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宮台真司の『アレノ』『起終点駅 ターミナル』評: 潜在的第三者についての敏感さが失われている

2015年12月26日 19:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015桜木紫乃・小学館/「起終点駅 ターミナル」製作委員会

■二者関係は潜在的三者関係である


 前編では橋口亮輔監督の『恋人たち』を取り上げ、「ナンパ師視点」という特徴を挙げました。これに関連して、映画が特に性愛関係を描く際、説得的なものになるケースと、そうでないケースとを岐ける、最も重要なポイントの一つをお話しします。ちなみにそこでは脚本家や演出家(映画監督)の「人間の関係性に対する理解」が問われます。


参考:宮台真司の『恋人たち』評:〈世界〉を触知することで、主人公と観客が救われる傑作


 人間の二者関係は、潜在的な三者関係です。その理解が演出に表れているかどうかが、多くの映画にとって重大です。戦間期に活動した社会学者G・H・ミード(1863~1931)に従えば、潜在的な三者関係とは主我・客我・他我です。他我は「そこにいる他者」。客我は「そこにいない他者(たち)の反応の中に結ぶ像」。主我は「私としての私の反応」。


 私が、他我alter ego=「そこにいる他者」に向けて、何か行動したとしましょう。それが何を意味するかは、客我Me=そこにいない他者(たち)の反応の中に結ぶ像として、与えられます。その像を前提として、主我I=「私としての私」の反応とそれに基づく行動が後続します。ちなみに、この段落の冒頭に言う「私」は、主我Iに相当しています。


 ミードによれば、私の行動が何を意味するかという理解は、「私としての私」ではない「不在の他者の視座」からなされるしかありません。「不在の他者の視座」=「そこにいない他者の反応」を取得する営みをミードは役割取得role takingと呼びます。彼に従えば、役割取得は生得のものではなく、幼児期からのゴッコ遊びを通して習得されるものです。


 幼児は、ママゴトで母親が見る世界を取得し、泥棒ゴッコで泥棒が見る世界を取得します。当初はこうして個別役割を一つずつ取得しますが、やがて他者一般generalized others の役割取得ーーヒトは一般に世界をこう見るという理解ーーに到ります。こうして、自分の行動が他者一般の視座からどう見えるのかを理解するようになるのです。


 ミードの主著『精神・自我・社会』(原著1934年)に従えば、客我Meは普通、他者一般の反応の取得によって与えられる像visionを意味します。でも、それができるようになる過程でのゴッコ遊びの段階では、客我Meは、想像された「不在の」父や母の、或いは想像された「不在の」警官や泥棒の、反応における像であるほかないのです。


 そのことを踏まえて改めて確認するなら、主我Iは「私としての私」に、客我Meは「そこにいない他者」に、他我alter egoは「そこにいる他者」に関わります。ティーポットが二脚ではなく三脚あって初めて安定するように、人間関係も純然たる二者関係ではなく、「潜在的他者」を想像した「潜在的三者関係」として初めて安定するものだということです。


■他者の欲望が自己に転写する機制


 誰もが二者関係を大なり小なり「潜在的三者関係」として生きているという指摘で思い出すことがあります。僕は22歳のときに3年間付き合った女との初恋に破れ、「もっといい女」を求める営みにハマります。1990年代前半に数多くのナンパ師たちを取材したが、とりわけ高偏差値系ナンパ師についていえば、当時はよくある出発点でした。


 僕はどんな女とつきあっていても絶えず「自分を振った女の気配」を感じました。そんな女で手を打っちゃうの? ーー脳裏に聞こえるそんな囁きが僕を次の女に駆り立てました。でも、自分を振った女の記憶が薄れるにつれて、いい女探しは単なるオートメーションへと頽落して、僕は感情が動かないナンパマシーンになり下がってしまいました。


 ちなみに、失恋の埋め合わせで「もっといい女」を探す場合、自分を振った女が理想化されているので、そんな女が現れる可能性はありません。性愛系ワークショップで「構造的な失敗」の一例として繰り返し述べてきたし、皆さんも先刻御存じの通りです。「女への復讐」というクソ意識を含めて、ナンパ界隈では本当によくある話です。


 最近は「NTR(寝とり、寝取られ)」がブームだから敢えて話すと、夫婦関係や恋愛関係に第三者を混ぜ込むのも、同じ意味での工夫です。純然たる二者関係はルーティン化して既知性の枠内に絡め取られがちです。そこに第三者が入ると、第三者が恋人に感じた欲望を自分に転写することで、自分の欲望を多様なバリエーションに展開できます。


 つまり、あの男・この男・その男が見るように自分のパートナーを見ることでーー他者たちに映じたパートナーのvisionを自分に転送することでーー彼らが欲情するようにパートナーに対して欲情できます。体育会系のホモソーシャリティにまみれる機会が豊かなら、性愛に限らずそうした営みの現実性を理解できるので、年長世代に有利ですね。


 フロイトの古典的な理解に遡れば、動物にあるのは性愛の本能。人間にあるのは性愛の衝動。本能的欲望には生得の型がありますが、衝動的欲望は本来は無定型です。これが型を持つようになるのは、父の命令によって去勢を受け入れることでーーラカン的には言語活動の場に強制的に引きずり出されることでーー型を受容するからだとされます。


 あえて言えば、欲望の発露が、父親によって「常に見られている」という感覚ですね。フロイト自身はそうした表現をしていませんが、「全ての二者関係が潜在的第三者を含んだ潜在的三者関係としてある」とするミードの理解は、実際にはフロイトの古典的な着想を前提にしたもので、ミード自身も「客我Meとは検閲官だ」と明言しています。


 フロイト=ミード的発想のリアリティは、性愛を持ち出せば分かりやすい。第三者に見られている感覚に襲われると、ソレを検閲官だと感じることで、極端に萎縮してヘタレたり、逆に敢えて衒示的になって高揚したり。そんな経験が誰にもあるはずです。性的欲望の無定型さを背景に、第三者を孕んで欲望がリセット・リニュアルされるのです。


■第三者の気配を逃した『アレノ』


 そんなことを考える機会を与えてくれる、性愛関係がモチーフになった新作があります。エミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』を原作に翻案した『アレノ』(11月21日公開)と、桜木紫乃の同名小説を原作とした『起終点駅 ターミナル』(11月7日公開)です。結論から言うと、僕は、前者には否定的で、後者には肯定的な印象を抱きます。


 『アレノ』は夫と妻とその愛人からなる三者関係が描きます。三人は原作と違って幼なじみですが、妻と愛人が情欲の虜となり、船遊び中の転覆を装って夫の殺害を企てるが、死体があがらない。不安と罪の意識で夫が亡霊のように蘇り、二人の日常を破壊していく――という話になっています。この物語の根幹も、原作と根本的に違っています。


 旧知の映画プロデューサー越川道夫さんが監督デビュー作でこの原作を選んだのは慧眼ですが、原作を読み込めていない。原作では、死体が見付かって事件が一件落着した後、晴れて妻と愛人が結婚してみると、なぜか熱情が覚めていて、絶えず何かに脅かされるようになる。でも、罪の意識によるものではないーーそこがゾラのチャレンジです。


 ところが映画では、犯罪の露呈への恐れと、それに伴う罪意識が、妻と愛人を脅かします。罪意識ゆえに、夫の亡霊が出現します。こうした設定は原作の世界観を毀損しているでしょう。原作では、妻と愛人の二者関係は、夫も含めた潜在的三者関係という安定性をベースにしており、その上に愛や情欲が生じているという設定になっています。


 だからこそ夫殺し直前の段階では二人が盛り上がるのですが、実際に殺してしまうと、二者関係の基盤にあった潜在的三者関係が崩れ、二人の関係性が突如として無定形な、名状しがたいものに変質する。その変質をもたらす「不在」が「幽霊」という比喩で表現されます。罪の意識の表れとして亡霊が出てくるというのは、時代錯誤の勘違いです。
 
 その点、妻役(山田真歩)の演技にも疑問符が付く。夫の気配が感じられたから愛人への激しい情欲が生じていたのであり、殺害した後に苦しむのも罪の意識からではなく、夫の気配が消えたからです。映画には夫の幽霊が出てくる頻度が高いけど、彼女が仰天しないのは論理的に気配が問題だからに決まってる。なのにそれが演技で示されません。
 
 なぜ仰天しないのかを、役者と監督が議論して、潜在的三者関係についての理解に到るべきでした。そうした演出や演技がないので、長尺の性交描写も陰惨です。『うつせみ』(2006年日本公開)で潜在的三者関係を見事に描いたキム・ギドクや、性交は恥ずかしいという意識のある黒沢清監督が描いたら、どうだったか、と考えてしまいました。
 
 本作に限らず、ベッドシーンについては、今はインターネットで過激なアダルト映像に簡単に見られる時代なので、演出目標をしっかり立てなければいけません。本作で言うならば「気配」の演出です。魅力的な原作なのに惜しく感じます。原作にない幼馴染みという設定なのだから、「気配」を演出するとっかかりが山のようにあったはずです。
 
 何より「夫がいなくなれば愛人も輝きを失う」という事実とその理由が描かれなければなりません。人間関係に対する深い洞察があれば、原作の大きな魅力を活かせるはず。この映画だと、夫が幽霊として何度も出てくるので、罪の意識がなせるワザというだけならまだしも、「往生際の悪いシツコイ男だな」という印象にさえなってしまいます。


■潜在的第三者の映画『起終点駅 ターミナル』


 『起終点駅 ターミナル』は、脚本が原作と相当違うけど、それが良かった。旭川で判事として働く鷲田完治(佐藤浩市)の下に、薬物売買の被告人として学園闘争時代の恋人・結城冴子(尾野真千子)が現れます。それを機に妻子ある完治にとっての不倫関係に入るが、東京高裁への栄転で二人が電車に乗るというとき、女が飛び込み自殺します。


 25年が経ち、男は人間関係を絶ち、釧路で国選弁護人としてひっそり生活します。自分自身を懲役刑に処したかのように生きる中、薬物所持の被告人として若い椎名敦子(本田翼)と出会い、ある種の回復を遂げます。冴子がかつて完治を振ったときに残した「戦え、鷲田完治!」の言葉がキーワードですが、「戦う男」になって終わるハッピーエンドです。


 この脚本も潜在的第三者をモチーフにします。学園闘争時代の完治にとって恋人だった冴子は、完治が何をする場合でも潜在的第三者として機能していました。その冴子が蒸発して潜在的第三者が失われたことで、完治は動機付けを失います。そうなることを見通していたかのように、冴子は「戦え、鷲田完治!」の言葉を手紙に残して蒸発します。
 
 以降は死んだように生きていた男が、25年ぶりに旧恋人と再会して再び恋に落ちることで、かつての潜在的第三者を再獲得し、東京高裁判事として再起動しようとします。ところが、皮肉なことに、そのことが女が自殺した理由に関わります。彼にとって意味があるのは潜在的第三者としての“元恋人”であって、現実の恋人ではなかったからです。
 
 女にとっては当然そんなことは知ったこっちゃない。「自分自身をどう見てくれているか」だけが重要なのです。しかし、この映画にも演出上の問題があります。冴子の自殺が何だったかを反省するパートを欠いたまま話が転がっていくので、大半の観客は、「なぜ彼女が自殺したのか」という謎を抱え続けることなく、ラストを迎えてしまいます。
 
 篠原監督が「全ての二者関係は潜在的三者関係としてある」という定理を自覚していたら、完治が「戦う」のは冴子が潜在的第三者として機能する場合だけである事実に注目し、完治に安定と積極性を与える潜在的第三者としての冴子と、現実の冴子との間に落差があるからこそ、完治を置いて冴子が自殺したのだ、と観客を納得させられたでしょう。
 
 補足します。社会システム理論の視座から言えば、「見る人」がいないとちゃんとできない成員が大半の社会は複雑になれません。特定の対人関係が要求され、コミュニケーションの文脈が制約されるからです。だから部族段階から文明段階に複雑化した社会は、「見る神」の表象を持ちます。代表的なのはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神です。
 
 これらは同一神ですが、それに限られません。日本で「お天道様が見ている」「ご先祖様が見ている」という際も「見る神」を持ち出しています。前教皇ベネディクト16世が、キリスト教の唯一神の本質は「見る神」で、罰や報償を与える神ではないと言います。罰や報償に関係なく、「見る人」やそれがいない場合は「見る神」がいれば人はシャンとします。
 
 ところが、キリスト教文化圏の西欧では、「見る神」が働かなくなる世俗化と入れ替わりに、「見る自分」が働く主体化(に向けた規律訓練)が進みます。というとフーコーの議論が有名ですが、古くはウェーバーが打ち立てた図式です。見られた自分Meに他ならぬ自分自身Iが反応するというミードの図式も、フーコーにはるかに先立っています。
 
 「見る人」から「見る神」を経て「見る自分」へ、という文脈自由化の図式は専ら西欧近代の理念型(極端化した図式)です。ミードを紹介してお話ししたように、そこにいる「見る人」=顕在的第三者から、そこにいない「見る人」=潜在的第三者へ、というステップが最もありふれている。潜在的第三者が「見て」いるのでシャンとするとはそういう意味です。


 さて映画に話を戻すと、自らを懲役刑に処したかのように釧路で生活する男にしては、佐藤浩市に色気があり過ぎる、つまりバイタル感が強いことが、違和感を感じさせます。彼が沈潜した釧路の“風景”が、もう少し説得的に描かれれば、印象も違ったかもしれない。人間の心の状態は風景として表れ、風景がその人間に浸透して心を形作るからです。


 佐藤浩市に色気がある所に本田翼がミニスカ姿で登場するので、観客は「歳の差恋愛」を予感させられて、それゆえ、男が自分次第では歳の差恋愛に持っていけるのに“殊勝にも”ロリコン疑惑を回避した、という風に見えるのも問題。25年前の冴子と現在の敦子(本田翼)が共通して薬物所有の被告人として完治に出会うという反復が活かされません。
 
 こうした反復は「試練として」演出される必要があります。同じ失敗を繰り返すか否かという試練です。完治は、一度目は、自分には潜在的第三者が必要である事実や、再開した元恋人を潜在的第三者として見立てた事実に、無自覚だった。二度目は、「再び」出現した薬物所持の若い女を前にして、彼はこうした事実を自覚できるようになったーー。
 
 だからこそ完治は、敦子(本田翼)が「戦え、鷲田完治!」と呼び掛けるトリガーとしての潜在的第三者だと気づきながらも、全ては自らの心が惹起している展開に過ぎないので、かつて冴子を巻き込んだのとは違って、敦子を巻き込まないように抑制したーーといった構成にしなければならないはずです。一度目と二度目の間で、完治が成長した訳です。


 そうであって初めて、目の前に「再び」薬物中毒の女が現れたーー最初は冴子が現れて二度目は敦子が現れたーー意味を、観客に納得させらます。さもないと単に土曜ワイド劇場/火曜サスペンス的な「不思議なこともあるものだ」的なエピソードになってしまい、前編で解説したアレゴリー(寓意)ーー潜在的第三者を巡るソレーーになりません。


 僕の映画批評が目標とする「実存批評」の観点からすれば、『起終点駅』の脚本には潜在的第三者というポジションへの理解を前提として初めて得られる深さがあるのに、演出がそこを掘れていない。『アレノ』の原作(ゾラ『テレーズ・ラカン』)もそう。潜在的第三者を前提とした深さがあるのに、『アレノ』の脚本と演出もそこを掘れていない。


 今回は、敢えて『アレノ』『起終点駅」両作のダメな部分を取り上げました。ダメな部分は、技術的問題を超えた構造的理由ーー潜在的第三者への無視ーーに基いていて、それを指摘することが万人にとって教訓になると考えたからです。潜在的第三者を無視する間違いは、人間関係を描く上で「倫理的に」許されないだろう、とさえ思っています。(宮台真司)