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“最後の昼ドラ“が見せる究極の愛憎劇ーー『新・牡丹と薔薇』と脚本家・中島丈博の凄味とは

2015年12月18日 07:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『新・牡丹と薔薇』公式HP

 52年の歴史があるフジテレビの昼ドラ枠(13時30分~14時)が、2016年の3月で終了する。昼ドラは、かつてはTBS系の「愛の劇場」など、他局でも放送されていたが、現在はフジテレビだけとなっていた。今後のことはわからないが、これで日本のテレビから「昼ドラ」の歴史に一度幕が引かれることになる。


参考:フジテレビ×Netflix『アンダーウェア』は受け入れられるか? 脚本家・安達奈緒子の作家性から検証


 そんな中、現在放送中の昼ドラが『新・牡丹と薔薇』だ。


 本作は2004年にヒットした中島丈博が脚本を書いた『牡丹と薔薇』(フジテレビ系)のセルフリメイクにあたる作品。ストーリーは小日向ぼたん(黛英里佳)と小日向美輪子(逢沢りな)という血のつながらない姉妹を中心に展開される男と女の愛憎劇だ。物語や時代背景は違うのだが、ぼたんというヒロインが登場し、彼女の出生の秘密と男と女のドロドロ、ぼたんに屈折した感情を見せるお嬢様キャラの妹などといった『牡丹と薔薇』のエッセンスは引き継がれている。


 ただでさえ視聴者から軽く見られているテレビドラマの中でも、もっとも辺境に位置するドラマ枠が昼ドラだ。役者の演技は大袈裟で物語は極端なことばかりが起こる下世話で通俗極まりない映像空間で真面目に見ている視聴者は、ほとんどいない。しかしそんな状況を逆手にとって、好き勝手やってきたのが02年の『真珠夫人』以降の東海テレビ制作の中島丈博・脚本のドラマだった。


 次から次へと繰り返される愛憎劇にはさみこまれる「役立たずのブタ」という台詞や「たわしコロッケ」や「牛革の財布で作ったステーキ」を食べさせるといった極端なシチュエーション(『新・牡丹と薔薇』では愛の証明として金魚を食べるシーンが登場する)の連鎖で物語を紡いでいく中島ドラマは、前後のつながりやお話としての完成度を放り投げてでも、その瞬間さえ面白ければいいという極端なスタンスが受けて、ネタドラマとして人気を博した。2000年代における昼ドラとは基本的に、東海テレビが制作した中島ドラマだったと言っても過言ではない。


 今のテレビドラマは連続テレビ小説(朝ドラ)の一人勝ちという状態が続いている。放送形態だけを考えるなら、30分一話を週5回放送する昼ドラの形式は朝ドラにもっとも近いものだ。だから、何かのきっかけで昼ドラの人気が爆発してもおかしくないと思っていた。中でも中島ドラマのネタ消費できる部分は、SNSを使ってみんなで消費することが前提となった情報環境の元では、有利に働くのではないかと思っていたのだが、そううまくはいかなかったようだ。


 このままだと最後の中島ドラマとなってもおかしくない本作だが、どうしても気になってしまうのは、なぜ、中島は昼ドラという場所を自らの居場所にしたのかということだ。


 中島丈博は1935年生まれ。自伝的作品である『祭りの準備』の脚本や『郷愁』の監督としても知られ、日活ロマンポルノの脚本を多く手掛けていた。90年代後半には渡辺淳一の『失楽園』のドラマ版の脚本も手掛けているほか、『炎立つ』や『元禄繚乱』(ともにNHK)などの大河ドラマも手掛けており、キャリアだけみれば大御所の脚本家だと言える。


 そんな重厚なキャリアと00年代以降の昼ドラ路線は一見別物に見えるが、性欲を通して男と女の愛憎劇を書いてきたという意味において中島にとっては同じものなのかもしれない。また、『新・牡丹と薔薇』の冒頭は、ぼたんと美輪子の母親である眞澄が高校生の時に妊娠してしまうところからはじまるのだが、愛と性の問題が家族の歴史につながっていくことも中島作品の特徴といえる。いうなれば、男と女の愛憎が親子の因縁にまで絡んでいく重厚な歴史劇こそが中島作品の本質だが、このような古臭いドラマが成立する場所など存在しないことは本人が一番わかっているのだろう。


 そんな中で、結果的に昼ドラだけが、中島の作家性の受け皿と成りえた。もちろん、その受け入れられ方は、徹底的にネタとして消費される世界だ。その意味で客観的に見れば悲しい撤退戦と見えなくもない。だが、『新・牡丹と薔薇』を見ているとネタとして消費されることが、中島の作家性を弱めたとは思えない。むしろ昼ドラを書きつづけることでしかたどり着けない場所に到達しようとしているのではないだろうか。


 例えば第10話では、吉田多摩留(戸塚純貴)と美輪子がお互いに激しい愛情をぶつけ合い、やがて肉体関係を結ぶことになる。その時に多摩留は「人を好きになると悲しくなる」と言うのだが、この台詞には不覚にも感動してしまった。もっとも次の回になると多摩留の言う「悲しい」が、ただの性欲だとわかり美輪子は幻滅して、距離を置こうとして、やがて多摩留はストーカーになってしまうのだが、ここには男と女の愛憎劇が、しっかり描かれている。


 おそらく中島にとって人間の愛憎と滑稽さは表裏一体の切り離せないものなのだろう。だからネタ的に消費される昼ドラの馬鹿々々しさがあればあるほど、中島の書く愛憎劇は深みを増していくのだ。(成馬零一)