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「シネフィルである事」が、またOKになりつつある 菊地成孔が“ニュー・シネフィル”映画『ハッピーアワー』を分析

2016年01月01日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

©2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

■まあ、どこから観ても問題作(批評は混乱するであろう)


 『ハッピーアワー』は、これこそ現代日本の作品としか言いようがないです。韓国でこんなことできないというか、できたとしてもホン・サンスしかいないというか。上映時間も長い〔317分〕だけではなく、語るべきことが多過ぎて、たぶん批評も混乱すると思うんですよ。ただ、黙っているわけにはいかない映画でもあるので、いろんな人がいろんな事を言うはず。サブカル系もしくはすごいシネフィルの人が大いに語るということになるのか、あるいはエンタメ系の人も何か言っちゃうのか。


 ワタシもそこそこ長く成るので、最初に一言で済ませてしまうと、すごくいい映画なんだけど、1点だけ悪いことがあって、それは「いかにもロカルノで賞を獲りたそうなつくりで、それで実際に獲っている」という(笑)。前回、『無頼漢』でも説明した「カンヌ狙いでしょう。はい、そうですカンヌで賞獲りました」という感じです。(参考:韓国ノワールはなぜ匂い立つほどリアルなのか? 菊地成孔が『無頼漢 渇いた罪』を解説


■素人使用は、実は批評の口をつぐませる


 それ以外は誰も文句言えない。言わせないというかね。つまり誠実にやっているわけで、長さに見合った膨大な構造的な問題をはらんでいる。とりあえず、先ず話題になるのは、出演者全員素人ということ。出演者全員素人というと、一般層は驚き、シネフィルは驚かない。勿論、ロベール・ブレッソンがいるから。ブレッソンだけじゃない、日本のATGではオーディションでずぶの素人を主演にするということも結構やっていた。ルキノ・ビスコンティの有名な『揺れる大地』なんて、ブレッソンの代表作『スリ』や『抵抗』よりも古い。『吸血鬼ノスフェラトゥ』のムルナウが作った『タブウ』なんて戦前のドイツ表現主義なのに、南の島の映画を、ちゃんと台本も書いて現地の島民にやらせた。


 また、極端に言ったら、これはジョークに近いけれども、薬師丸ひろ子は後に名女優になったから、みんな忘れちゃっているけど、角川の1本目の『野性の証明』では完全な素人だったわけで、2本目の『セーラー服と機関銃』ですでに名女優だった(笑)。これはハリウッドのスター開発システムと同じで、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』は、一応、主演第一作だけど、映画自体は、端役も入れれば5~6本いってる。このシステムは、「回りを名優で固めて、ハリウッドシステムに適応させる」というやり方だから、まあ全然別件ですけど。「素人の力」を導入している事に変わりはない。


 そして、「新人女優発掘主演パターン」を除くけば、他の映画は必ず、第一には「意欲作」「異色作」と言われ、続いて<映画とは何だろうという根本的な問いかけをしてくる>と必ず言われる。


 それ以上の批評が、個々の批評家の、個々のスキリングを超えて、構造的に「そこまでしか言わせしめない、限界性」に触れてしまっている。「他に言い様がないよね」という(笑)。まあ一種の批評的なレグレクトだけれども、『ハッピーアワー』は、前述の通り、批評の言葉の限界性を突いて、(善くも悪くも)批評を封じてしまう。という風にはならない。もっとザワつくものに満ちています。


 どうやら、日本映画が、「素人を使う」という事は、21世紀的で、確かに<映画とは何だろうという根本的な問いかけをしてくる>のは言わずもがな、もっともっといろいろ語るべき、一種の批評誘発性というか、誘惑者としての色気がある(主演女優に。といった意味ではない)。


 ここでは、単に「素人に演じさせた」というアクションに、現代的で切実な問題がたくさん含有されてしまっています。


■リアルの問題


 リアルの問題、フォームの問題、俳優の身体性の問題、方言の積極的使用etc,etc、これらは各々「ドキュメンタリストであること(ドキュメンタリー映画と劇映画の液状化)」「撮影方法や、演技方法、つまり、方法を、一から作らないと、現行の<方法>が、死にかけてしまっていること」「(恐らく、推測だけれども)フェミニズムの問題の一貫として、いろいろな顔や性的表徴を超えて、<体型><顔の作り>が、声の出し方を決定する。その際に、実は女性が問題にするべき、個々人の個性としての<顔と身体>は、ジェンダー的な美醜とは別に、純化された「女性としての個性」として、本人も他人も、よく見える様、聴こえる様にすべきだし、とはいえ、アニメや漫画の様に、類型的でヴァラエティには富んでいない(主演の4人は、顔も声も全員違うが、ほとんど同じ身長と体つきをしているとも言える)」、そして「<標準語>という、人工的な言葉が、どれほどのリアルを伝えられるか?<完全な標準語>とは存在するのか?」といった諸問題を、静かに、しかし秒刻みで観る側に突きつけて来ます。


 「休憩が二回はいるほどの長尺」という事の必然性は、上記の様々な問題と、総てターミナルの様に関係している。そもそも映画語法の大基礎である「モンタージュ理論」を提唱したエイゼンシュタインが言う「冗長性の排除」という、名目は、逆転的に(つまり、乱暴に)、敢えて退屈で冗長な状態を映画の中に導入するのではなく、もう一度、絶対悪である「冗長性」について考え直そうという意思を感じます。


■実は今回、総て推測です(実作者からの訂正があったら承ります)。そしてリアルの問題続く


 「感じます」と歯切れが悪いのは、ワタシは不勉強にして、濱口監督のことを全く一切、何も知らないので、今から書く事は全部が推測になってしまうので、それを最初に断っておかなければならない(ググったり、パンフについている解説を読めよという声があるだろうけれども、あれはーーーワタシの考えではーーー全く役に立たない。少なくとも「ちょっとでもその人を知る」という意味では。それだったら、初見で推測する方が、リスキーだが穫れ高も高い。とワタシは信じています)。


 と、いきなりこれは余りにも基本的な話しだけれども、そもそも俳優さんというのは何をやっているかというと、アンリアルもしくはフェイクをやっているわけなので、本来「俳優がリアルな演技をする」というのは語義矛盾で、俳優は構造的にリアルな演技はできない(俳優をドキュメンタリー作品の中に入れてしまわない限り)。そうなったときに、構造的に突破しようとしたら、これはもう一番乱暴な方法だけど、全員素人にすれば、演技はリアルだということになる。しかしそこは、ありきたりなアンビバレンスというか、素人もカメラの前でしゃべらせると、だんだん演技し出すから、本当に難しい。隠し撮りだけで一本作った作品は無い。


■音楽に於けるアマチュアリズムとの違い


 というのは、音楽もそうで、パンク/ニューウエイヴという、「音楽的な無教養/無経験主義」の次に来て、ニューウェーブを更に純化させた「ノーウェーブ」は、そもそも楽器をやったことがない人だけを集めて作った『ノー・ニューヨーク』というアルバムがきっかけで、完全に素人が演奏すると、演奏はダウンせず、むしろ、とんでもない生々しいリアルなロックサウンドになると。直前のパンクも、ずっと過去のブルースも、最初はそうだったのだという、アカデミズムの外にある音の歴史と繋がっている事がひしひしと、鮮烈に伝わって来た。


 これの対極にある、総てを一流のスタジオミュージシャンにとことん演奏させるスティーリー・ダンみたいなものもあって、これを極左とすると、あとはみんな「真ん中」に納まる訳です。


 音楽の場合、この次の美学的な論点は、プロといっている人だって、苦手なことをやれば素人くさくなるし、素人臭い「ヘタウマ」も、上手く行けば凄く良いよね。といった何か物わかりのいいところに着地して、「まあ、あまり考えないことにしよう」ということになりがちなんだけど、映画はそうさせない。


 何故かと考えると、音楽、特に楽器の演奏やがっつりした作/編曲というのは文法から書方から、演奏者のスキルまで、善くも悪くも「フォーム=形式」ががっちり固まっているからだと思います。


 つまり、ここで次に出て来る疑問は「映画における、演技と撮影の<フォーム>とは何か?」という事になる。「映画という存在自体を根底から問い直す」と言っても、既に映画はどんどん製作され続けているので、こんなエッセンシャルでスタティック(静的)な問いは、ほぼ役に立たない。


 それよりも、日々量産される映画には、いろんな出自で演技を学んだ俳優達が、各々のフォームで演技をしながら、カメラはそれを、(歌舞伎やシェイクスピアシアターのような)全員が一定のフォームで発声し、動いているかの様なそぶりで撮影することになり、一度フォームの問題に目が行った瞬間から、映画というのは、根源から揺さぶられかねない。


 音楽なら、クラシック上がりの奏者と、ジャズのスキルがベースの奏者と、独学のロックファン上がりが一緒に演奏して、歌がそこそこ上手いアマチュアだったり、コンピューターで音程修正された完全な素人であったり、驚異的な歌唱力を持つ演歌歌手であったりする事が、演奏中に完全に歴然としていようと、音楽を根本から揺るがす問いには至らない。そこには「ミクスチュアスキリング」という、(音楽では)当たり前のことが起こっている事の確認があるだけです。


 再度強調しますが、ワタシは大変不勉強な事に、この濱口竜介監督の映画を見たのは初めてで、てっきり『ハッピーアワー』を意欲的なデビュー作だと思っていたら、とんでもない話で、フィルモグラフィー見たらもういっぱいやっている人で、世界的にも注目されている人で、また、これも繰り返しになるけど、インターネット一夜漬けは、ワタシの規定では悪時でしかないので、していません。なので、以下、総てがワタシの推測になるので、この連載枠内での訂正要求は、いくらでも飲みます。まあ、そもそもこの連載自体が「予備知識ゼロで観るとどうなるか?」という批評実験の側面もありますし。


■『Keiko』を観たかね?


 さて、この映画を批評する前に是非とも挙げたいのは、ブレッソンでも、恐らく、監督が相当影響を受けている様にしか見えないカサヴェテスでもなく、誰もが忘れている『Keiko』という映画です。


 フランス人のクロード・ガニオンという監督が1979年に日本で撮った作品なんだけれども、C.ガニオンは、映画史上の、隠れた大奇人で、まず、名前だけ聞くと誰もがフランス人だと思う。ところがカナダのケベック州出身で、だから名前がフランス人っぽいんだけれども、別にそこは奇人ではない。


 万博〔1970年〕のときに日本に報道カメラマンとしてやってきて、よくある「日本にかぶれた外国人」になるんですね。それで日本人女性と結婚して(彼女はガニオンと製作プロダクションを作り、映画製作者になるんだけれども)、日本に定住することになって、そこで最初に撮った長編劇映画が『Keiko』っていうのね。


 その映画はオール素人。C.ガニオンがどれだけロベール・ブレッソンのことを意識していたかは全くわからないんだけれども、彼は日本のカンフーアクション映画に1本だけ悪役で出演して怪演したりして、とにかく変わった人。


 写真家上がりでドキュメンタリストで、最近だとま、、最高に良く言って、ペドロ・コスタみたいなね。映画をドキュメントのつもりで撮っていくというような、最近のアート映画の潮流というか、最終手段の1つをやったかと思えば、今言った様に、千葉真一の空手アクションみたいなのに悪役で出たりして。


 そして決定的なのが、『Keiko』よりもはるかに有名な映画で『ケニー~スケボーに乗った天使』という、下半身が全くなくてスケボーに乗ったままで生きている男の子の映画(なんとドキュメンタリーではなく、劇映画)も撮っており、それはもう世界的に有名な作品として、大ヒット作になった。若い人は知らないと思うけど、みんな『ケニー』はやっぱり驚愕とともに見たと思うんですよね。下半身が全くないのに生きていて、だから移動手段がスケボーだという。車椅子すらケニーは拒否しているんで。驚くべきことに、今回ちょっと調べたら、まだ存命中でした(汗)。


 C.ガニオンはその後、ヨーロッパのテレビ局で『トーマの愛のために』(1994年)という番組を撮って、ヨーロッパのテレビ番組史上、最高視聴率を上げたりもしている。全然輸入されないんだけど、いまだに映画も撮っていて、とにかくまあ、比類なき奇人。


 その人の処女長編『Keiko』はATGなんですけど、ワタシは中高生のときにこれ観ているんですよ。それは恐ろしいというか、すごく変わった映画で、聞き取れない台詞とか、俳優が台詞噛んで言い直しているのも全部撮っているの。そもそもカメラとマイクが別々だった時代だから、マイク一がダメで、台詞の録音にムラがあったりして。


 言ってしまえば「ドキュメンタリー手法の導入(シネマ・ヴェリテというか)」なんだけれども、そしてしかも、70年代中盤の段階でレズビアンという題材を扱っている。今はもう同性婚の時代だけど、当時はレズビアンというのは完全な被差別で、カムアウトなんかとんでもなかった。それで主人公のケイコは一緒に住んでいた、本当に愛していたレズビアンの相手と別れて、親が勧める婚約話で、死んだ目のまま異性と結婚するという、大変な悲劇を描いているんですね。それが、ワタシにとってはいわゆる「トラウマ映画」になっている。未だに「何だったんだろう?アレは?」と思っている『ケニー~スケボーに乗った天使』なんか比べ物に成らないほどの衝撃。


■通奏音としてのレズビアニズム


 『ハッピーアワー』を観た時、まず心的な第一接触として、まあシネフィルはブレッソンとかカサヴェテスとか言うだろうけど、どんなシネフィルでも『Keiko』の話はしないだろうなと思いました。でもワタシのイメージの中では、『Keiko』がどうしてもトラウマ的に癒着していて、主人公が全員女ということもあって、若干のレズビアニズムというのがこの映画の中に通奏低音のように薫っているように感じてしまう訳です。今様に言うと、これはシスターフッドという事になるんだろうけど、シスターフッドなんていう、健康的で制度的な状態ではなく、通奏低音としてのレズビアンと言った方がしっくり来た。


 まあ実際には、彼女達は結婚したり離婚したり恋愛したりして、異性愛のことでみんな悩んでいるわけだから、全然レズではないんだけど、フロイド的に言うと、実際この人たちがレズビアンじゃなくても、それは抑圧されてるんだ、という事に成ってしまう。だからそれがむんむんと薫っていて、それを露骨に物語の中に持ち込んじゃった『Keiko』とつながっちゃっているんですよね。だから見ている間じゅう、ずっと『Keiko』のことを思い出し続けていて、久しぶりに見直そうかなと思った。何せ『Keiko』は全編、京都ロケ、こちらは神戸。大雑把に言って、さっきの「リアルな方言と、フォームがバラバラな標準語」の問題を、そっくりそのまま移送した形に成っている。とも言えなくもない。


 何度もしつこいが、全部が推測にならざるを得ないんですが、監督は恐らく『Keiko』のことは知らないと思うんですよ。年齢的に知っていてもおかしくないし、シネフィルだから資料として知っているかもしれないけども、もし意識していたら、『ハッピーアワー』は、こんなにも『Keiko』と癒着的にはならない、何かが違った筈です。


 あと考えどころは、シネフィルとして、ここまで書いて来た「素人映画の名作」をリスペクトしているのか、実はぜんぜん映画鑑賞のアマチュアもしくはゼロの人で、全くオリジナルな形でやったのかもしれない。リテラシー低いまま観るという立場を貫くならば、パンフレットでドキュメンタリー映画を撮っていることだけは知っている。だから、ドキュメントのカメラによって劇映画を撮るとどうなるかという、いろんな人がやろうとしていることをやって、それを非常にうまくやった例だということはできるわけです。


■「シネフィル」差別の終わり(ボンクラの疲労)


 それで思ったのが、最近になってまた、いかにも「シネフィルが撮っています」という映画が許されるようになってきたということ。ワタシは、その鍵をこじ開けたのは実はホン・サンスだと思っていて、韓国の50過ぎた監督が、あるとき突然――日本人から見ると。韓国的にはもっと長い歴史なんだけどーージャン・リュック・ゴダールとエリック・ロメールの臆面もないオマージュをやり始めたという。ここ数十年の流れの中で、シネフィルが映画を撮ることに対して、観客が陰性感情を持って排除していくのと、陽性感情を持って迎えいれて持ち上げるという、力学というか、流れみたいなのがあって、まあ、タランティーノだのウエス・アンダーソンだのを殿堂入りさせて奉るか、(死語ですが)オワコンとして(死語ですが)ポイしてしまい、葬り去ったか。というアティテュードの違いに成ると思うんだけれども、我が国だけ見ても、ここ数年の人気監督は園子温にしても、三池崇にしても、シネフィル的ではなかった(実際どうだったのかは関係ない。作品から見渡せる事として、という意味)。


 それまでのシネフィル映画というのは、アカデミー賞ですらポイで、全米批評家協会賞もしくはカンヌもポイで、シネマテーク・フランセーズとかそういうところでやっている、もう誰も見ないような映画まで見ているという履歴の中からオマージュを捧げるという形でやるとカッコイイ、という、マニアが偉い時代が80年代とかにあって(笑)。でも映画にそれほど詳しくない観客の、「いや、オマージュとか、ここが引用とか言われても」という感情がだんだん高くなってきた。


 70年代から80年代までは結構、牧歌的な時代で、ブライアン・デ・パルマがヒッチコックのカットを引用したとか、それ見つけて喜んだりとか、『スター・ウォーズ』=『隠し砦の三悪人』〔1958年黒澤明監督作〕でバンザーイみたいな下地があったんだけど、もうそういうのはダメという感じになってきた。


■タランティーノが生んだ「秘宝」系という巨大マーケット


 タランティーノがうまかったのは、本当はタランティーノはシネマテーク・フランセーズとかもイケてる人間で、何せ自分のプロダクションの名前(今は解散)ゴダールの『はなればなれに(Bande à part)』という映画のタイトルだし、やる事の端々に、ちょちょっと暗号みたいにヌーヴェルバーグやルビッチを入れて来る一方、敢えて千葉真一だとかを前に出していって、難しい映画じゃなくていいんだよという。アジアのB級アクション映画をいっぱい知っていて、それだけでこんなに面白い映画ができるんだという演舞を行った。


 つまり『映画秘宝』的なマーケットを作った訳だけど、それはここ数十年で、一番上手く行ったマーケットで、何せ虐められっこでも、無口な引きこもりでも、誰でも丘ヤンキー(80年代の「丘サーファー」からの転語。ネットだけでB-BOY的な言葉遣いで、ちょっとワルぶる。というプチ万能感。因に、小規模流行語に成った「マイルドヤンキー」とは全く意味が違う。あちらは本質の変化、こちらは人格分裂に近い演技性のこと)になって大威張りになれるし、幼稚な男泣きも許され、しかも好きなだけ語ってもオタク認定によるキモがられのリスクが低い。


 こうした「秘宝」的なマーケット/基本価値の完成に尽力したのが、例えば町山智浩さんで、要するにボンクラというか、アート映画を知らないけど、娯楽映画をいっぱい見ていて、ヤバい映画、B級をいっぱい見ていて、それをくみ上げていって、萌えがいっぱい入っていて、オタクが見るとニンマリする(たまにシネフィルにもウインクするーー3年に1度ぐらいーー)というタランティーノの作法というのが、90年代以降、1つの金字塔みたいなった。タランティーノの見事なセルフプロデュースが造物主であって、ウォシャオスキー兄弟だけでは「秘宝」は完成しなかった。


 そういう中、前述の通り、全然シネフィルっぽくない人、日本人だと園子温だとか三池崇とか、作風やルックスや、その人の記号的な消費のされ方がシネフィル的ではない人が出てきた。ジャン・ヴィゴとかフランソワ・トリュフォーとか、全部見ている感じは全くしないという。かといって、タランティーノとも違う。漫画なんかを原作にして、ゼロからつくり上げて、今のオタクで映画見る人たちの気持ちにすごく応えているんだという感じで。


 園子温なんかは『冷たい熱帯魚』みたいなものすごい残虐な映画撮っていたかと思うと、ちゃんと萌えが入っていて、『愛のむきだし』では満島ひかりさんのパンツが見えていたり、ちゃんとサービスも忘れない。最近では、『TOKYO TRIBE』とか『みんな!エスパーだよ!』みたいなのまで撮ったりして、何でもやるけど、シネフィルには見えないと。ホントはシネフィルであるタランティーノとは全く違う。


■フォームなき国のフォームは?


 では、シネマなのにシネフィルじゃない人が撮る映画とは何だろうか? 何のフォームによって役者は駆動されたか?


 演劇と漫画だと思う。どちらも物凄くフォームがしっかりしている。「Vシネマ」も初期に於いては、その形式性から、フォームとして遣われている。


 そして物質的なフォームではなく、心的なフォームだけれども「萌え」も、フォームとして大きく、強く作品のリビドーを稼働し、律していた。「萌え」はカワイイだけではなく、残虐描写や、エグイ描写や、自虐描写も含まれる。


 やっとここで『ハッピーアワー』に戻って来る。オタクが全盛で、シネフィルみたいなものはウザがられるようになると当然、反動も出てくるわけで、いやいや、ブレッソンですよ、ゴダールですよ、ロメールですよ、萌えなんかあるわけないじゃないですか、気に食わない方は見ないでくださいという感じの態度もアリになってくる。


 それを平然と、特に考えずにこじ開けたのがホン・サンスで、韓国映画界のこととか何も考えていないような人だから、自分がフランスに留学して、アメリカに留学して、それで好きなだけ映画を見て、バカ正直にゴダールとロメールを韓国人でやったらどうなる? とやったところ、興収はすごい悪いけど、評価はメタクソに高いカルト監督になった。それで、ホン・サンスがやれるなら、と考えたかはわからないけれど、1つのムーブメントが起こるときの同時多発性という感じで、『ハッピーアワー』みたいな作品が出てくるのは、時代の必然だと思うんですよね。21世紀ですよね。


■劇団か? いや、違うのでは?


 『ハッピーアワー』は、パッと見た感じ、演劇とどのぐらい関係があるかがわからなかった。厳密に言うと「どうせ監督主催の、劇団独自の演技フォームから作る劇団があって、そこの役者だろ?と思ったら、観れば観るほど、<劇団>の感じがしなく成って来た」というのが正しい。


 ただ、チラッと何かのフライヤーの端に書いてあって、迂闊にも読んじゃったんだけど、この監督は劇団を持っているわけじゃないけど、「素人が演技するワークショップ」をやっていて、この映画もその産物(象徴的な意味ではなく、具体的に、そのワークショップの卒業制作的な作品)なんだということがわかった。


 ということは、ブレッソンともまたちょっと違うし、例えば松尾スズキさんみたいに劇団を持っていて、劇団員の中の面白いキャラの人を次々スターにしちゃうというようなのとも違う。C.ガニオンみたいなドキュメントの手法で、脚本はしっかりしているんですね。即興性はまったくなくて、脚本は5時間分ガチガチに書かれているように見える。即興性は感じない。しかも、オレオレのカリスマ映画というより、共同脚本で、もう相当練り直して、練り直してやっていると思うんですよ。


■リアルの問題、まだ継続中


 テーマとしては、とにかく「リアルとはなにか」しかないと思う。そのぐらい今の日本人というのは、リアルを喪失しているから。インターネットによって、もうリアルがなくなっちゃってきている。そんなリアルのない世で歌舞いてみせましょうというのが、三池監督とか園子温監督で、これはこれで時代に合致していたわけで、リアルはミッシングもしくはコンフリクトしていたけど、萌えという感覚に関してはストレートにリアルだという人々に対して、ものすごい救世主になった。


 だけど、この映画は「萌え」がなく、「萌えという最後の命綱も切っちゃったら、死んじゃうの?」というかなり切実なテーマを日本人に突き付けている。これは日本だけではないけど、程度ややりかたはいろいろあれど、リアルをフレッシュに奪還しましょう、ということがテーマになり得る国が今、世界に沢山ある。というか、リアルが生き生きとリアルなのは、紛争国とか内戦国とかに集中している。


 ただ、さっきも言った通り、『痛快!ビッグダディ』が、最初はリアルだったのに、最後の方は演技だったとかいう話を代表に、、、、、してはいけないか(笑)。とにかく、「素人をドキュメントすれば自動的に得られるリアル」は、脆弱すぎる。


 ドキュメンタリーは必ず「やらせ」の問題と背中合わせになってしまうのは、もう力学的にしようがない。もう単なるドキュメンタリーがリアルだとも思えなくなっちゃった。


 盤石で揺るぎないリアルを撮るにはどうしたら良いか?残る手段は「ドキュメンタリーのカメラ」が「劇映画を撮る」しかないわけで、そんな、チェスの手の内みたいな、理詰めで考えた方法が生き生きとした映画表現に成るのか?と一瞬思う訳だけど、『ハッピーアワー』では、それが驚くべき完成度で結晶化している。


■<第三のリアル>という考え方


 これは、一種のバイスキルで、カメラはドキュメンタリーの振る舞いも出来ると同士に、劇映画も撮れるし、両者を止揚した、第三の状態で振る舞えないといけない。役者は、単に出たがりの素人や、役者志望ではいけない。カメラ同様、第三の演技スキルとプランを持たなくては行けない。


 何度も言うけれども、これは画面から読み取った推測だけれども、「監督は、素人に台詞を与え、それを撮影する」という事に特化したワークショップをかなり実戦的に行ったと思われます。


 それがどんなものなのか、想像もつかないが、例えば会話のシーンがあって、この作品では、目線と目線を「リアル以上に」見つめ合う様に演出しているんだけど(ここはブレッソン的でも小津的でもあり)、これはおそらく、第三撮影と再三演技の賜物だと思う(例えば、実際に見つめ合わさせずに、喋らせて、それを横から撮ると、リアルな見つめ合い以上の、新しいリアルな見つめ合いが生まれる。というような)。こうした研鑽の結果が、4時間越えという長尺の中に、ぎっちり張り巡らされている。


■フェミニズムとシスターフッドとレズビアニズム。絡み合う三者


 ただ、ちょっと、「そこはどうかな?」と思ったところもあって、この映画は「30代後半の女性はすごく生きるのが辛い」という事実の一側面を、単に本作のテーマであることを超えた、何か社会的なデフォルトのように扱ってしまっている側面が感じられ、つまり、コンセンサスをがっつりとった一般論として、精査せずにテーマに据えてしまっている様に思う。この点は第三リアル、新リアルというより、凡庸なマスメディア・リアルのように見えてしまう。


 「30代後半の女性で、いま暮らしも精神も全然問題ないんですけど、何か?」という人が出てこない。全員問題抱えているわけで、全員が辛い。その辛さというのは、正に、第一リアルに押しつぶされそうなわけで、かといってこの人たちは、アンリアルになってアイドルを追いかけたり、ネットにはまり込んで、二次元の世界によってリアルのきつさから逃れるということもしない人たちなんですよ。ここは、評価が分かれる所だと思います。


 つまりオタク型、ジャパンクール的な救済が全くないから、結構無慈悲というかね。だから相当フェミニスティックな映画でもあるし、マッチョな映画でもあります。男が女に芝居させて、操っているわけだから。マッチョ感もあるし、フェミニズム感もあるという。


 フェミニズムを理解している男性監督が女性をうまく使っているという意味において、『Keiko』とちょっと似てなくもない。完全100%フェミニズムにしようと思ったら、監督も女性であるべきだと思う、こんな長文で今初めて書くけど、監督は男です(笑)。しかも劇中に登場して、いいところさらっていったりしているし、そもそも30代後半の女性はみんな生きづらいという初期設定でスタートしてしまうこと自体が、ちょっとフェミニズムじゃないなという気がする。ここは、シスターフッドの同調には同じ境遇が必要という事だろうけれども、別に脚本に書き込まなくとも、そうじゃないと思えば、画面に現れる事です。


 あとは、マルセル・プルースト的とも、アンディ・ウォーホール的とも言える、時間の遅延(異様な長尺)、しかも長尺による冗長さが第一リアルに含有されてしまっては意味がなく、この作品は長さを殆ど感じさせない。不思議な時間構成をしている。筒井康隆や、ラテンアメリカ文学の「虚構」についての考察を、根本から行っている様にも、第三カメラと第三演技を獲得した事で、自然とそう成った様にも見える。


■「カルチャーセンターのワークショップ」という、凄まじいリアル


 普通だったらカットしてもいい、第一部の「重心をとる」ワークショップを、ノーカットというか、ほぼそのまま入れ込んでいて、要するに、地方都市のカルチャースクールなんかで盛んなワークショップを、結構な尺で、ほとんど全部見せている。彼女たちが、いかにもありそうなカルチャースクールというか、ワークショップに友達と一緒に出掛けることで、しかもそれは体を使うことだから、肉体的な、身体的なリアルを取り戻せる。この中でヨガ習っている人とか、ダンス習っている人1人もいないように描かれる。ヨガだ、ダンスだ、ジョグだとなるというのは、やっぱり身体性を取り戻して、第一リアルということを体から取り戻そうという動きだと思うんだけど、それがヨガとかダンスにせずに、何かアーティストのやるワークショップ(新興宗教やメンタリズムのような擬似超能力ぎりぎりの)にしたというところが素晴らしい。


 ある意味、アンリアルというかね。普通これだけ集めたら、デブだったりチビだったりがいる筈なんだけど、意外と全員の身体的なIDがそろっている。体つきがみんな似ているんだよね。主人公達は境遇もルックスも4者4様なんだけれども、からだつきが似ている。ここが何だか凄い。凄いとしか言い用が無い。


 そして、似ているからこそだと思うんだけど、やっぱりよく見ると、1人1人の体つきが違っていて、その恐らく、1人1人が記号的には同じところに分類されるような体つきの人達の、細かい違いを見せたいというか、そこがリアルになってくるというか。


 結構、全編に渡ってその細いところを見せていくので、劇映画の目線で見ちゃうと、当たり前ですけど退屈な側面も出ちゃうんだよね。その分、彼女たちはよくしゃべる。そこは演劇にちょっと近い。


 韓国や合衆国の映画を観てから日本映画を観ると、「日本人ってこんなに気の利いたこと当意即妙にしゃべるかね?」とか思いますよね? 「あなたが好きです」というのに「月が綺麗ですね」というとか、曖昧な笑顔で何時間も居られるとか、あれって本当に日本人だけだよねと思う。


 しかし、ここではみんな、すごくいい台詞を言うの。みんな常に人生のことを考えていて、金言の5個か6個持っていて、ちょっとした会話の中でボンボン出てくるわけ。たとえばこの人の離婚したいと思っている亭主が出てくると、もうすごい人生訓とか飛び交って、そこは演劇に近い。日本人のリアルな会話をそのまま切り取ったら、良い台詞は出て来ないし、何せそれこそ、第一的な冗長に成って、4時間もそれやったら絶対誰もが寝る(『Keiko』はそうだった)。


■方言使用は成功したか?


 その事に関するエクスキューズの様に、登場人物の1人が「私もう、あんな頭のいい人ばかりの集団、よう行かん」「疲れる。言葉が追いつかない」と言うシーンがある。これはエクスキューズというより、どちらかというと、単なる第一リアルに思える。何故なら、方言であらば、日本人はアメリカ人や韓国人ぐらいは喋る可能性があるからだ。


 監督が東京出身で、その後、震災の被災地で長く暮らしながらドキュメントを撮って、何故か(恐らく)この作品の為に神戸に越した。震災繋がりといった具体的な意味があるのか、単に近親者が神戸出身で、神戸の方言に慣れていたのか(更には今度、海外に定住して作品を撮るそうだ)、理由は解らないが、狙いは解る。日本人が饒舌に成れないのは、「月が綺麗ですね」方式の、古代からのシャイネスだけではなく、やはり「標準語」というフォームが、エスペラントとまでは言わないが、基本的にはかなりの作り物で、フォームとしてガクガクだからだ。ネットに先に現れるスラングや、集団的に自然発生するスラング(ギャル語的な)は、フォームを失った「標準語」に、リアルな「オリジナル方言」を搭載し、水平に駆動させる為だ。しかし(流行語等も含む)スラングは劇映画の中では非常に扱いづらい、単なる風俗描写に見えるからだ(因に、最初の方に書いた、ムルナウの「タブー」も、ビスコンティの「揺れる大地」も、方言100%である)。


 しかしそれでも、「土地の方言なら、人は饒舌に成る」というアベレージを本作は超えている。それはやはり第三リアルだろう。方言が派手に飛び交うだけなら、テレビでもよく体験する聴覚経験である。洒落みたいになるが「方言」を「方便」に、本作は、第三リアルを推進する。


 登場人物のひとりは、最後の方でクラブが祝祭空間みたいになって、みんなにゴルゴダの丘のキリストみたいに持ち上げられて運ばれて、あんなこと起こる?絶対起こらねえ。とか思うんだけど、これは、第三リアルがここまで誘導する、という構えも見せているわけです。


 この「第一リアル=単なるドキュメンタリー」ではなく、「第二リアル=ドキュメンタリーのカメラがドラマを撮る」でもなく、キャメラと俳優が止揚的に融合する「第三リアル」は、自由にして自在で、奇妙で真新しい、新築されたばかりのフォームによって、異様な現実観をネットワーキングする。


■第三リアル。が必要なわけ


 これは本当の意味での日本映画であって、そもそも誰もが演説の様に喋り、気の利いたジョークを言おうとするアメリカが、映画の中でどう振る舞っていいのかということは、日本と全く逆の意味で、混乱する。ユダヤ式のスタンダップコメディアンの喋り方か、シェイクスピアシアター的な、英国調の演技力か、ブロードウエイでさえ、統一規格がある訳ではない。ましてや移民国家だ。


 なのでアメリカにはスタニスラフスキー・システムとかいろいろあって、マリリン・モンローが、どうやってただのおバカ役者から演技派になったかというときに、やっぱりちゃんとメソッド演技を習ってやっている。という話しは聞き飽きたほどだ。つまりリフォーム屋や、フォームインストール業者が存在するという事だ。泣きかただけで1時間2万円とか。結構ヤバいビジネスとも言える(アメリカは精神分析や自己啓発も盛んなので)。


 日本も昔は、例えば緒方拳は新国劇だし、石坂浩二は文学座だし、要するにいろんな劇団員の混成部みたいな形で映画撮っていた。彼等は、各々独力で、自分のスキルであるシアトリカルな演技と、テレビ用、舞台用、更にはバラエティ用の演技プランを打ち分けられる様にし、バイスキルからマルチスキルへ、各人がブラウン運動的に動いて、日本映画界の活況を乗り越えていた。活況なので、スキルが統一化されていない事が気にならなかった。ここに5社のニューフェイスシステムが導入されると、小林旭さんは一生演技の指導を受けていないから、ずっと大根のままだとか、そういうようなことが起きはじめる。


■フォーム混在の果ての21世紀(取りあえず「蜷川シャクティーパッド」)


 現在の俳優は「何となく、<映画風>の演技」を、「何となく<映画風>の演出をする監督」に求められ、OKが出たりNGが出たりしている。安定的なようで、かなり脆弱である。アメリカでは演劇がダンスや歌と同じようにスキリングとしてもう独立している。だけど、日本の場合、歌や踊りなら、アイドルの人は一生懸命勉強するわけだけども、演技をメソッド演技としてやるということがあまりないので、勢い「何となく」になる。


 だから野放しのまま映画俳優が映画をやると。それで少し売れてくると、みんな蜷川シャクティーパットを受けて、舞台を経験し、宮沢りえから誰から、みんなが演技派にロンダリングされて、映画俳優として一皮むける。というシステムがあって、演劇の寡占状況が生じるしかないんだなと思うわけです。


 そういった、クラッチされた状況の中、リアルよりリアルな虚構としての、第三リアル、ニューリアルを、この作品狙っていて、ほぼほぼ成功している様に見える。しかも、新しい演劇や舞踏のニュオーフォーマティズムも使わず、独自のメソッドによって。


■メソッド演技、メソッド撮影の創造と実践(シネフィルなのに)


 ただ、日本人がどう評価するかというのは、非常に難しいところです。萌えがまずないし、あとお楽しみ=ギフトが無い。あと、全く新しいメソッドを導入してきて映画を撮るという、極めて方法論的な監督であるにもかかわらず、シネフィルでもあるという気がすごいするんですよ。やっぱりブレッソンのことを絶対意識しているだろうし、ジョン・カサヴェテスも絶対意識していると思う。


 そういうものを全部知っている上で、ニューメソッドの組み立てを急務としている。これは20世紀的なシネフィルの動き方とは全然違う。昔のシネフィル的な映画は撮らないよ、というものだと思う。だから、ものすごく新しい映画ですよ。「シネフィルでありながらにして、新しいメソッドをつくった人の映画」ただ、それがどう評価されるかのは、すごく興味があるところです。


 だからこそ、これはどなたにでもおすすめできる、老若男女に見てほしいと言えるかというと、残念ながら微妙だなと。シネフィルからまずお先にという感じでしょう。とまれ、旧世代のシネフィルが見ても、シネフィルへのくすぐりはありませんよというアティテュードの映画です。山内ケンジ監督の『友だちのパパが好き』(ワタシ個人はあの作品はキツかったけれども)、冨田克也監督の『バンコクナイツ』(制作中)等と並び、「はい。わたしシネフィルですよ。萌え知りません。ジャパンですけどジャパンクールじゃありません」といった、「ニュー・シネフィル映画」が潮流をなしそうな気がちょっとします。