トップへ

進化した怪獣映画『モンスターズ/新種襲来』は戦争の真実に迫る

2016年01月08日 19:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Subterrestrial Distribution 2014

 ギャレス・エドワーズ監督は、いま最も注目されている映画監督のひとりだ。2014年のハリウッド大作『GODZILLA ゴジラ』を成功させ、そのまま「GODZILLA ゴジラ」続編映画(2018年公開予定)での続投が決定し、さらに現在は、ディズニーが主導する「スター・ウォーズ」実写スピンオフ映画第一弾、『ローグ・ワン:ア・スター・ウォーズ・ストーリー』(2016年公開予定)の監督に選ばれるなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いといえる。驚くべきは、超大作『GODZILLA ゴジラ』に抜擢されるまでに、エドワーズ監督は、出身国であるイギリスで劇場用作品を一本しか撮っていないということだ。彼が一気にハリウッドで才能を評価されることになった、その異色怪獣映画が『モンスターズ/地球外生命体』である。今回紹介する『モンスターズ/新種襲来』は、その続編にあたる。


参考:『モンスターズ/新種襲来』、ソフィア・ブテラ出演映像が公開 入場者プレゼントも決定


 映画業界において伝説となった前作『モンスターズ/地球外生命体』は、低予算作品であることを逆手に取った、ドキュメンタリー風の斬新な手法が評価された。今回の続編では、ギャレス・エドワーズは製作総指揮にまわり、監督はエドワーズ同様にTV作品の演出を手がけていた新鋭・トム・グリーンにバトンタッチされているが、もちろん、前作の特異なスタイルと、アメリカの現在を追った痛烈な社会的テーマは、本作にも継承されている。驚かされるのは、その徹底振りである。もはやそれは、怪獣映画としては「問題作」と呼べるほどの前衛的な境地に達している。その挑戦的な作風からは、本作を「ただの続編にはしない」という作り手、とくに監督の作家的な気合いをビンビン感じさせる。今回は、この『モンスターズ/新種襲来』の前衛的な挑戦と、作品に描かれたアメリカの暗部に迫っていきたい。


■ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』の原形となった「モンスターズ」


 前作『モンスターズ/地球外生命体』の舞台は、宇宙探査機が連れ帰ってしまった「地球外生命体」が増殖し、危険地帯として外界から隔離され、荒廃したメキシコだ。その、巨大に成長した地球外生命体たちが徘徊する危険地帯を脱出すべく、アメリカ人の男女が、アメリカへの国境を目指すというストーリーである。


 この、二人の旅を追ったドキュメンタリー風の演出は、ギャレス・エドワーズ監督がBBCのドキュメンタリー番組を手がけた経験から、その手法を応用したものだろう。そこには、「今までで最もリアルな怪獣映画を撮りたい」という、エドワーズ監督の野心があった。その意図は実を結び、『モンスターズ/地球外生命体』は、ドキュメンタリー風であり、またロードムービー風の、独創的でリアルな怪獣映画となった。また、監督自身がVFXの技術者でもあるため、予算も抑えられている。


 この2年前に撮られた、『クローバーフィールド/HAKAISHA』も、「ファウンド・フッテージ」と呼ばれる、擬似ドキュメンタリーの手法が利用された、変則的な怪獣映画の大作だった。しかし、『モンスターズ/地球外生命体』は、本当に低予算で撮っていること、そして、ハリウッド大作でないからこそできる、アメリカ社会への過激な批判精神が込められていることが、まさに本質的な意味で「ドキュメンタリー」的であり、『クローバーフィールド/HAKAISHA』のリアリズムを、深刻なテーマ性によって凌駕しているといっていいだろう。


 『モンスターズ/地球外生命体』の舞台がメキシコなのは、作品のテーマとして、アメリカの「不法移民問題」に焦点が当てられているからだ。アメリカでは、メキシコ経由で毎年数万人もの、とくに中米の困窮した人々が不法に入国するという社会問題に、長年の間直面し続けている。そして、そこから発生すると思われる治安の悪化や、増え続ける移民の数に、市民の一部は不安や恐怖心を抱いているのである。この漠然とした恐怖のイメージが、作品の中で「巨大な怪獣」として登場し、それを防ごうとする社会的な心理が「巨大なバリケード」として象徴的に描かれているのだ。


 だが、アメリカが直面する移民問題は、外国から見ると、また異なったものに見える。『モンスターズ/地球外生命体』では、怪獣たちとともにメキシコに閉じ込められたアメリカ人が、怪獣と、それを攻撃するアメリカ軍の空爆の脅威に、現地人同様にさらされることで、現地の人々と同じ視点で、閉鎖的なアメリカの姿を眺めることができたのである。その姿は、非アメリカ人監督ならではの、アメリカの外からの視点で捉えた、より厳しい、客観的なアメリカ像であるといえるだろう。そして、このアメリカへの視点は、日本への原爆投下を批判的に暗示するシーンがあるなど、ハリウッド大作『GODZILLA ゴジラ』にも部分的に継承されている。ギャレス・エドワーズ監督は、このように語るべきことを持っている「作家」なのである。その姿勢が、作品に奥行きを与えているのだ。


■怪獣映画が描いてしまった、「アメリカの正義なき戦争」


 さて、本作『モンスターズ/新種襲来』は、舞台を中東地域の広大な荒野に移し、前作の規模をはるかに超えた戦闘を描いていく。そして今回も、やはりアメリカが、繁殖し続ける巨大生物を根絶やしにしようと、危険地域を空爆し続けているという設定だ。そして、その地域に配属されたばかりの新兵の視点から、前作では描かれなかった、怪獣との本格的な戦闘が展開される。


 作中に登場する中東の武装勢力は、怪獣と戦うアメリカ軍と敵対する。怪獣が動き回る危険地帯のなかで、両者は人間同士の果てしない戦争に突入しているのだ。アメリカ軍と武装勢力との、リアリティを重視した銃撃戦の描写は、まさに戦争映画『ハート・ロッカー』でのそれを思い出させる。戦いの間は両陣営とも、怪獣は完全にそっちのけで殺し合っている。本作は、両者の激闘と残虐行為を、前作同様にドキュメンタリー・タッチで描いていく。その長さとリアリティから、観客すら、この映画が怪獣映画であることを、ほとんど忘れてしまうだろう。それほどに、この映画は、とくにイラク戦争を描いた近年のリアリティを重視した戦争映画そのままなのである。


 アメリカ軍の新兵たちは、怪獣の出現する危険地域で、武装勢力を警戒しながら、行方不明になった兵士たちを捜索するという任務に就く。彼らは、怪獣や武装勢力を一掃し、安全地域と民主化政策を拡大することで、平和を望む一般市民に感謝されるものと考えていた。しかし、実際には彼らは、多くの現地人から恨まれているという現実に向き合わされることになる。アメリカ軍による、怪獣へのむやみな空爆が、一般市民に被害を与えていたからだ。劇中の被害者には、怪獣ではなく、むしろ米軍の空爆によって家族を殺されるなど、取り返しのつかない被害を受けている者もいた。そこで描かれる、現実に則した問題の深刻さは、もはや、よく怪獣映画で描かれるような「人間ドラマ」の枠を大きく超えている。むしろ、戦争を描いたドキュメンタリー作品の中に、ときどき怪獣が紛れ込んでいるといった、あらゆる意味で凄まじい内容になっている。


■戦争の犠牲になる「モノ」たちの叫び声


 そして本作は、アメリカの戦争における正義の失墜や欺瞞を断罪しながらも、兵士ひとりひとりの苦悩や悲劇にも寄り添っていく。本作の主人公となるのは、デトロイト出身の貧しい不良青年たちだ。デトロイトを一度も出たことがない主人公・サムは、「ヤクの売人になるか兵士になるか」という絶望的な状況のなかでアメリカ軍に入隊し、「仲間に語れるような武勇伝が欲しい」というような軽い気持ちで中東の戦地に向かう。


 実質的に、貧しい田舎の青年達が戦地に行かされることになるという、格差社会を利用した「経済的徴兵制」は、アメリカ議会でも問題視されている、アメリカに突きつけられた「現実」だ。なかでもデトロイトは、近年メディアでも「惨めなアメリカの都市」1位に選ばれるなど、貧困層が多く治安が悪い都市として有名だ。かつて自動車産業の重要拠点となり活況を呈した街も、現在は廃墟や空き家が並び、犯罪多発地域と化しているのだ。


 サムが参加した実際の戦争は、彼らの想像をはるかに超えて過酷なものであった。命を懸けて怪獣や武装勢力と戦うなかで、アメリカ軍の爆撃に遭って家族を殺された現地人に詰め寄られ、サムは激しく動揺する。「アメリカの内側」にいた彼ら青年たちは、無邪気にも「アメリカの正義」を信じていた。そして戦闘では、正義とは真逆の、人間性を捨てることを強要されるのだ。ある兵士は正気を失い、「何故俺はここにいる?」と、サムに問いかける。戦争に参加した兵士たちが、深く心に傷を負い、社会生活や体調にまで異常をきたすという「PTSD」の問題にも、本作は切り込んでいく。現地の一般市民を殺戮し、大義名分を失ったアメリカは、自国の兵士の精神を破壊することで、その内側も蝕まれていたのだ。本作の兵士たちの叫び声は、地球に生まれ、目的も分からず、ただ一方的に爆撃を受けて殺されていく怪獣の鳴き声にもシンクロしていく。


 イラクに大量破壊兵器があるとして戦争に突入したアメリカの欺瞞を告発する戦争映画『グリーン・ゾーン』を撮ったポール・グリーングラス監督や、ギャレス・エドワーズ監督、そして本作の監督トム・グリーンなどのイギリス出身の映画監督は、アメリカの軍事行動に関して、アメリカ人の監督たちよりも比較的冷静に、より客観的でアイロニカルな感性を持っている。このように徹底したアメリカ批判を、作品の中で表現できるというのも、外国出身の作家による「外からの視点」を獲得した映画の特徴だといえる。それは非アメリカ作家が持ち得る「価値」であり、「武器」でもあるだろう。(小野寺系)