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チェス映画は刺激的なものになり得るか? 壮絶な頭脳戦を描く『完全なるチェックメイト』の挑戦

2015年12月18日 15:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(C) 2014 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved. Photo
Credit: Tony Rivetti Jr.

 これだけ沢山の映画が作られている時代にもかかわらず、チェスをテーマにした映画は少ない。二人の人物が静寂の中で向かい合って、盤上で駒を動かすという行為は、映画として描くには極めて地味な光景である。それどころか、動かされるだけであるその駒をフレームの中心に捕らえるということは、映画に必要なモーションを著しく不足させてしまう。駒は予想外の動きをしないので、例えチェスのセオリーから逸脱した駒の動かし方をしたところで、予想外の動きをしたのは人物であり、観客の視線は盤上ではなく、駒を動かす人物に辿り着くため、チェスという競技を選択する必要性がなくなってしまうのだ。


参考:『バットマン vs スーパーマン』や『貞子vs伽椰子』など、“対決モノ”映画が作られる理由


 そのため、チェスは一種の小道具として扱われてばかりだ。物語をかき回す作用を持つ作品としてすぐに思い浮かぶものは、2001年に世界的大ヒットを飛ばしたクリス・コロンバスの『ハリー・ポッターと賢者の石』ぐらいだろうか。クライマックスの極めて重要なシーンにチェスが登場し、主人公たち3人よりも大きい駒を魔法の力を用いて動かすというシーンがある。そのシーンが映画として成立したのは、相手の駒を取った時に、自分の駒が突然動き出し、相手の駒を粉砕するというサプライズがあったからに他ならない。もちろん、人間の手の中に収まる大きさの駒を使った実際のチェスにおいて、そんなことは到底起こりようがない。


 一方で、チェス映画の代表格として挙げられるフセヴォロド・プドフキンとニコライ・シャピコフスキーの『チェス狂』でさえ、序盤にチェスの試合があるものの、大筋ではスラップスティックコメディが展開しているし、2000年に公開されたマルレーン・ゴリスの『愛のエチュード』は、あくまでもナボコフ調で綴られたラブストーリーの要素のひとつとしてチェスの世界選手権が描かれるばかりである。


 こうした流れが必然的に映画と観客とチェスとの距離感を広げていったのではなかろうか。しかし、我々が『アマデウス』を観てモーツァルトの人となりを理解したり、『炎の人ゴッホ』を観てゴッホを知っていくように、特定の文化を理解するためにはそのもっともポピュラーな人物を描き出した作品の存在が必要である。では、チェスにおける最もポピュラーな人物は誰か。間違いなくボビー・フィッシャーしかいないだろう。


 冷戦期に、アメリカ人として初めてチェスの世界チャンピオンになったボビー・フィッシャーは、2008年に64歳で波乱に満ちた生涯に幕を閉じた。その奇行の数々と、繰り返される失踪によって生ける伝説となっており、2000年頃には日本で生活していたそうだ。もっとも、チェスに暗い映画ファンにとっては、スティーブン・ザイリアンの『ボビー・フィッシャーを探して』で語られるチェス界の伝説としてのイメージしかないのも仕方ないことである。


 なぜこれまでボビー・フィッシャーを真っ向から描き出した映画がなかったのだろうか。いや、日本に上陸していないだけで、実際にはダミアン・チャパが監督主演を務めた劇映画も、ドキュメンタリー映画も存在している。とはいえ、どちらもフィッシャーの死後に制作されていることを考えると、やはり彼のアメリカ国内での位置付けは、決して「英雄」と胸を張って言えるものではないのだと痛感する。冷戦時代のアメリカの英雄譚として語られる、スパスキーとの世界選手権があるとはいえ、その20年後のスパスキーとのユーゴラスラビアでの再戦は、ボスニア問題の最中に行われたこともあり、やはり手放しに歓迎できないのだろう。


 それゆえ、1972年の世界選手権にフォーカスを置いた『完全なるチェックメイト』は、幼少期からのボビー・フィッシャーとチェスとの関わり合いを、決して英雄の逸話でも伝記映画でも歴史劇でもなく、ましてや原題の〝Pawn Sacrifice〟(=ポーンの犠牲)として表現されるような、冷戦時代の米ソ対立に託けられた手駒の一つに過ぎないという政治的策略さえも上回るほどのドラマとして描いている。ひとりの青年が、自分の勝負できる唯一のものを見つけ出し、それで強大な敵を打ち砕くという、まさにアメリカンドリームそのものだ。そこに、エドワード・ズウィックの「映画の見せ方の巧さ」を感じることができる。


 エドワード・ズウィックという作家は、多作ではないにしろ常に堅実な作品を送り出している。日本で公開された実写洋画で歴代5位の興行収入を記録している『ラスト・サムライ』という代表作がありながら、彼の名前を認識している人は決して多くないだろう。その上にいる4作はジェームズ・キャメロンとハリー・ポッターなのだから、あまりにも不遇に思えるのだが、それ以後の作品が『ディファイアンス』や『ラブ&ドラッグ』では、まあ納得できなくもない。


 それでも、先日日本で公開された『PAN ~ネバーランド、夢のはじまり~』で、ジョー・ライトがデジタル撮影に移行してしまった今、ズウィックはフィルムにこだわり続けるハリウッドの映画作家の数少ない内の一人である。本作では35mmフィルムだけでなく、16mmフィルムを併用し、当時のニュース映像などのリアリティを追求している。もちろんフィルム撮影を選択することによって、こだわり抜かれた美術や衣装の質感に、彼の作品らしい硬派さが浮き彫りになっている。


 ズウィックらしさはこればかりではない。クライマックスで訪れる壮絶な頭脳戦は、ジェームズ・ニュートン・ハワードの劇伴が加わることによって、程よい緊張感が維持される。これは映画の描き方を熟知していなければ、不要に静寂を求めて、観客に疎外感を抱かせてしまいかねない恐ろしい場面だ。職人監督のアイデアとこだわりが重なり合うことで、映画と観客とチェスという三者の距離を確実に縮めることに成功した一連のゲームシーンは、チェス映画の歴史を大きく動かしたのである。(文=久保田和馬)