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はっぴいえんど、ユーミン、サザン……萩原健太に訊く、70年代に“偉大な才能”が多数登場した背景

2015年12月06日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

萩原健太『70年代シティ・ポップ・クロニクル』(ele-king books)

 音楽評論家・萩原健太氏が、1970年代の日本のポップミュージックを15枚の歴史的名盤とともに振り返った書籍『70年代シティ・ポップ・クロニクル』を去る8月に刊行した。同著で萩原氏は、1971年から75年までを“日本のポップ史上における濃密な5年間”と位置づけ、はっぴいえんどや荒井由実、吉田美奈子といった若き音楽家たちがいかにして名盤を生み出していったかを、自身の音楽体験を交えながら綴っている。なぜこの時代に卓越したセンスを持つ音楽家がこぞって登場したのだろうか。リアルサウンドではその理由を掘り下げるべく萩原氏にインタビューを行い、同時代の洋楽との関わりを軸に、現在の音楽シーンへの影響も含めて語ってもらった。


・「世代によって濃密な5年間は違う時間軸で存在している」


――『70年代シティ・ポップ・クロニクル』と、書名には“シティ・ポップ”という言葉が入っていますが、文中には出てきません。タイトルは編集を担当されたele-kingの野田努さんや三田格さんが、本書の趣旨をわかりやすく伝えるために付けたものなのでしょうか。


萩原:そうです(笑)。僕らにとって“シティ・ポップ”というのは、70年代より後から生まれた言葉であって。とは言え、松本隆さんはすでにはっぴいえんどのアルバムで「風街」という言葉を使っているし(1971年『風街ろまん』)、事務所の名前が「風都市」ということも含め、“都市音楽”という言葉自体は当時からキーワードとしてよく使われていました。この時は「(東京という)都市として機能している場所で聴かれるための音楽」というイメージで、今のような形で使われ始めたのは、80年代に入ってからじゃないかと。


――80年代というと、どのあたりでしょうか?


萩原:例えば、鈴木英人さんの描く『FM STATION』の表紙や、山下達郎さんの『FOR YOU』(82年)、大瀧詠一さんの『EACH TIME』(84年)に書かれている街並みといいますか。そういうものから受け取った都市のイメージにあこがれを抱きながら、地元の風景を頭のなかで再構築して、少しいいものにする……という。汚い6畳間に『A LONG VACATION』(81年/大滝詠一)のスダレみたいなものをかけていた人、多かったじゃないですか(笑)。そういう、今考えると少し気恥ずかしいような、ある種のリゾート感を伴った“都市幻想”に彩られていたころの音楽という感じはしますね。ただ、70年代から「都市の文化は、ドメスティックでアーシーな文化に比べて脆弱だ」という評価も少なからずありました。


――実際、萩原さんの周囲でもそうした傾向があったことは同著にも記されていますね。


萩原:アーシーでカッコいい関西ブルースのブームもあったし、そのなかで――この本で挙げた例で言うと、シュガー・ベイブのように洗練されたコード進行と、一人称を曖昧にした夢の世界のような歌詞を提示することは、すごく怖いことだったと思う。だけど、自分たちはそういうものを作りたい。それを「都市音楽」と言う時には、ちょっとした覚悟があった感じがします。そうしてシーンが切り拓かれて、さらに達郎さんや大瀧さんが1979年~81年ごろに大ヒットして、ある意味で“結実”した。その上にわりと楽に乗っかって生まれたものをシティ・ポップと呼んでいた、というイメージもあるんです(笑)。


――今回の本で取り上げているのは、まさに新しい音楽が実を結ぶまでの過程ですね。萩原さんは特に1971~75年を“特別な時間”として取り上げています。


萩原:もちろん、世代によって濃密な5年間は違う時間軸で存在していると思います。ただ、この職業を続けてきて、日本の音楽シーンというものを俯瞰して見ることができるようになった現在でも、あの5年間はとてつもなく濃かった気がする。その時代に高校~大学の時期を過ごせたのは幸運でしたね。基本的に僕は洋楽ファンで、それと同列に聴ける日本の音楽を探していました。今のように来日アーティストも多くなかったし、映像も少なかったから、場を共有して一つの音楽を分かち合いたいという気持ちも強かったですね。


――同時期の洋楽としてはヴァン・ダイク・パークスやトム・ウェイツの名前を挙げられていますが、当時リスナーとしてはどんなものを聴いていましたか。


萩原:ビーチ・ボーイズが一番好きで、ほかにはジェイムズ・テイラーやニール・ヤング、ジャクソン・ブラウン、ローラ・ニーロなどを聴いていました。僕にとってビーチ・ボーイズと並ぶくらい影響が大きかったのは、この時期だったら(ハリー・)ニルソン。後のアルバムで“心の底ではロックなんて嫌いだ”と歌っていたりもして、単なるフォーマットとしてありがちなロックではなく、“狭間”のようなところでいろいろな音楽を作っている人たちを追いかけていました。


――日本における洋楽では、どちらかというとレッド・ツェッペリンなど、ブリティッシュ系のハードロックが人気だった時代ですね。


萩原:高校時代だと、だいたい一学年に5人は“リッチー・ブラックモア”がいました(笑)。ハードロックやブルースロックが人気で、学園祭は激しいバンドばかり。音楽好きでも、ポップミュージックの範疇でアコースティックギターを弾いているような人たちはあまりいませんでした。だから、基本は自宅に帰って一人でレコードを聴き入る感じ。ビーチ・ボーイズを広めようと頑張ってみたものの、周りの反応は鈍かったですね。


――その状況が変わったのは大学時代だそうですね。


萩原:大学になると、いろいろな地域から学生が集まってくるので、趣味の合うやつが出てきて、違う広がり方をしました。僕は1974年に大学に入ったのですが、時期もよかったですね。翌75年に前出のシュガー・ベイブがデビューしたし、ティン・パン・アレー(細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆で結成されたユニット)の人たちは、雲の上のような存在として、すでに活躍していた。そのメンバーがだいたい寡黙だったから、自分もアマチュアバンドでちょっと斜に構えて演奏したり(笑)。


――名前の挙がるアーティストを見ると、1945年から50年くらいまでに生まれた方が多いですね。なぜこの世代から、一挙に若く才能あるミュージシャンが出てきたとお考えですか。


萩原:この世代でようやく“どういう風に作っているか”がわかったと思うんです。50年代にロックが日本に上陸しましたが、グルーヴや魅力の本質というものは捉えきれていなかった。実際、当時はハワイアンやカントリーも含めて、外国の音楽がすべて「ジャズ」と言われていたようなところがありましたから。そんな文脈でロックンロールに接していたから、“こなしきれない”ような感覚があったと思うんです。GSなんかもそうですね。多くの人がビートルズを目指したけれど、グルーヴも機材のこともわかっていなかった。当時の日本にはエレキギターの弦もレギュラーゲージしかなくて、ベンチャーズをコピーしようとしても「なんであんな簡単にチョーキングができるんだ!」と理解できなかったようですから。そういう世代と、子どものころからビートルズに接していた人たちでは、音楽の捉え方が決定的に違う。8ビートにどうノッていいのか、という理解が進んだ世代がようやく花開くのが、69~70年ごろだったと思います。


――なるほど。著書では、その代表格としてはっぴいえんどを挙げられています。


萩原:彼らはこの時期にようやく日本で始まった多重録音を使い、1973年にロサンゼルスでレコーディングを行って、大瀧さんは現地のエンジニアとずいぶん話し込んだようです。そこでさまざまなノウハウが日本に持ち帰られて、レコーディング技術が大きく飛躍しました。きっと、この世代の人たちは楽しくて仕方がなかったでしょうね。スタジオミュージシャンについても理解が広がり、「チャック・レイニーがスゴい!」みたいな話にもなって。細野さんのベースはまさにレイニーのスタイルでしたね。彼らが吸収したものを即座にリスナーに提示し、リスナーが育っていく時代でもありました。マーケット自体は大きくありませんでしたが、ミュージシャンとリスナーが近く、シャープなやり取りをしていた印象です。


・「みんなが遊び心を発揮して、実験をすることが許された環境だった」


――そのなかで本書では、日本語の歌に質的な変化をもたらした存在として、矢沢永吉さん、サザンオールスターズ、はっぴいえんどを紹介しています。サウンドの変化に付随して、言葉の使い方が変わっていったということでしょうか。


萩原:例えば、ドメスティックな言語のあり方が音楽を引っ張っていくということがあります。日本語だったら七五調が強かったりして、そうすると音楽も、どうしても慣れ親しんだグルーヴになっていく。そういう意味で、「日本語の構造や言葉の響きに引っ張られなければ、それまでの日本になかったような形でメロディーを躍動させられるんじゃないか」と考える人が続々出てきたんです。その代表格が彼らということですね。コニー・フランシスが自身の曲を日本語で歌う時のような感じで、片言っぽい日本語が妙にカッコよく、新鮮に感じました。訳詞ポップスにあったものが、大瀧さん、矢沢さん、そして最終的に桑田(佳祐)の歌い方になっていく。日本語を英語のように聴かせるような歌い方で、これまでの日本人が手に入れることができなかった海外のビートやグルーヴ、メロディー感覚を獲得していったんです。現在では、ラッパーたちが日本語で押韻することを当たり前に考えているし、正しいやり方だったと思います。


 例えば、はっぴいえんどが71年に「はいからはくち」という曲を発表しましたが、言葉としては“はいからは/くっち”という歌い方でした。“日本語の美しさはどこに行ったんだ! 嘆かわしい!”みたいな人もいましたが、“くっち くっち”という耳慣れない響きが何とも楽しかった。もちろん、言葉の面白さだけだったら、意味のない言葉の羅列や英語で歌えばいい、という話にもなりますが、松本隆さんなどはそこにきちんと意味を乗せるという作詞家の素晴らしい仕事を見せてくれましたね。


――実験的な表現に合わせて、しっかりと意味のある言葉を載せる作詞家も生まれてきたわけですね。


萩原:大瀧さんは、へんな区切りの歌い方をしますが、歌詞を見るときちんと世界観が伝わってくる。また、サウンドはカントリーっぽいのにものすごく都会的な内容のことを歌っていたり、過去の東京と現在の東京の二重構造を使ったりと、非常に実験的な歌詞を書いていました。このように、ポップスというフィールドの上で、みんなが遊び心を発揮して、実験をすることが許された環境だったんです。「もともと大して売れていないし、やろうがやるまいが売れ行きには関係ないだろう」という開き直りもあったと思います(笑)。


 ただ、75年くらいになると同じ人脈から荒井由実(松任谷由実)などがかなりヒットして、「売れないとマズイんじゃないの?」という話に少しずつ変わってくる。そうした手前までが、本当に幸福な時期だったと思います。彼らは売れていないからテレビには出られなかったけど、この時期に始まったFMラジオが若い人たちをドンドン紹介していました。


――ターニングポイントはユーミンだったと。


萩原:そうですね。1975年、『ルージュの伝言』『あの日にかえりたい』とヒットシングルが続いた後に出たアルバム『COBALT HOUR』が分岐点でしょう。ここから“ニューミュージック”という呼称が一般的に使われ始めて、従来の歌謡曲ではないところに面白い音楽がある、という空気が広まり始めました。


――その流れでいうと、本書で取り上げられた音楽家のなかで、加藤和彦(ザ・フォーク・クルセダーズ/サディスティック・ミカ・バンドなど)さんは異質な存在といえそうです。


萩原:僕が追いかけていたのは、そう呼ばれるのを嫌がった人を含めて“ティン・パン系”と呼ばれていたものですが、加藤さんはそのシーンではなく、関西フォークから来た人で。影響を受けたというドノヴァン・フィリップス・レイッチにちなんで“トノパン”なんて呼ばれていました。1971年の『スーパーガス』にはジェイムズ・テイラーのオマージュのような曲なんかもあったりして、「次にこのサウンドが来る」という紹介者として多大なる功績を遺したと思います。そのうえであの人の困ったところは、その都度いろんなジャンルのロックをやって、前のものをどんどん捨てていくこと。“廃仏毀釈”の精神というか、以前のものを引きずらす、常に新しいものを追いかけていて、移り気な女の子みたいだったんですよね(笑)。


――そんな活動の仕方が、かえって若い世代に訴求したともいえますね。


萩原:そういうところも含めて、加藤さんはスタイリッシュでカッコいい方でした。ほかにも、彼の友人である音楽評論家の今野雄二さんらがオピニオンリーダーとして新しいものを提示してくれていて、オーガナイザーとしてもありがたい存在でした。


――70年代前半に登場した世代には、プレイヤーとして後世に影響を与えた人も多いですね。その背景とは?


萩原:それまではリードギター、例えばベンチャーズのノーキー・エドワーズを目指す人ばかりだったのに、細野さんや後藤次利さんのようなベーシストに憧れる人が出てきたり。それまでは、ベースなんて、じゃんけんで負けたやつがやるという時代でしたから(笑)。でも、後藤さんのテクニックを目の当たりにして、それに憧れる若者が増えたんです。浜口茂外也さんや斉藤ノブさんの影響でパーカッショニストも増え始めましたし、松任谷正隆さんや佐藤博さんの活躍も、日本にキーボードプレイヤーが増えた要因でしょう。本で紹介しているように、この世代のミュージシャンたちが、日本の音楽シーンを広げてくれた。その功績は、リスナーを育てて音楽の裾野を広げたということだけではなくて、後続のミュージシャンを育てたことも大きかったんです。


・「サザンを何かの始まりと捉えることもできる」


――本書の最後には、サザンオールスターズについての一章が置かれています。萩原さんも一時在籍していた、というエピソードもありますが、これまでお話いただいた文脈のなかで、彼らはどんな存在でしょうか。


萩原:桑田はこのあたりの動きにはあまり反応していなかったみたいですね。どこかで聴いていたかもしれないけれど、ティン・パン系に憧れているような感じではなかった。ただ、歌謡曲や洋楽ポップスが好きでしたし、実家がバーを経営していたということもあって水っぽいムード歌謡なんかも聴いていたようです。当時はある意味マニアックなことをやっていた人だったので、そこまで売れないだろうなと思ってたんですけど(笑)。でも、彼らが今いる立ち位置は、やってきたことを考えれば当然の結果だと思うし、彼もどんどん成長して、さらにすごいミュージシャンになっている。そういう意味で、サザンを何かの始まりと捉えることもできるでしょうから、この本を彼らで終わらせていいのか、という迷いはありましたが。


――1990年代以降は、はっぴいえんど周辺の音楽を研究した若い世代が台頭し始めましたが、これについてはどう捉えられているのでしょうか。


萩原:“フォーマットとしてのはっぴいえんどの空気感”に魅力的を感じる人が多いのかもしれないですね。例えばサニーデイ・サービスやceroは、はっぴいえんど的な空気感は持っていても、それぞれにオリジナリティがあって違う方向へ踏み出しています。「はっぴいえんど」的な存在感というのは、もしかしたら僕が知らないようなジャンルの狭間に今も潜んでいるのかもしれない。音響面の部分では、はっぴいえんど周辺の“何か足りないのに、その空気の中で十分に何かが充満している感じ”を出す人たちが減ってきました。いろいろな技術が発達してくると、音像は基本的に塗り込められてくるもので、コンプでぐっと圧縮されたものが増えてきますから。だからこそ、それを再現したいと思うようなバンドが隙間に登場して、時代の空気と相まってまた新しいものが生まれてくる。


――はっぴいえんどを参照しつつ、新しい音を模索する動きは今後も出てくると?


萩原:今はまた時代がいろいろと変わってきて、ライブ全盛期みたいな見方はありますが、何かを作り上げるという意味で最初の基礎を作ったのは、いろいろな意味でやはりはっぴいえんどだったと思います。迷ったとき、アメリカならエルビス・プレスリーやスティーブン・フォスターに立ち返ったりしますが、日本だとそれははっぴいえんどといっても過言ではないでしょう。そこをリアルタイムに体験できた人間としては、「間に合ってよかった」という感覚ですね。


――それを記録しておきたいというのも、今回この本を執筆された理由なのでしょうか。


萩原:いえ、そんな大層な理由じゃなくて、野田さんが「その話、面白いですよ」といってくれたから(笑)。書き終えてみて、それが多少なりとも他の世代の人でも「ああ、なるほど、こういう音楽との接し方もあるのかな」という気持ちになってくれるような本になればいいかな、とは思っているんですけどね。


(取材=神谷弘一/構成=橋川良寛)