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クリスマス公開中の恋愛映画、『きみといた2日間』と『COMET/コメット』を観る

2015年12月24日 19:31  リアルサウンド

リアルサウンド

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  クリスマスに観るのが適切かどうかはさておき、世の中には男女が延々と会話し続けるだけという類の映画が存在します。かつてはフランス映画のお家芸だった男女の会話劇。主な議題は、もちろん「愛(ラブ)」です。しかし、その手の映画の中心地は、リチャード・リンクレーター監督の『恋人までの距離(ディスタンス)』(1995年)以降、徐々にアメリカへと移ってきたように思うのです。


参考:http://realsound.jp/movie/2015/11/post-426.html


 ヨーロッパの長距離列車の中で偶然出会った男女が意気投合し、おしゃべりしながらウィーンの街を歩き回るだけ、という『恋人までの距離(ディスタンス)』。しかし、これが滅法面白かった。初対面の男女が、どんなことを話しながら、互いの「距離」を縮めたり、あるいは離したりするのかを延々眺め続けるのは、なかなかどうして意外と面白いものです。なんか勉強になるし。というか、「脚本」の本質的な面白さって、プロットではなく、そんな細部にあるのではないでしょうか。もちろん、その後、本作の邦題が、原題に忠実な『ビフォア・サンライズ』に変更され、その9年後に同監督、同キャストによる『ビフォア・サンセット』(2004年)が、さらにその9年後に『ビフォア・ミッドナイト』(2013年)が作られるなんて、当時は夢にも思っていなかったけれど。


 ということで、本稿では、クリスマス対策として、そんな「ひと組の男女の会話劇」の流れを汲むと思われる、現在日本公開中のアメリカ映画を2本、ご紹介したいと思います。まず一本目は、ニューヨークを舞台とした映画『きみといた2日間』。なんとなくロマンチックな感じのする邦題がつけられた本作ですが、その内容は原題の“Two Night Stand”がストレートに表しているように、いわゆる「ワンナイトスタンド(一夜限りの情事)」ならぬ「二夜限りの情事」を描いた作品です。映画を観終えた今となっては、「“ネット恋活”から始まるこの冬いちばんのラブストーリー」というキャッチ・コピーに、やや首を傾けたくなる気分がないわけではないですが、まあ間違ってはいないか。ちなみに監督は、『卒業』(1968年)などで知られる名匠マイク・ニコルズの息子であるマックス・ニコルズ。本作が長編初監督作となるようです。


  恋も仕事もうまくいかず、ルームメイトとの関係もギクシャクしているメーガン(アナリー・ティプトン)は、半ば自棄になってパートナー探しのウェブサイトに登録。そこで見つけた男性アレック(マイルズ・テラー)の家に、いきなり押し掛け、一夜の契りを交わします。しかし、翌朝メーガンがひっそり彼の家を出ようとしたところ、外は大雪。アパートの正面玄関が、開きません。そこでやむなく、彼の家でもう一晩過ごす羽目になる、という物語。行きずりの関係とはちょっと違うけど、互いによく知ることのないまま身体を重ねたあと、まさかこんなにも長時間過ごすつもりは毛頭なかった。というか、それっきり、もう二度と会わない可能性すらあった男女のぎこちない会話が、ある種の密室状態の中、延々と繰り広げられるのです。


  自分のことは棚に上げながら、所詮パートナー探しのウェブサイトに登録しているような「男/女」ということで、どこか相手をみくびった言い回しになりがちなふたり。しかし、その会話はやがて、恋人でも友だちでもないからこそ、歯に衣着せず率直な、ある意味「本音」の話になってゆくのです。日頃、納得のいかない出来事から、周りの人間には正直に話せなかった自分の過去の話まで。このへんの展開は、意外にも『ブレックファスト・クラブ』(1985年)を彷彿とさせるところがあるのですが、そうこうしているうちに、やがてふたりもその事実に薄っすらと気づき始めるのです。なぜかいつもより、本音で語っていないか? というか、これって、もしかして恋なのか?


 いささか唐突なようにも思えますが、その感覚、分からないでもない。これだけSNSが一般的なものとなった昨今、身近な関係よりも、むしろネットの「薄い」関係の他者のほうが、よっぽど気楽に話せるし、普段は言わない本音を語ってしまったりするもの。その挙句、他では得難い「濃い」関係ができてしまうことって、意外とあるものです。この映画では、その様子が、まるでリアルなドキュメントのように描き出されてゆくのです。そう、最初に身体の関係を持ってしまったとはいえ、初対面の男女が、どんなことを話しながら、互いの「距離」を縮めたり、あるいは離したりするのか。もちろん、そんなふたりがお互いの心に気づくのは、いつだって少々遅いのですが。


 そして、もう一本紹介するのは、同じくアメリカ映画『コメット』です。こちらもまた、『きみといた2日間』に引けを取らないほど、ひと組の男女が延々と会話し続ける映画に仕上がっています。しかも、それが『(500)日のサマー』(2009年)のように、時系列を組み替えながらランダムに描かれるものだから、観ているほうは、なかなか混乱します。ちなみに監督は、本作が初長編作品となるサム・エスメイル。今年、テレビ・シリーズ『ミスター・ロボット』の企画を立ち上げ、一躍注目を集めるようになった気鋭の映像作家です。


  彗星見物のため集まったロスの公園の群衆の中、運命的な出会いを果たしたデル(ジャスティン・ロング)とキンバリー(エミー・ロッサム)。「この娘を絶対に手放しちゃいけない」。そんな自らの直感に突き動かされるように、彗星そっちのけでキンバリーを口説き倒すデル。当初いぶかしがっていたキンバリーも、デルのユーモアと情熱にほだされるように、やがて心を開き始め……次の瞬間、ふたりはパリのホテルで目覚めます。友人の結婚式に出るため、ふたりでパリを訪れているのです。しかし、ふたりの様子に初々しさはありません。そして、次の瞬間、ふたりは長距離列車の乗り場で再会を果たすのです。


  彗星の降る夜、恋に落ちたふたりの、ランダムに切り取られた6年間の物語。そこには出会いがあり、倦怠があり、別れがあり、そして再会があった。しかも、2回ずつ(要は二度別れている)。美学的に構築された画面設計は、どこか幻想的で、ときには夢のようですらあります。そして、唐突に山際から昇り始めるふたつの太陽。そう、この物語は、時空はもちろん、いつしか現実世界すら飛び越えた、ある種のパラレル・ワールドとして描き出されてゆくのです。その意味では、『(500)日のサマー』よりも、むしろミシェル・ゴンドリーの『エターナル・サンシャイン』(2004年)に近いかもしれません。その色彩的なこだわりという意味においても。


  しかし、時系列はもちろん、その時間軸すら分断しながら展開してゆくふたりの恋物語は、果たして何を表しているのでしょうか。それは恐らく「瞬間」そのものです。様々な状況設定の中で、常に浮かび上がる、「いま/ここ」。そのコンテクストは、実にさまざまです。というか、この監督は、敢えてコンテクストを分断し、果ては現実/非現実の境界さえも曖昧にしながら、「瞬間」そのものを取り出そうとしているのです。ふたりの「距離」が縮まるその「瞬間」を、あるいは離れるその「瞬間」を。果たして、それがうまくいっているかどうかは、意見が分かれるところだと思いますが、なかなかユニークな試みではあると思います。


  さて、そろそろ結論です。上記のような「男女がひたすら延々と会話し続ける」恋愛映画を観てつくづく思うのは、いずれにせよ、「恋愛(映画)」の滋味は、その「物語」性にあらずということです。それはいささか極論に過ぎるのかもしれないけれど、こんなふうには言うことはできるでしょう。その「物語」に自分自身が酔ってしまったら、その瞬間に目の前の「今」が見えなくなる、と。マグナム突きつけながら「メイク・マイ・デイ」もいいけれど、ときにはむしろ「シーズ・ザ・デイ」。良くも悪くも「クリスマス」という物語性に酔うことなく、しっかりと目の前の「今」を掴み取りたいものですね。こちらからは以上です。それではみなさま、良いクリスマスを。(文=麦倉正樹)