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1979年はなぜ歌謡曲にとって特別な年だったか 栗原裕一郎が話題の書に切り込む

2016年01月01日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

スージー鈴木『1979年の歌謡曲 (フィギュール彩)』(彩流社)

 冨田恵一の『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』(DU BOOKS)はドナルド・フェイゲンのソロアルバム『The Nightfly』を1冊かけて分析した本だが、80年代に音楽制作に起こったイノベーションが裏のテーマとしてあった。冒頭で冨田は、70年代から80年代への変化というのは、徐々に進行したのではなく、デジタル時計が切り替わるように一息に完了したのだと書いていた。


「文化的にも70年代は文字通り79年12月31日を持って終了し、80年1月1日から明確に80年代は始まった、とのイメージさえ持つことができた」


 さすがに1月1日からというのは誇張としても、歌謡曲のフィールドでも79年から80年にかけての変化というのは劇的なもので、80年に登場した松田聖子には70年代までの光景をガラリと塗り替えてしまったようなインパクトがあった。


 ただし聖子という現象は突発的な事故ではなかった。70年代に歌謡界で進行し蓄積されてきた変化が、松田聖子というアイコンに収斂し一気に開花したと見るべき事態だった。その変化とは、歌謡曲とニューミュージックがせめぎ合いの末に融合していったプロセスのことだ。


 開花に備えるために深くかがんだかのように、1979年の歌謡シーンはちょっと特異な様相を呈していた。何より顕著だったは、アイドル歌謡が不気味なまでに不況だったことだろう。個人的には「アイドル歌謡最暗黒の年」と呼んでいるのだけれど、新人は枯渇し、人気アイドルは失速していた。


 この年一番期待されていた新人アイドルはたぶん能瀬慶子だったといえば、ある年齢以上の人ならその暗黒さ加減に見当がつくのではないか。死屍累々である。登竜門であるレコード大賞新人賞にノミネートされたのは、井上望、倉田まり子、桑江知子、竹内まりや、松原のぶえという面々で、純粋にアイドルと呼べるのは、井上と倉田だけだった(桑江、竹内も準アイドルくらいの扱いではあったが。最優秀新人賞は桑江知子)。


 他方で、山口百恵は引退を発表し、前年まで一世を風靡していたピンク・レディーはつるべ落としのような凋落の軌道を描いていた。


 では、どんな音楽がチャートを賑わせていたのか。


 まずニューミュージック勢、それからニューミュージックに偽装した歌謡曲、もしくはニューミュージックとハイブリット化した歌謡曲である。その間隙を突き、幾人かの演歌歌手が奮闘していたというのが79年の状況だったと整理できるのではないかと思う。ジャニーズが息を吹き返すのも、80年にたのきんトリオの野村義男を除く二人がソロデビューして以降のことで、79年のチャートに影はない。


 つまり1979年というのは、松田聖子によって歌謡曲とニューミュージックの止揚が完了する直前の、混沌が絶頂に達していた年なのだ。


 この79年の特殊さ、とりわけ音楽性の洗練と豊かさに注目し、ある種の画期として描き出したのが、本書『1979年の歌謡曲』である。


・79年象徴度


 ここリアルサウンドの音楽書レビューのために書店の音楽コーナーは定期的にチェックしていて(だいぶブランクが空いたけど、その間もチェックだけはしてたんですよ笑)、店頭で本書を見るなり「やられた」と思った。1979年の歌謡曲のヤバさについては評者も、お遊び的なものだがイベントまでやったことがあったからだ。


 だがそれをテーマに本が1冊仕上がるとまでは考えなかった。ニッチすぎるという頭があったし、どう語ればいいかという問題もあった。普通に書けば70年代に起こった変化をクロニクルに記述していくことになるが、それでは歌謡曲史のごく一部にすぎないのでインパクトに乏しい。もっと大きな本に繰り込むならともかく、70年代だけというのはきびしいよなあ、まして79年オンリーなんて……などなど。


 本書が採用したのは、79年のヒット曲を発売日順に取り上げ、各曲のデータを並べ、批評を加えていき、それらの総体として79年の歌謡曲の特殊性と音楽性を浮かび上がらせるという手法だ。表面的にはディスクガイドの体裁でありなんの工夫もないように思うかもしれないけれど、これはけっこうコロンブスの卵だなあと感心した。たとえるなら、一つ一つは独立していながら全体としてストーリーを成す連作短篇集のような構成になっているのである。


 取り上げられている楽曲は50曲で、オリコン最高位、売上枚数といったデータに加え、「名曲度」「79年象徴度」に関する評価がミシュラン形式で添えられている。


「79年象徴度」というのは「その楽曲を聴いたときに79年の風景が心にぐっと盛り上がる度」だそうで、「名曲度」ともども「とても個人的で抽象的な尺度である」と断られている。


「名曲度」については、たしかにまあ人それぞれであって他人が口を挟める領域ではないが、「79年象徴度」については評価のポイントを抽出することは可能だ。そしてそれが本書の主張にもなっているはずである。評者なりに抜き出すと次のようになるだろうか。


(1)ニューミュージックの歌謡曲への侵攻
(2)歌謡曲のニューミュージックへの接近
(3)音楽性の洗練
(4)CMやドラマのタイアップによるニューミュージックの産業化
(5)作詞における新旧の交代
(6)ピンク・レディーの凋落(に象徴されるもの)
(7)音楽のメタ化、ポストモダン化


 ということで、この七つの要素を軽くめぐるかたちで書評を書いてみることにしたい。


・ザ・79年サウンド


「(1)ニューミュージックの歌謡曲への侵攻」と「(2)歌謡曲のニューミュージックへの接近」は状況の前提のようなものだ。少し説明すると、以前花澤香菜のレビューでも書いたが、初期において歌謡曲とニューミュージックの関係は、商業的―非商業的、非創造的―創造的、非主体的―主体的といった対立の構図にあったが、次第に交配が進み、ハイブリッド化していった。(参考:花澤香菜は第2の松田聖子となるか? 栗原裕一郎が新作の背景と可能性を探る


 新しい音楽文化だったニューミュージックが歌謡曲を駆逐していったとも、歌謡曲がしたたかにニューミュージックを飲み込んでいったとも、互いに利用しあったのだとも、見方によってはいずれの解釈も成り立つだろう。


 (2)に関して特筆しておくべきなのは、ニューミュージックに偽装した歌謡曲、著者の表現では「にせニューミュージック」が78年あたりから登場してくることで、本書では桑江知子「私のハートはストップモーション」が取り上げられている。いかにもニューミュージック然とした曲だが、当時はみんなあんまり区別がついていなかったと思うけど、作詞は竜真知子、作曲は都倉俊一、編曲は萩田光雄という作家陣による純然たる歌謡曲であり、桑江の所属は渡辺プロダクションだった。桑江がこの年のレコード大賞新人賞を獲得したのは述べたとおりだ。


 この逆の「歌謡曲に偽装したニューミュージック」というのもむろんあって、本書に登場する人では桑名正博、久保田早紀あたりがその例になるだろうか。ただし79年というこの時期、混淆は極まっていて、こっちはニューミュージック、あっちは歌謡曲ときっちり腑分けすることは難しくなっていた。


 そんな状況の中、本書が核として置いているのが「(3)音楽性の洗練」で、「ザ・79年サウンド」と名付けられている。定義らしい箇所を引用すると、「フォーク、ニューミュージックをベースとしながら、さまざまな管弦楽器をマルチ・トラックにぶち込んだ、流麗なアナログサウンド」であるとされる。


 後半では「要するに和洋折衷、もう少し具体的に言えば、すでに日本に根付いていたフォークと荒井由実(和)を核に、S&G〔サイモン&ガーファンクル〕(米東海岸)、イーグルス(米西海岸)、クイーン(英国)と世界一周させたサウンド」とより限定的に特徴が記されている。


 作り手として最大の評価を与えられているのは、小田和正(オフコース)、財津和夫(チューリップ)、ミッキー吉野(ゴダイゴ)、桑田佳祐(サザンオールスターズ)だが、とりわけミッキー吉野とゴダイゴ評価が高く、79年は「ミッキー吉野の1年」だったとまで書かれている。


 ゴダイゴというのは日本のポピュラー音楽史にとって難しい存在で、根強い「はっぴいえんど史観」では英語詞を主体とするバンドということもあり黙殺される。じゃあアンチはっぴいえんど史観でなら評価されるのかというとそんなこともない。テレビドラマ『西遊記』の主題歌「モンキー・マジック」やアニメ『銀河鉄道999』の同題主題歌など70年代の終わりにいくつものビッグヒットを飛ばしながら、80年代に入ると急激に人気を失い85年に解散してしまうこのバンドは、どう歴史を描いても収まりの悪い存在なのだ。


 だが1979年という1年間に限定すれば、ゴダイゴおよびミッキー吉野が人気の面でも音楽の質の面でも頂点にあった時期だから、おのずとフィーチャーされてくる。ゴダイゴに位置づけを与えたことは本書手法の大きな成果の一つである。


 一方で、著者が「ザ・79年サウンド」の最高傑作と推すのはオフコース「さよなら」だったりする。「フォークと荒井由実、S&G、イーグルス、クイーンのおいしいとこだけを編集したような」「売れないわけがない音だった」と書きながら、「日本初の『ヘッドフォン音楽』」だったからこそヒットしたのだという独特の評価を加味しているのが面白い。ウォークマンが発売されたのは79年7月、「さよなら」の発売は12月だ。


「小田和正の細い声で歌われる、繊細で軟弱な男子のモノローグは、79年の時代空気の中では、大きなコンポのステレオから聴くのはちょっと気恥ずかしく、ヘッドフォンを付けてパーソナルに聴くべきものだったと思う。


 そんな、ちょっと面倒くさい取り扱い方を強いるこの曲が売れたということは、繊細で軟弱な男子のモノローグに対する潜在需要が、当時の若い男女の中に大きく存在したということだし、さらには、ウォークマンがそういう潜在需要を顕在化したということだろう」


 この時代の「音楽の洗練」というと、洋楽にいかに接近したか、内面化したかで測られがちだが、著者の「ザ・79年サウンド」は「和洋折衷」を前提としているだけに、そうした基準から外れているのも個性的なところだ。チューリップ「虹とスニーカーの頃」は「ビートルズはおろか、どこかの洋楽に原典がある感じがしない、『チューリップ・オリジナル』な音」だから良いとされ、サザンオールスターズ「C調言葉に御用心」は「デビュー2年目にして、〔チューリップと同じ〕その境地にたどり着いていること」が驚きをもって評価される。


・行き過ぎたメタ化と1979年の歌謡曲の終焉


「(7)音楽のメタ化、ポストモダン化」にはいくつかの側面があるが、ミニコラムで特に検討され「意味の呪縛」からの解放であると論じられているサザンの歌詞なども(著者はそうとははっきり書いていないが)その一例だろう。デビュー曲の「勝手にシンドバッド」というタイトルは、その前年にヒットした曲のタイトル二つ――沢田研二「勝手にしやがれ」とピンク・レディー「渚のシンドバッド」――を適当にくっつけただけのブリコラージュ的な代物で、そもそもから「意味の呪縛」からの逃避を志向したバンドであった。桑田自身、歌詞の意味を考えすぎる風潮に対する反発もあったかもという趣旨のことをエッセイ『ただの歌詞じゃねえか、こんなもん』で述べていた。


「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」はともに阿久悠の作詞だったが、奇しくもこのあたりから阿久の天下に影が差し始め、松本隆に覇権が移っていくことになる(「(5)作詞における新旧の交代」および「(6)ピンク・レディーの凋落」)。松本以外にも三浦徳子や竜真知子といった新世代が台頭してきて、詞の面から「ザ・79年サウンド」を支えるようになっていった。


 時代からズレ始めた阿久は、八代亜紀「舟唄」など極度に古臭い歌詞を書くようになるのだが、著者はこの「舟唄」を阿久の「ポストモダン路線の出発点にして、到達点」であると評価する。この「古臭さ」には「意図的」なものが感じられ「マーケティングの臭いがする」というのだ。この「ポストモダン」の用い方、ちょっと違和感がないではないが、「モダニズム=新しさの追求」のポストという意味で使っているのだろう。


 メタ化にはもう一つ高い位相を含んだケースもあった。象徴的なのは岸田智史「きみの朝」で、この曲は「(4)CMやドラマのタイアップによるニューミュージックの産業化」の最終形もしくは末期型とでもいうべきサンプルである。


「きみの朝」は、十朱幸代が主演したドラマ『愛と喝采と』の挿入歌としてヒットしたが、岸田も役者として出演していた。岸田の役所は、大手芸能プロダクションに反発する武井吾郎という新人歌手である。だが「テレビドラマというジャンルは芸能ビジネスの象徴のようなコンテンツ」であり、芸能ビジネスの象徴が芸能ビジネスの矛盾と苦悶を描いたこのドラマはさながら自己言及パラドックスじみていた。そんなドラマの中で武井の持ち歌として歌われたこの曲が現実にもヒットしたという事実は「複層的アイロニー」に取り巻かれた出来事だったと著者は指摘する。


 ニューミュージックの人たちには、吉田拓郎をルーツとする「テレビに出ない」ことがマスメディアに対する抵抗であるという美学が79年という末期に至っても共有されており、甲斐バンドがCMに出演したことや、松山千春が『ザ・ベストテン』に登場したこと、矢沢永吉がCMソングを歌ったことなどを事件のように受け止める意識が視聴者にもあった。


 だが、ニューミュージックをチャートに引き上げていたのは、CMやドラマとのタイアップ、つまり芸能ビジネスの仕組みそのものに他ならず、「テレビに出ない」ということを除いてすでに彼らは芸能界に吸収されていた。「テレビに出ない」というパフォーマンス自体が新たなプロモーション手法としてマスメディアに活用されていた節さえあった。


 岸田智史の「きみの歌」が「複層的アイロニー」に彩られていたというのは、こうした見えないところで錯綜していた背景をさらにもう一捻り引っ繰り返し、売り物としてテレビに晒す(それもドラマとして)ことで成立していた曲だったからだ。


 しかしここで採られたメタ手法は、その先がない劇薬である。「きみの朝」について当時は「サビの歌詞が<モーニング、モーニング>かよ。メロディも継ぎ接ぎみたいでチグハグだしヘンな曲だなあ。なんでこんなのが売れるんだろう」くらいにしか思っていなかったのだが、あるいはこの曲が1979年の歌謡曲にとどめを刺した1曲だったのかもしれない。


 ……と内容を軽くさらっただけなのにここまでで400字詰め10枚以上になってしまった。余裕で1冊書けたかもなあと悔しさが新たになってきたので、このあたりで終わりしたい(笑)。


 著者の次作予定は『1984年の歌謡曲』だそうだ。いわれてみれば以前以後に境界を引いたような年である。いいところに目を付けるものだ。楽しみに待ちたい。(栗原裕一郎)