニコニコ動画で有名なhalyosyも、学校の先輩で学生時代から仲が良かったですね。


後編【「ほんの一瞬だけど、ものすごく違和感のある音を忍ばせる」 SiZKが楽曲に込める“自分らしさ”を語る】へ続く


(取材・文=黒田隆憲)