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嵐とはどういう存在か? 明治大学名物講師が“PVにおける四つの手法”から分析

2016年01月01日 15:01  リアルサウンド

リアルサウンド

関修著『「嵐」的、あまりに「嵐」的な』(サイゾー)

 明治大学法学部で、嵐を題材にした講義を行っている講師の関修氏が、自身二作目となる書籍『「嵐」的、あまりに「嵐」的な』を先頃上梓した。同氏は、前作『隣の嵐くん : カリスマなき時代の偶像(アイドル)』で嵐のメンバーの関係性やグループとしてのあり方を、現代思想や精神分析学といった学識とひも付けて分析。本著は、彼らのPV(MV)に着眼し、さらに詳細な分析を行ったものとなっている。リアルサウンドでは著者・関修氏へのインタビューを行い、本著の軸となる「truth」以降の映像に共通する“四つの手法”を中心に語っていただいた。(編集部)


■『嵐とはどういう存在なのか』批評する方法論を見出したい


――まず、ご自身の執筆のスタンスとして、嵐の裏話を暴露するような本とも、哲学や現代思想の哲学の入門書とも異なると書かれておりましたが、そのあたりについて改めておうかがいできますか。


関:1冊目の『隣の嵐くん』の時は、初めて書いた本ということもあり、「嵐とはどういう存在か」ということを中心に書きました。手に入れた資料からの情報とオリジナルのメンバー5人の性格分析という構成だったので、ファンの方々からすると、すでに知っている情報も多かったと思います。ただ、私は芸能ライターではないので、世に出ていない情報を書きたいのではなく、既存の情報から「嵐とはどういう存在なのか」批評する方法論を見出したいのです。なので今回は、誰でも手に入れられるPVをどう解釈するかということだけに的を絞りました。対象をPVに絞ったのは、他のアイドルや芸能人を批評する時にも使える手法であり、今まで出ているタレント本とは違う点をより鮮明に出したいという狙いからです。我々が目にすることができる「嵐」とはどういう存在で、なぜ人々は好み惹かれるのかをPVに絞って分析し、「嵐」的なものを抽出しました。


――批評する上で、具体的にどのような手法が用いられたのでしょうか。


関:「truth」以降人気が出るようになったPVを「truth」と同じ方法論の系譜と、それ以外の系譜の比較として1章と2章で示しました。それらでは嵐のPV自体を比較し、3章では他のグループと比較、PVに限らない嵐としての独自性を示し、これもまた「嵐」的なものとして提示しています。最後の章は、PVという視覚的な分析に加え、嵐のメンバーそれぞれのコメントの違いにも「嵐」的なものがあるのでは、という見立てで進めました。前作でも、嵐を言語的に表現しているのは、相葉雅紀さんと櫻井翔さんだと書きました。それを実際に証明するために、具体的な発言を例として挙げ、分析したのが第4章です。このように、今までの嵐の本とは異なるスタンスで、しかし、狙っているところは共通すると思っています。


――批評性は、前作より強くなったと思います。


関:そうですね。ただアイドルを応援するのもいいですが、「批評」が定着していかないといけないと思っていて。日本人はもともと批評があまり上手ではないので、何かを語るとき、広告塔のようになってしまう。それは、アイドルに対してだけではなく、全般的な風土としてある気がしていて。嵐はこれだけ人気を得ているアイドルだからこそ、批評の俎上に載せて、改めて彼らを捉え直す必要があるのではないかと個人的に思っているんです。


――身近なPVを批評し、一つの解釈を提示するというのは非常に明快なスタンスかと思います。嵐論としても、より実践的なところに近づいたという感じでしょうか。


関:2冊目を最終的に書こうと思った時、PVに対して緻密に、秩序立てて書くことが必要だと思いました。1冊目で「嵐」という全体像をどう捉えるかを示し、今回さらに突き詰めたことで、注目すべき点がより鮮明になったと思います。しかし、それらは全て私自身の解釈であって、これが絶対というものではない。逆に私はこう解釈する、といった意見が出てくるのがまさに批評であって、意見を戦わせることで議論が沸騰することが「嵐」という見方を多様にし、豊かなものにするんじゃないかと思うんです。


■「必要最小限で表現していくということが、嵐の魅力」


――第1章では前作と同様、2008年に発表された「truth」で、現在の嵐が確立されたと指摘しています。関さんがこの楽曲の分析から見出した“四つの手法”について、改めて教えていただけますか。


関:今回は「truth」が転回点という指摘をもっと具体的に実証するために、PVから読み取って示しました。具体的には、系譜を辿っていくと「truth」以前にはない4つのポイントがあります。1つめは、5人が一緒になって踊るという「踊る嵐」の発想。ポジションを変えつつ、平等にセンターが来るように踊りが構成されています。2つめはPVにおける平等性として、各メンバーが歌うシーン。一人一人がなるべく平等に映るように割り振って、シーンを使っているということです。この2つは楽曲のPVにおいて必要なことですが、3つめと4つめはそれとは違っていて、直接楽曲に関係ないものなんです。3つめは、「フラッシュ的な各メンバーの肖像」としていますが、歌は続いているのに俯いた姿など、なぜかそういったショットが突然出てくることを指しています。これは歌のイメージを広げる手法です。


――フラッシュ的な映像を意味深に差し込むことによって、鑑賞者に解釈の余地を与える手法ということでしょうか。


関:はい、そうですね。そして最後に、背景や静物。PVですから当然画面があって、そこに「図と地」(ある物が他の物を背景として全体の中から浮き上がって明瞭に知覚されるとき、前者を図といい、背景に退く物を地とする)の関係性が必ずセットになっています。嵐が図になっていて、地がある。その地の部分に何が出てくるのか、ということが重要ではないかと考えました。象徴的に植物が登場するようになるのですが、「truth」ではユリの花が映し出されています。曲によってはオブジェになったりもしますが、そういったものが嵐の象徴として必ず置かれるようになりました。この4つをポイントとして、それが当てはまるPVはどれかということを系譜として見ていきました。


――第2章からは、いよいよそのポイントを抑えた作品をピックアップしていますね。


関:「Believe」から始まる一連の作品、「Crazy moon~キミはムテキ~」「Monster」「Lotus」「Breathless」「誰も知らない」など、だいたい5作に1回位のペースで「truth」の手法を取り入れたPVが出てきます。今挙げた曲は、先ほど提示した四つの手法を全て使っています。これらを検証していくと「Believe」のポイントは、全てのシーンで踊るというより、メイン部分で「踊る嵐」が描かれているということです。あとは服装ーーこのあたりから彼らは黒っぽい服になるんですね。「Lotus」では白になりますけど、基本的には色ものが出てこない世界というか。


――このあたりから、すごくシックなイメージになりますよね。


関:そうなんです。そして誰かが必ず、踊るにも関わらずジャケットを着たりする。初めのシーンで着ていないのに、サビの踊るシーンでは着ていたり。「Crazy moon」は意外性のある作品ですが、「踊る嵐」としては1番合っているかなと。櫻井さんは以前、嵐の楽曲の中で最も踊っているのは「Monster」と発言していたことがあります。櫻井さんの認識の中でも「Crazy moon」は踊っているが、嵐の主流の作品ではないという意識があるようです。また、この曲は倉庫のような空間で撮影し、いわゆる嵐を象徴するようなものに重きを置いていません。いわば「踊る嵐」を堪能するだけのPVとなっているのです。ラフな格好で、相葉さんはスウェットみたいなものを着て踊っています。嵐を表現するというよりは、嵐はこのくらい踊れますよ、という部分を見せるための作品なのではないかと。PVの後にメイキングが入っていて、「truth」の際の失敗を踏まえて、櫻井さんと相葉さんが自分たちはしっかり予習してきたというくだりがあるなど、これからの系譜を見ていくための伏線が含まれている作品です。


――確かに暗示的な作品ですよね。


関:「Monster」は櫻井さんが言うように、「truth」以降ぶりのダンスナンバー。非常にドラマチックですし、好きな方も多いと思います。黒に金が入ったようなきらびやかな服装で踊っています。しかし、「嵐」の「嵐」たる由縁というものは、マイナスの美学だと思っていて。日本の伝統的な美術でもそうなんですが、無駄なものを省くわけです。その中で凝縮された本質が、日本的美意識の一つでもあるのですが、嵐も同じで無駄なものを排除していき、嵐として必要なものだけをギュッと詰め込んで表現していくのが方法論であるような気がします。服装もモノトーンチックになってきている。私は、必要最小限で表現していくということが、嵐の魅力ではないかと解釈したのです。そうすると「Monster」だけが、若干逆を行っている気がします。「嵐」的な表現よりも、「Monster」的な表現が強すぎるというか。


――編集部で編集した書籍『嵐はなぜ史上最強のエンタメ集団になったか』で、「Monster」の楽曲分析を行った際にも、みなさんがこの曲を「謎だ」とおっしゃっていたんですよね。これまでのアメリカのポップミュージックを取り込んだものではなく、独特の劇伴的な世界観を作り出していて、これは何なんだろう、とみんな不思議に思っていて。


関:そうですね。近代建築のようなモダンな要素を、私は「嵐」的だと思うので、そこからは外れていると考えます。また「Lotus」は個人的に好きな曲でしたが、PV的に好きになれなくて。本来黒と白はコントラストとして必要なものですが、全体的に白くなりすぎてしまっています。楽曲としては、すごくクオリティが高いものだと思いますが、PVを見た時に曲のクオリティが削がれているのでは、と感じました。


――おっしゃっていることは分かる気がします。楽曲イメージに対して、ピュアを連想させる白は、少しミスマッチです。


関:曲自体はすごくタイトな感じなのに、PVのイメージがあまり合っていないかなと。そういった点を加味したとき「Breathless」は、ファンの支持はそれほど高くない作品ではあるのですが、今までの中で一番仕上がりが良い作品であると思います。よく踊っているし、曲とPVのイメージがまとまっています。青いシーンでの各自の寂寞とした表情と、ガンガン踊っているシーンとの対比がよく出来ていますし、私が指摘した四つの手法全てを十分に生かし切った作品ではないかと評価しました。その背景には、K-POPの流行があったのではないかと見ています。しっかり踊ってしっかり歌うということが、K-POPのスタイルで、その影響はあるんじゃないかと。ダンスをしても劣らない、歌っても劣らないというところをプレゼンテーションしていく必要があったのではと思います。たぶん「Lotus」から「Breathless」あたりがいろんなことを模索した時期で、「truth」の路線をさらに深化させ、完成に至ったのが「Breathless」ではないかと。


■「『踊る嵐』から移行しようとしているのでは」


――嵐も15周年を過ぎて、かなり変わってきましたよね。これまでとは全然違う切り口になってきていて、「こう来たか」と思うことが多くなりました。


関:恐らく「踊る嵐」から移行しようとしているのでは。ただ、まだ結論は見えてきていないと思います。そこで今回「Zero-G」以降もきちんと追ってみようと思って書いたわけです。「Zero-G」はアルバム『THE DIGITALIAN』のリード曲で、アルバムタイトルは「DIGITAL」と「VEGETARIAN」という自然の単語を組み合わせて出来ています。つまり、自然と人工の融合がテーマとしてあるわけで、実は「Your Eyes」の頃と変わっていないんです。「Your Eyes」の時、嵐は自然の方にぐっと寄っていったんですけど、この作品ではデジタルの方に巻き返して、でもいくらデジタル化してもデジタル化しきれない部分というものを表現したものだと思っています。だからあやとりのシーンがあるんですよ。デジタルによって、つながっていくことはつながっていくけれども、最終的にそれをつながりとして維持していくためには人と人とのふれあいが無ければ無理なんだということを表現したかったのではないかと。みんなで楽しめる、デジタル的なインフォメーションではなく、実際に触れ合って分かち合えるようなものとして提示されたのが「Zero-G」ダンスなのではないかと思うんです。それまでは「嵐」を表現する為のダンスだったのだけど、これはみんなと踊れるダンスということを言いたかった気がします。


――「Sakura」はどうでしょうか。


関:「Sakura」はまた新しい試みで、生田斗真さんと小栗旬さんのドラマ『ウロボロス』主題歌で、実は自分たちのドラマ以外で主題歌を歌ったのはこれが初めて。嵐の楽曲として発表しますが、このPVは明らかにドラマイメージを反映させなければいけなかったということです。映像に映し出される椅子の数が2つなのは、明らかに生田さんと小栗さんを指しているように思います。そういうことをイメージさせるのと同時に、嵐としての表現をどのようにしなければいけないのか、ということを考えていった作品であると思います。その折り合いをどのようにつけるかということで、最終的に「Lotus」でも出てきた桜をモチーフにしているのでは。嵐としての在り方と、ドラマの世界観を同時に提示した例だと思います。


――これも大きな転回点ですよね。


関:今まではメンバーの誰かのドラマ主題歌を歌ってたわけですからね。初めにドラマの主人公のメンバーが真ん中にいて、最後にまたドラマの主人公が真ん中にきて終わるというルールがあったんですよ。「Sakura」はそれに当てはまらない作品でしたので、楽曲を提供しているドラマと嵐の楽曲がどのような関係しているのかということを表現しつつ、あくまでもドラマの世界をどういう風に表現するかという、二重の構造を提示しなければいけないというのが、この作品の大きな課題でした。


――アーティストとしての位置づけも変化した作品ですよね。


関:たしかにメイキングで、アーティストとしての位置づけについても語ってましたね。


――実際にこの頃から嵐は、Hey! Say! JUMPと共演してみたり、V6のコンサートでバックダンサーとして共演してみたり、他のグループとの関わりが目立つようになりました。


関:そうですね。まさに「Zero-G」じゃないですけど、15周年で嵐としての形が完成したのかもしれません。それを今度はどうやって広げていくかってところでしょうか。そしていろんなグループと共演してどうコンビネーションしていくのかということも考えているんだと思います。


――一方で、最近の嵐は、方向性を模索しているように感じることがあります。


関:少し私も気になっていたんですけど、一つ間違えると大衆に迎合して人気をあおる体制になってしまう気がしていて。背負っているものが大きいのも分かるんですが……。私がなぜ「誰も知らない」あたりまでにフォーカスするかと言うと、あくまでも「嵐」というものを表現していると感じたからです。そこまでは、ファンの顔色を窺ったり、大衆的なものにどうやって訴えかけるかということを無視しているんですよ。「嵐」はこうなんです、とその世界観をどうやって表現するのかということだけを突き詰めた方が、それを見た人は感動して、共感しますよね。嵐の方から、みなさんとどうお付き合いしたいとか、どのように関わり合いたいということをあまり表現する必要性はないのではないかと、個人的に思います。その舵取りをどうするかが、これからの嵐の課題となるのではないでしょうか。