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死は誰のもの? イスラエルから届いた問題作『ハッピーエンドの選び方』が突きつけるテーマを考察

2015年12月08日 14:41  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2014 PIE FILMS/2-TEAM PRODUCTIONS/PALLAS FILM/TWENTY TWENTY VISION.

 死は誰の身にも平等に訪れるものーー。そんな気休めの常套句など百も承知なので、今さら必要ない。そう、必要ないはずなのだが……それにもかかわらず、人類は長い歴史の中で死についてあまりに多くの思索を巡らしてきた。宗教を興し、儀式によって死を敬い、さらには創作という土壌で、様々な死についてシミュレーションすることにも余念がない。


参考:イスラエル映画『ハッピーエンドの選び方』冒頭映像が公開 “神様と話せる電話機”が登場


 大袈裟に言ってしまえば、文学であれ、舞台であれ、音楽であれ、映画であれ、そこに何らかの幕切れがある限り、全ての創作物は死を内包している。我々は死から逃れられない。でもだからこそ、仮に真正面から死について扱った作品と出会った時、私たちはむしろ死から照り返す「生」について意識を巡らすべきなのだろう。イスラエルから届いた『ハッピーエンドの選び方』も、そんなことを思わせる異色の映画だ。


 社会的な基準からすれば問題作、ということになる。舞台は健康的なお年寄りが暮らす高齢者ホーム。発明好きなヨヘスケルも、愛妻と共に快適な毎日を送るここの住民だ。各部屋は割と広く、食事時になれば自ら食堂へ足を運ぶ。外出も自由だし、屋内プールも完備、もちろん家族の来訪も可能なので、空いた時間で孫の面倒を見ることだってできる。しかし、そんな申し分ない毎日を送る彼らも、死だけは制御できない。余命わずかの親友が痛みに苦しんで「もう死なせてくれ」と目の前で懇願しているのに、為す術もなく見ているしかないのだ。


 親友の苦しみを楽にしてやろうと、ヨヘスケルはひとつの発明をする。それは自らの意志でスイッチを押すことによってその1分後には死をもたらす点滴が流れ込むという装置。これによって親友は自らスイッチを押し、苦しみを引きずることなく、ホッとした表情であの世へと旅立っていった。


 一連の計画に協力した仲間たちはその帰り道、為すべきことをしたという気持ちと、親友との別れの悲しみとが相まって、複雑な気持ちに包まれていた。実践はこれきりのはずだった。しかし噂は瞬く間に広がっていく。彼らの元には「パートナーを楽にさせてやってくれ」という安楽死の相談が相次ぐことに。とんだことになってしまったと思いながら、彼らは止むに止まれず、新たな決断を下す。そんな中、ヨヘスケルの身辺にも大きな変化が。愛妻が次第に認知症の度合いを強めていき……。


 終末医療をめぐる映画としては、近年でもフランス映画に『母の身終い』という衝撃的な映画があった。末期癌を患った主人公の母親が、息子に付き添われてスイスの施設を訪れ、そこで静かな死を迎える姿は不気味なほどの透明感に満ちたものだった。それに比べると、『ハッピーエンドの選び方』は時にコミカルに、そして時に身を切るほどの悲哀を込めて人生の最終章における悲喜劇を描き出す。


 そこでやはり焦点となるのは、「誰が死を制御するのか」といった命題に尽きるのだろう。あるいは「死は誰のものか」と言い換えてもいい。人は誰もが自分の意志とは半ば関係なく生まれてくるものだ。そして自らの生き方、人生に関しては幾らか制御が効いたとしても、今際の時に関してはやはり自分の意志とは関係なく、制御が効かない。いわば「あちら側」の都合に合わせるしか術がないというか。


 本作はそこにまずメスを入れて、末期医療の限界を提示しながら「自分の手で死を制御する」という場面を描き出す。ヨヘスケルたちはこの価値観を実践すべく、仲間のためを思って右へ左へと奔走するわけだ。ここでヨヘスケルの“発明家”という役回りがキャラクターを肉付けする。彼は何も宗教家でも医師でも道徳心に厚い人というわけでもない、ごく普通の人。それも周囲の人々の暮らしを便利にするため、ちょっとした改良を施すことに喜びを感じているだけなのだ。


 ここからもわかる。シャロン・マイモンとタル・グラニットという本作の監督を担った2人は、何も安楽死が正しいと一方的に主張したいわけではなさそうだ。彼らの本意は「問題提起」。それゆえ決して安楽死を美化することもない。老人チームの内部では様々な疑心暗鬼が生じるし、彼らは次第に思い悩み、価値観の衝突を生むことにもつながっていく。


 それに本作は「死は神から与えたもうもの」とする古来からの考え方も否定することはない。例えば、イスラエル特有の社会共同体“キブツ”で最期を迎えようとしている老婆が、安楽死を迎えようと何度もスイッチを押すも、その度にブレーカーが落ちてしまう顛末は、それでも死は制御できないとする考え方を暗に示したものと言えるだろう。


 そしてクライマックスで本作は、さらに色調を変化させていく。最初は終末医療にまつわる死を扱っていたのが、その「ゴールライン」を更に迫り出させるそぶりを見せるのである。中にはそれとこれとは話が違うと批判的に見る人もいるかもしれない。おそらく批判を覚悟で、作り手たちはこの問題に切り込んでいる。


 果たして「その人らしい生き方」とは一体何なのだろうか。かくも難しい題材を扱った問題作ながら、これに果敢に挑んだイスラエルの名優たちが魅せる。彼らはいぶし銀の存在感を放つのみならず、必要とあればどんな芝居の引き出しだって開ける。恐れ知らずの、とんだ度胸の持ち主たちだ。上にこんな彼らがつかえているのでは、イスラエルの若手俳優たちは光の当たる順番がなかなか回ってこなくて本当に苦労することだろう。死という深刻な、かつ神妙な題材をこれほど明るく朗らかに提示して見せたのも、彼らのチームワークのなせる業だ。


 日本で暮らしていると、お目にかかる機会の少ないイスラエル映画。この機にスクリーンを介してかの国に飛び込み、宗教や文化を超えたところにある生死の価値観について、一緒に考えてみてはいかがだろうか。(牛津厚信)