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熱狂的『PEANUTS』ファン田中宗一郎は、映画『I LOVE スヌーピー』をこう観た

2015年12月20日 18:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation.All Rights Reserved.

 リアルサウンド映画部オープンのタイミングでマーベル映画とアメコミについてその深い見識を披露してくれた田中宗一郎が再び登場、今回は現在公開中の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』について語ってくれた。(参考:田中宗一郎が語る、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』とアメコミ映画の現在


 元『SNOOZER』編集長、現在は『the sign magazine』クリエイティブ・ディレクター、CLUB SNOOZERの主宰者である田中宗一郎氏。彼は知る人ぞ知る筋金入りの『ピーナツ』ファンで、それが高じてファッションブランドDIGAWELとコラボレーションしてTシャツの制作にもかかわっている(これが、世のあらゆるスヌーピーTシャツの中で圧倒的に最高のかわいさとクオリティなのだ)。ディープなファンからライトなファンまで世界中に数億人いる『ピーナツ』ファンの間で、概ね好意的な支持を取り付けている映画『I LOVE スヌーピー』だが、そんな本作を田中宗一郎氏どのように観たのか? また、彼はどうしてそこまで強く『ピーナツ』の原作の世界に長年惹かれてきたのか? 誰もが知ってるようで実はあまり知らない『ピーナツ』の世界へのヤング・パーソンズ・ガイドとしても打ってつけの記事となったので、是非じっくり読んでみてください。(宇野維正)


■本音を言うと、ウェス・アンダーソンに監督してほしかった


——まずは、長年の『ピーナツ』ファンとして、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』はいかがでした?


田中宗一郎(以下、田中):『ピーナツ』を動画にすること、ましてや3DのCGで表現するというのはそもそもハードルがとても高いことで。日曜版(見開き版)もあるけど、基本は4コマ漫画なわけじゃない? コマ割りも限られているし、演劇の書き割りみたいに、ほぼ真正面からだけでとらえたショットで描かれた絵が原作なわけだから。60年代から断続的に作られてきたアニメーション版も、そこに関してはずっと苦労してきたところなんだけど、今回の映画はちゃんとその先を見せてくれた。本音の本音を言うと、例えば、ウェス・アンダーソンのアニメーション映画『ファンタスティック Mr.FOX』みたいな、真正面からとらえたカメラの制約を逆手に取るような映画的なダイナミズムというか、工夫も欲しかった気もしないでもないんだけど。でも、技術的には満足のいく仕上がりになっていたと思う。


——今回の作品のキャラクターの絵柄はどう思いました? ピーナツは時代ごとに絵柄が変わってきているわけですが、タナソウさんはピーナツのTシャツの制作にもかかわるなど、その変化にはかなりのこだわりを持ってますよね?


田中:どの時期の絵柄をモチーフにすることで、すべてのファンを納得させるのか?っていうのは、今作を作る上での大きな課題だったはずで。作者のチャールズ・M・シュルツの筆に一番脂がのっていたのは60年代から70年代なんだけど、彼は途中からペンを持つ右手が震えるようになって、80年代になると線がガタガタになっていって、90年代にはデッサンも狂っていく。その描線が完全に崩れ出す直前、80年代冒頭のもっとも円熟していた時期の絵柄が今作のベースになってるんだよね。過去に作られてきたアニメーション版は、アニメーション用に新たな作画を起こしているような感じだったんだけど、今回の場合は、原作の絵柄のタッチをすごく大事にしていて、その点はすごく成功していたんじゃないかな。


——時代ごとの変化について、もうちょっと詳しく教えてもらえますか?


田中:ピーナツって1950年から50年の歴史があるんだけど、おおまかに言うとディケイドごとに変わってきてるんだよね。50年代の時点で、主要キャラクターと有名なストーリーラインは一通り出揃っていて。60年代以降になると、ペパーミント・パティとか、マーシーみたいに新たな主要キャラクターが出てきて、ストーリーに当時の時代性が反映されるようになってくる。シュルツという人は、基本的にはリベラルなんだけど、保守的なところもある人で、彼が60年代、70年代と劇的に変化していくアメリカ社会をどんな風に見ているのかっていう視点が作品に入ってきた。80年代はそれまでのストーリーやキャラクターのヴァリエーションが増えていきつつも、ある種の円熟期。で、90年代に入ると、またガラッと変わる。それまで4コマだったのが、3コマになったり、2コマになったり、1コマになったりして、これまでは描いてこなかった、D-デイ(戦争の記念日)をモチーフにした作品があったり。スヌーピーが兵士の格好をして、そこにコメントが添えてあるだけの1コマの作品とか。個人的には90年代の作品にはそんなに惹かれないんだけど。例えば、チャーリーとスヌーピーの関係性とかね。もともとスヌーピーは世界で自分が世界で一番偉いと思っているから、チャーリーのことを飼い主だとも思ってないし、彼のことをRound Head Boy(頭の丸い少年)って呼んでて、飼い主の名前さえ覚えていなかった。でも、90年代には、スヌーピーがチャーリーの膝にのって寝てるとか、そういう描写が出てくる。これってファンからすると、かなりの驚きだったんですよ。でも、いつの時代のピーナツが一番いいかっていうのは一概には言えなくて、それぞれの魅力がある。ただ、シュルツの筆のタッチだけで言うなら、60年代から70年代半ば過ぎまでが絶妙だったと思う。まあ、でも、やっぱり内容的にも、その15年くらいがベストかもしれない。今はその時期の日本語対訳版がまったく手に入らないのがすごく残念なんだけど。


■「恋愛感情とは身勝手なもの」という一貫したテーマ


——でも、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は80年代の頭のあたりの絵柄がベースになっているわけですよね? そこに不満はなかったんですか?


田中:いや、そこは最適なチョイスだったと思う。フォルム的には一番完成度の高い時期だし。この時期のキャラクターが一番かわいい。70年代に入るとシュルツはキャタクターをいろんな角度から描き出すようになってきて、そこではいろんな変わった表情やフォルムが出てくるんだけど、それをアニメーションで表現しようとするのは至難の業だったと思うしね。それと、今回の映画には、これまで作られてきたアニメーション作品への直接的なオマージュもあって、過去のピーナツ作品全般に対して全方位的に敬意を払っている。これは本当に偉い。ダンスのシーンがあるでしょ? あそこに使われてる音楽は以前のアニメーション・シリーズのサウンドトラックを手掛けていたジャズ・ピアニストのヴィンス・ガラルディの音楽がそのまま使われていて、サリーやバイオレットの踊りの動きもそのままなんですよ。このヴィンス・ガラルディの作品はリイシューされた時もPitchforkで8点台取ってたりして、かなりの名盤なんだけど。だから、こういう俺みたいなハードコア・ファンからすると、不満だの、文句を言い出せばキリがないんだけど、そもそも、いろんな時代の、いろんなファンが何億人もいるわけだから、その期待をすべて満たさなきゃいけない。そんな不可能に近いことを目指したわけだから、それはそれは大変だったと思うよ。


——原作の解釈という点からは、どう思いましたか?


田中:ピーナツの原作に対しては、いろんな視点があって。日本では、それこそ自己啓発系の本みたいな角度からキャラクターの発言をまとめたような本も出てたりするし。50~60年代には海外でフロイト的な精神分析の題材にされることも多かった。あと有名なのは、シェークスピアの作品と同じように、それぞれのキャラクターにはシュルツの性格の多面性が反映されているっていう話で。いずれにせよ、アーカイヴは膨大だし、どんな切り取り方も出来る。でも、一つの長編作品にまとめるとなると、どうしても最大公約数的なものにならざるをえない。これも致し方なかったんじゃないかな。今回のメイン・プロットになっている「赤毛の女の子」の話も、60年代、70年代、90年代と断続的に描かれてきたもっとも有名なストーリーラインの一つだしね。


——あの「赤毛の女の子」は、原作でも映画のように教室に転校生として現れるんですか?


田中:どうだったかな? いや、確かそうじゃなかったはず。チャーリーは床屋さんの息子で。おそらく移民二世だよね。で、はっきりとは言明されてないんだけど、父子家庭なんだよ。だから、いつも学校のランチタイムではピーナツバターを塗っただけのサンドイッチを一人でベンチで食べてる。で、その時に校内で彼女のことを発見する。だけど、「赤毛の女の子」の存在は原作では決して絵で描かれることがないんだよね。


——そうなんだ!


田中:90年代に入ってから、チャーリーが彼女をプロム・ダンスに誘おうと切磋琢磨する話があって。でも、最終的には彼女とダンスを踊っていたのはスヌーピーだった、って話があるんだけど、そこでもシルエットでしか描かれていない。何故かというと、そもそも赤毛の女の子というのは、チャーリーの理想の投影であって、決してかなうことのない夢の象徴だから、具体的なフォルムを持っちゃいけないんですよ。「恋愛感情というものは常に身勝手なもの」というテーマは、『ピーナツ』ではずっと描かれていて、ペパーミント・パティとマーシーの二人はチャーリーのことが好きなんだけど、それぞれ彼のことをチャック、チャールズって呼ぶんだ。名前を間違えていたり、自分だけの呼び名で呼んでる。つまり、自分の身勝手なイメージを彼に投影してるだけ。だからこそ、チャーリーはそれをわかっていて、彼女たち二人を相手にしないんだけど、自分もまた赤毛の女の子には都合のいい理想を投影していることには気付かないんだよね。それはさておき、そうした映画向けの改変は、スヌーピーの撃墜王のエピソードだとか、他にもたくさんあって。今回の映画ではチャーリーの妹のサリーを除いて、主要キャラクターのほぼ全員がクラスメイトという設定なんだけど、原作ではチャーリー、シャーミー、バイオレット、パティよりもルーシーは年下で、それよりもライナスは年下。パティとフランクリンとマーシーは隣町の学校の子に通ってる。でも、主要なキャラクターをおおかた登場させるためには、それも苦肉の策だったんだと思う。


——なるほど。あと、観ていて一番違和感があったのはスヌーピーの恋人役のフィフィ。突然出てきた印象があるし、全然かわいくない(笑)。


田中:あれは映画用のキャラクターだから仕方がない(笑)。原作には出てこ
ないキャラクターで、1980年に作られたアニメーション『Life Is a Circus, Charlie Brown』にチラッと出てきたんだけど、その時はスヌーピーの恋人役でもなかったし、絵柄もまったく違う。それにそもそもスヌーピーって完全なプレイボーイ属性で、撃墜王の時もフランスの酒場でルート・ビールを飲みながらウェイトレスをナンパするのがお約束の描写だから、一途に恋人を追いかけてるっていう時点で、原作原理主義的からすると、う~んって感じ(笑)。


■世界で最も有名なアンチ・ヒーロー、チャーリー・ブラウン


——そもそも、タナソウさんがどうしてそこまで『ピーナツ』を愛して止まないのか、その理由を教えてもらえますか?


田中:チャーリー・ブラウンっていうのは、多分、世界で最初に現れた、そして、間違いなく世界で一番有名なアンチ・ヒーローなんだよね。


——おぉ。


田中:で、スヌーピーっていうのは、チャーリーとの対比として存在する、『ピーナツ』世界の中で唯一完全無欠のスーパーマンなの。ただ、スヌーピーには一つだけ決定的な欠点があって、それは彼が犬だということ。で、彼自身はそれをずっと受け入れることが出来ない。だからこそ、彼は撃墜王だの、世界一有能な弁護士だの、いろんな妄想に浸るヴィジョナリーなんだけど。ほら、映画の中でもスヌーピーがルーシーにキスをすると、ルーシーが「犬のバイキンが伝染る!」って騒ぐシーンがあるじゃない?


——普通に見ると「ルーシー、ヒドい」って思います(笑)。


田中:でも、スヌーピーからすると、「犬? このボクが?」って感じで、まったく理解できないわけ。でも、ビーグル犬であることを除けば、スヌーピーは万能でさ。どんなスポーツも得意だし、彼得意の妄想の世界では、第一次世界大戦の撃墜王であり、ディケンズの『二都物語』を引用する小説家であり、“ジョー・クール”って名前の、ビートニクから影響を受けて白いタートルネックを着て『市民ケーン』を20数回観たのが自慢のシネフィルでもある。


——原作では、チャーリーとスヌーピーは、共依存関係にはまったくないんですよね。


田中:そう。個々のキャラクターが共依存関係にないというのは、『ピーナツ』を語る上での一番のポイントだと思う。『ピーナツ』のキャラクターっていうのは、全員が欠点だらけで。まあ、絵柄がかわいらしいから、わかりずらいんだけど、実はリンチの『ツイン・ピークス』とか、コーエン兄弟の『ファーゴ』みたいな世界観なんですよ。アメリカの田舎町にありがちな、閉ざされた世界特有の変人だらけ。で、主要キャラクターが10人いるとしたら、それぞれのキャラクターの1対9の関係がきっちりと描かれていて、その関係性から、それぞれの短所と長所が見えてくる。でも、だからといって誰もそこで具体的に支え合うことはなくて、常にキャラクター同士が相手の欠点を口汚く罵りあってる。ホント容赦ない関係なの(笑)。でも、そうやって、それぞれのキャラクターが抱えている欠点や問題を相対化することで、笑い飛ばそうとしてる。そうすることで、ある意味、問題を無化させているんだよね。つまり、共依存関係のまったく真逆にある。


——あぁ、もっとも心に響くのは、そこの部分なんですね。もっとわかりやすく、カウンターカルチャー的なスタンスから『ピーナツ』を支持しているのかと思ってました。


田中:60年代後半に、アメリカの大学生たちが『指輪物語』のガンダルフ、『スター・トレック』のミスター・スポック、『ピーナツ』のスヌーピーを大統領にしようって面白半分に運動したって有名なエピソードがあって、その話は大好きなんだけど、『ピーナツ』の中でカウンターカルチャーを表象しているのは、さっきも言ったようにビートニクに心酔していたりするスヌーピーであり、それこそウッドストック・フェスティバルからそのまま名前をとったウッドストックくらいなんだよね。50年代初期からのキャラクター、パティやバイオレットなんて、旧態然としたヴィクトリア王朝的っていうか、ピューリタン的価値観の持ち主だったりするし。


——え? ウッドストックって、あのウッドストックだったんだ!? だって、原作ではウッドストック・フェスティバルが開催されるよりもずっと前から出てきましたよね。


田中:うん。でも、69年以前は名前がなくて、日本語版の谷川俊太郎の翻訳では「ヌケサク鳥」って呼ばれてたの。


——あぁ、そうだった!


田中:もともとウッドストックは「ヌケサク鳥」であり、間抜けなキャラクターという位置付けだった。だから、そのキャラクターに後からウッドストックという名前を付けたシュルツは、決してカウンターカルチャーに対して無条件に肯定的だったわけじゃない。スヌーピーの“ジョー・クール”のキャラクターにしても、むしろ当時のアメリカの若者たちの風俗をからかっている部分の方が強かった。ルーシーの「ガミガミ屋」っていう属性は、おそらく当時のウーマンリブ運動に対する保守的な視点からの観察が元になってるはずだし。だから、『ピーナツ』という作品を楽しむ上でもっとも重要なのは、シュルツの極めて相対的な視点だと思う。それぞれ欠点を持った変人奇人たちが、互いを傷つけ合いながら、なんとか共存しているところ。それって『モンティ・パイソン』とか、イーストウッド映画『グラン・トリノ』の中で、長年の親友同士であるポーランド系移民の主人公とイタリア系移民の床屋が互いに差別用語を使って罵りあうシーンを思い出すんだけど。でも、あれって最高に幸福なシーンでしょ? 『ピーナツ』のキャラクターには、サリーのような反抗者もいれば、ライナスみたいなアンチ・クライストもいるし、黒人のフランクリンのような順応主義者もいるし、チボーみたいな女性蔑視者もいる。世の中のほとんどの作品って、どこかに作者の思想性が投影されているものだと思うんだけど、『ピーナツ』には何かに寄ったところがないんだよね。だから、どんな立場の受け手もアクセスできる。で、自分にとってそれは、ある種、「理想のアメリカ合衆国」のコンセプトそのものなんだよね。


■キンクスや村上春樹の世界に通じる、厭世観と諦念とシニシズム


——なるほど。「みんながみんな違ってて、それでいい」「むしろ、その方がいい」っていうことに対する共感ということですね。


田中:うん、まあ。ただ実際は、誰もが愚かで、誰もが罪深くて、誰もが残酷だっていう事実を笑い飛ばしながら、それを受け入れる知恵と寛容さ、みたいなニュアンスかもしれないけど。あと、もう一つ大きいのは、これは手塚治虫作品に惹かれる理由にも近いんだけど、根っこの部分で厭世的で、シニシズムがベースにあるところ。


——あぁ。


田中:それを象徴するエピソードとして、ルーシーがまだ赤ん坊の、ライナスの下の弟リランを初めて屋外に連れて行って、「これが世界よ!」って言う話があるんだけど。最後のコマでリランがこう言うんですよ。「これが?」って(笑)。あと、これは今回の映画のネタバレになっちゃうけど、最後にチャーリーが報われるじゃない? 原作原理主義者としては、あそこにはやっぱり「う~ん」と唸らずにはいられなかった。さっきも話したけど原作ではチャーリーは彼女に話しかけることさえ出来ないままだったから。赤毛の女の子をずっと家の外からストーキングしていて、雪の中で足が凍って動けなくなったり。でも、そういう「報われなさ」を笑い飛ばしてあげるのが『ピーナツ』なんだよね。チャーリーというのは、所謂アメリカン・ドリームの影にいた人たちへの慈愛の眼差しから生まれたはずなの。報われないまま、それでも精一杯生きた人たちっていうか。あと多いのは、キャラクターの非道さを描いて、そのキャラクターがヒドい目に合うっていう類いの話。特にスヌーピーがそういう役割なんだけど。だから、全体的な世界観としては、常にシニカルだし、厭世的だし、それぞれのキャラクターは欠点だらけの変人だし、世の中のあらゆる価値観に対して、どこまでも容赦なく批判的なんだよね。ただ、ちゃんと最後には笑い飛ばしてあげるっていう慈愛と寛容さがある。


——なるほど。


田中:だから、実のところ、日本人に好まれる「努力が報われる話」だったり、「欠点も含めて自分を肯定してくれる話」だったりとは真逆の世界観なんですよ。今回の映画の字幕だと、チャーリーの「僕はダメ人間で、赤毛の女の子は特別なんだ」ってセリフがあるんだけど、でも、英語では「I‘m Nothing,She’s Something」って言ってるのね。日本語の字幕だと、なんだかチャーリーはただのダメな人なんだけど、実際はもっと枯れたキャラクターでさ。ロックの世界でもキンクスのレイ・デイヴィスみたいに、若い頃から老人みたいな諦念を抱えた人っているでしょ? 村上春樹の初期三部作の「僕」みたいなさ。


——「やれやれ」ってやつですね。


田中:そうそう。チャーリーの決め台詞の一つに「Good Grief…」ってのがあるんだけど、それを谷川俊太郎は「やれやれ」と訳していた。


——おぉ。そこが村上春樹の「やれやれ」のルーツなのではないかという説、どこかで読んだことがある!


田中:例えば、今回の映画にも出てくる「凧食いの木」っていうのは、チャーリーが凧を上げようとしても必ず失敗するっていう自分自身の能力のなさ、才能のなさを受け入れられないことを擬人化したキャラクターなんだけど、基本的には、彼は「絶対に報われない」、「絶対に勝てない」という自分自身と世界の関係を受け入れて、なんとか折り合いをつけようとしている。だから、実は凄まじくタフなキャラクターなんですよ。誰にも真似できない。それに対し、スヌーピーは、どんなことでも簡単にこなせてしまう究極のスーパーマンなんだけど、自分自身が犬であるという現実だけは受け入れられない。その一点において、彼はチャーリーにだけは100%敵わない。つまり、『ピーナツ』という作品はチャーリー・ブラウンという特異なキャラクターによって、20世紀後半の50年間を費やして、アメリカの光と影の両方をきちんと描き続け、ヒーローという概念を再定義し続けた。それこそが『ピーナツ』の独自性であり、先見性なんだと思う。(取材・文=宇野維正)