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『 I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』が原作から紡ぐ、小さな幸福の物語

2015年12月12日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation.All Rights Reserved.

 いつも犬小屋の屋根の上に寝そべって小鳥とたわむれたり、タイプライターを打っている、かわいいビーグル犬、スヌーピー。日本ではとくにキャラクター・グッズとして店頭で目にすることが多いが、スヌーピーは、アメリカの新聞で、およそ四半世紀もの間連載されていた漫画「ピーナッツ」に登場するキャラクターのひとり(一匹)だ。


参考:『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』が興収では2位なのに、動員では3位になった理由


 「ピーナッツ」は、スヌーピーの飼い主で、いつも人生に思い悩んでいるチャーリー・ブラウンを中心に、子供たちの世界の日常的な出来事を大人びたユーモアで描き、アメリカのみならず、連載終了後も世界中で長く愛され続けている漫画だ。ペンとインクによるザクザクとした描線によって表現される、ポップカルチャーと文学性が融合したシンプルで楽しい世界は、漫画作品のひとつの完成形といえるだろう。人気だけでなく、芸術的な意味でもアメリカ文化の至宝のひとつといえる「ピーナッツ」が、今回、35年ぶりに劇場用映画として製作された。それが、本作『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』である。邦題がちょっと長い。


 しかし、ここまでの人気作でありながら、「ピーナッツ」は何故、あまり映画化されないのだろうか。今回は、その理由の裏側に迫りつつ、本作における新たな映画化への作り手の困難、そして作品の真価を探っていきたい。


■3Dと2Dを融合する映像表現の試行錯誤


 本作『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は、原作者チャールズ・シュルツの息子、クレイグ・シュルツによる企画だ。彼は自分の子供や、彼の母親である、チャールズ・シュルツの妻ジーン・シュルツらと相談しながら脚本を書き上げている。この権利者ファミリーによる作品づくりの要請に応じたのが、20世紀フォックス・アニメーションだった。しかし、「ピーナッツ」は、子供たちの小さな世界を描くところが魅力であり、今までのTVアニメ版に名作があるように、TVのサイズがちょうどよく、小品に適している題材だ。はじめはチャールズ・シュルツもTVアニメとして企画を立てていたようである。


 制作費獲得のため、映画作品として企画が拡大した本作は、劇場版としての価値を高めるため、全編CGを利用した「現代的な」ヴィジュアルでの作品づくりに挑戦することとなった。製作するのはフォックス傘下の、『アイス・エイジ』シリーズ、『ロボッツ』などを製作した、ブルー・スカイ・スタジオだ。監督は、『ホートン ふしぎな世界のダレダーレ』、『アイス・エイジ4 パイレーツ大冒険』のスティーヴ・マーティノである。


 完成した映像は、試行錯誤の跡が感じられるものとなっていた。キャラクターは、ふわふわすべすべとした質感の3Dで描かれるが、表情は2Dで描かれている。これは、実際の製作を想像してみると当然の流れかもしれない。そもそも、漫画やTVアニメ版は、全てが手で描かれており、両目が顔の片側に描かれるなど、立体表現ではあり得ない漫画的な「嘘」が随所に見られる絵柄なのだ。従来の「ピーナッツ」のイメージを崩さないよう、この風合いを活かそうとすれば、部分的に2D的な手法を持ち込まざるを得ない。このことから、本作の映像は、リアリティと漫画的平面表現が混在するものとなっており、人によっては違和感を生じさせるかもしれない。だが、そこに配置される表情のパーツは、原作漫画以外にもTVアニメの各エピソードから取捨選択された、最良と思われるものを選んでおり、原作だけにとどまらない「ピーナッツ」の絵柄を、相当に研究し追求していることは間違いないだろう。


■漫画、TV、舞台を総動員して描く「ピーナッツ」の本質


 本作は、TVアニメ版と同様、大人向けな内容の原作漫画のエッセンスを幾分残しながら、より子供向けの内容にシフトしている。その特徴は、飛んだり跳ねたり、雪にもぐったり、爆笑するスヌーピーの激しい動きとして、アニメ的な「スラップスティック」(ドタバタ喜劇)表現が追加されていることでも分かる。また、アニメならではのダンスの動きの面白さが描かれているのもTVアニメ版同様である。なかでも、人気のある"A Charlie Brown Christmas"(「スヌーピーのメリークリスマス」)のかわいいダンスが、本作でCGにより完全再現されているのは、往年のファンにとって嬉しい驚きだ。


 そして本作が特徴的なのは、スヌーピーの妄想世界が、ブルー・スカイ・スタジオが得意とする、CGによる大スペクタクルとして表現されている部分だろう。原作でも、スヌーピーは妄想の中で、医師、弁護士、小説家、プロゴルファーなど、いつも何かになりきっている。なかでもお気に入りなのは、第一次大戦の戦闘機乗りの英雄になるという妄想である。スヌーピーの兄スパイクは、いつも歩兵役として戦争ごっこに付き合わされ迷惑しているのだ。本作では、ここにTVアニメ"Life Is a Circus, Charlie Brown"(「スヌーピーのサーカス」)に登場した、まつ毛がチャーミングなプードル、フィフィがヒロインとして現れる。


 本作の脚本の内容は、いかにも映画風のオリジナルストーリーを用意するのでなく、原作のエピソードを、いくつかのテーマに従って配置し、意味づけしていくという、原作を尊重するものになっている。また、漫画だけでなく、前述しているように多くのTVアニメ版にもオマージュを捧げており、今までの「ピーナッツ」を総動員する記念碑的な作品となっている。またその構成は、のちにアニメ化もされた、舞台のミュージカル作品「きみはいい人、チャーリー・ブラウン」に最も近いといえるだろう。


 「ピーナッツ」の登場人物やスヌーピーを生身の人間が演じる舞台作品「きみはいい人、チャーリー・ブラウン」は、何をやってもうまく行かないチャーリー・ブラウンが、「赤毛の女の子」に熱烈に恋をして、色々なアプローチをしようとするものの、全てが裏目に出て、際限なく落ち込んでいくという、かなりネガティブなストーリーだ。しかし、チャーリーが神格化していた赤毛の女の子が落とした鉛筆に、彼女の歯型がついているのを発見し、「ああ、彼女も人間だったんだ!」と、非常に気持ちが楽になるという、ささやかな、あまりにもささやか過ぎる幸福がラストで描かれる。本作『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』では、さすがにもう少しポジティブな結末が用意されているが、基本的な流れは同じだ。このような、ひとりの人間のなかの「小さな物語」こそが「ピーナッツ」の本質だといえるだろう。チャールズ・シュルツも、この舞台作品を支持していた。


 本作は、このように、ヴィジュアル面においても、脚本の面においても、過去作の要素をかき集めることで、原作の持つ本来の価値を減じさせず、「ピーナッツ」の本質から逸脱したものにしないような対抗策が講じられていることが理解できるのだ。


■チャーリー・ブラウンという生き方


 「小さな物語」こそが本質であると言ったように、「ピーナッツ」の世界では、大人は直接描かれず、彼ら子供たちの視点から社会が描かれている。オリジナルである漫画作品の愛らしい絵柄は子供にも人気があるが、その内容は逆に大人向けといっていいだろう。そこで描かれる登場人物たちは、作者のチャールズ・シュルツ本人の反映、もしくは彼の周囲の人間を基にしているといわれる。


 何をやっても大抵うまくいかないチャーリー・ブラウンは、失敗体験の累積から、自らのレーゾンデートル(存在価値)に悩まされている。そして、勝ち気な妹のサリーや、親友のライナス、5セントで精神分析をするルーシーなどに相談をする。そのライナスも、哲学的思考を日々めぐらせてはいるが、その反面、幼少期から毛布が手放せないという精神的問題を抱え、女王然として自己中心的な性格のルーシーも、自己評価ほど周囲が価値を認めてくれず、ベートーヴェンを敬愛する小さな演奏家シュローダーが振り向いてくれないことに苛立ちを感じている。


 このような不完全なキャラクターたちの交流で発生する摩擦は、チャールズ・シュルツ独自の人間観からきているが、鋭い洞察とユーモアや、幾分の偏見や皮肉がこめられた、この「小さなドラマ」は、たわいない漫画という「消費物」であることを超え、多くの読者の持つ個人的体験のドアをノックする。短所・長所を併せ持ったキャラクターたちが、とくに大きなことを成し遂げるわけでなく、チャーリー・ブラウンの凧が上手く上がらなかったりとか、晩ごはんがいつもより11秒遅れることにスヌーピーが抗議したりと、日常の本当に小さなことで思い悩み、逆にささいなことに幸せを見出したりすることが、読者に深い共感を与えるのだ。


 そういった、英雄的や啓発的でないドラマを映画化することは困難だが、逆に言うなら、そのような作品づくりは、現代においてむしろ貴重だといえるだろう。子供の観客のみならず、大きな夢の実現や、客観的幸福の追求に疲弊する現代の観客にとって、「ピーナッツ」の世界は、ある意味で「救い」と呼べるようなものになっているのではないだろうか。


 『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は、しかし、ささやかながら個人の達成を描いてもいる。チャーリー・ブラウンのように、取り柄もなく、ぐじぐじと小さなことで落ち込みながらも、「できるだけ善良であろうとする姿勢」が、小さな小さな幸福を勝ち取るのだ。二元論的な、善と悪の戦いという定型がとりわけ支配的な、劇場用アニメーション作品が多いなかで、個人的実感を大切にする作品づくりは、今後のアニメーションのひとつの指針となり得るはずである。(小野寺系(k.onodera))