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なぜ無名女性たちの演技が国際的評価を得た? 『ハッピーアワー』監督が語る“傾聴”の演技論

2015年12月05日 07:11  リアルサウンド

リアルサウンド

©2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

 今年8月、スイス・ティチーノ州で開催された第68回ロカルノ国際映画祭のインターナショナル・コンペティション部門で、4人の女性が日本人として初めて最優秀女優賞の栄冠に輝いた。5時間17分の大作となった受賞作『ハッピーアワー』の主要キャストである田中幸恵、菊池葉月、三原麻衣子、川村りらは、ともに演技未経験者で普段は別の仕事を持つ一般女性だ。同作の監督を務めたのは、『不気味なものの肌に触れる』などの作品で知られる濱口竜介監督。それぞれに切実な悩みを抱える30代後半の女性4人の人間関係を、その日常とともに丁寧に描き出した本作は、なぜ世界的に評価される鮮烈な作品となったのか。濱口監督らが行ったこれまでにない試みと、その独特な演技論について、監督本人に話を聞いた。


参考:深田晃司監督が明かす、『さようなら』で描いた“メメント・モリ”と独自の映画論


■「“聞くこと”のプロフェショナルになることを目指した」


ーー本作に登場するキャストのほとんどは、一般の演技未経験者ということですが、どういった経緯でこうした作品を撮ることになったのでしょう?


濱口:まず初めに、長く時間をかけて映画を作ってみたい、という発想がありました。話を単純化しますけど、そもそも人がなぜパフォーマンスにお金を払うのか、と言えば、それはこれまでの練習や経験を経てパフォーマーの内に凝縮された「長い時間」を観ることに対し、鑑賞者が価値を見出すからです。演劇やコンサートを観て過ごす2時間は、いつもの生活と同じ2時間に違いないけれど、この凝縮によって濃密なものとして感じられるのではないか、と。この理屈を突き詰めると、時間をかければかけるほど、時間が断層的に折り重なったような厚みのある映画が作れるということになります。ものごとはそうは簡単ではないですが、ある程度の規模の商業映画であれば、それぞれ固有の時間を積み重ねてきたプロフェッショナルたちが「自分の時間を持ち寄る」ことによって、観客の耳目に耐える作品を作ることができているのは確かでしょう。しかし僕たちにはそのような対価を払う予算はない。今回の制作は、そんな我々がいかにして、時間をかけた制作を行うことができるかということを考えて、その仕組みづくりから始まりました。


ーーそこで、まずはワークショップを立ち上げるところから始めたわけですね。


濱口:はい、2013年9月から「即興演技ワークショップ in Kobe」という演技のワークショップを神戸で始めました。演技経験を問わずに募集をかけて、実際には50人くらいの人に応募いただいて、その中から10数人を選ぶというかたちでした。そこから5ヶ月間、映画を作ることを前提として、毎週1回のペースでワークショップを続けました。脚本や映画そのものの企画は、2014年くらいから具体化していった感じです。


ーーワークショップではどんなことを?


濱口:「聞く」ことを一貫したテーマとして運営していました。演技のワークショップというと、通常は発声の練習をするとか、脚本を覚えて演じてみるとか、もしくはエチュードというアドリブ芝居をしたりすると思いますが、このワークショップはそういう“表現”をするのではなく、参加者が“聞くこと”のプロフェショナルになることを目指したんです。実際のワークの内容は、それぞれ興味や関心を持っている人たちにインタビューをしにいくとか、著名な人を呼ぶ機会があればトークイベントを開くとか、あとはワークショップの参加者同士がインタビューをしあうとか、そういうことをひたすらやっていました。なぜそうしたかというと、“聞く”という行為は、表現をする人を助けることにつながると考えたからです。すごく単純な話、人は聞かれると話しやすいじゃないですか。「本当にこの人は真摯に自分の話を聞いてくれる」という風に思ってもらえれば、話し手は「この人になら、あれも話してもいいかもしれない、このことも話してもいいかもしれない」となるかもしれないし、場合によっては深い沈黙の時間を一緒に過ごすこともできるかもしれない。表現が生まれることを助けるために、“聞く”ということをみんなでやってみよう、と。あくまで人の表現を引き出す側に立って、自分の表現は人に引き出してもらう、そういう互いに「聞き合う」関係性を構築するのを目指して、いわゆる演技のレッスンはほぼ行いませんでした。


ーー自ら演じようとするのではなく、お互いの表現を引き出しあうことに力を注いだ、と。それが、ふと気づいたら映画の世界に引き込まれてしまうような、自然な演技に繋がったということでしょうか?


濱口:ロカルノ国際映画祭の授賞式で、あかり役を演じた田中幸恵さんだけでなく、4人全員が「これはみんなでもらった賞なんだ」ということを言っていました。自分で演じたという感覚はほとんど無くて、演者のみんながいて、それぞれの台詞や振る舞いがあって、互いにそれに応え合ったんではないかと思います。たぶん、本当にそういう感覚だったんだな、と田中さんや他の人たちのコメントも聞いていて、思いました。


■「生きづらさを抱えているというのは、もっとも必要な素養でもありました」


ーー主演の4人は、どういった基準で選定したのですか。


濱口:50人の応募者の中から17人の出演者を選んだのですが、この時点で全員が魅力的な人たちで、誰が主役になっても良いと思っていました。ワークショップの選考に残った人たちは、皆何がしかの「生きづらさ」を抱えているように見えました。結局のところ、周りに合わせて自分を変えることができない人、ということです。そういう人が社会の中で自分を素直に表現することは難しいことです。もしかしたら、他人との間で軋轢を生むこともあるかもしれない。でも、そういう意味での生きづらさを抱えているというのは、今回のワークショップで目指された演技において、もっとも必要な素養でもありました。なにかを忖度して、器用に振る舞いを変えられるようなタイプではない、ということが重要だったんです。そういう人が揃いました。本当に誰が主役になってもいいと思っていた。それで、20代の男女がメインになる話と、30代の男女がメインになる話、30代の女性4人がメインになる話という風に、3本の脚本を書いてみて、スタッフで話し合った結果、最終的に『ハッピーアワー』の基となった30代の女性4人がメインとなる脚本を選びました。今の日本において、同年代の女性が置かれている状況においては、先程言ったような「生きづらさ」がより強調されるように思いました。だからこそ彼女たちにこの映画制作の中心になってもらおうと考えました。


ーー実際、“生きづらさ”というのは本作のテーマのひとつにもなっていますね。生きづらい人たちだからこそ、引き出される表現に説得力が宿っていたように思います。


濱口:そうですね。そういう人たちが生きていくうえで必要な映画になるといいな、とも考えていました。生きづらさにしっかりと向き合うことは、自分の中の決して否定できないような自分をみつけることです。それを生きる力に変えていけるような作品にしたいと思いました。


ーーしかし、彼女たちの演技は感情を露わにするような、派手なものではないですよね。むしろ、抑揚をあまり付けずに朴訥と話しているのが印象的でした。


濱口:撮影の前にみんなで台本を読み、台詞を覚える時間を取ったのですが、そのときにはニュアンスやイントネーションをひたすら排除して読んでもらうようにしました。感情を入れずに文字面だけを読むーーいわゆる“棒読み”のような感じでずっと読んでもらって、ある程度覚えたら台本を伏せて、また読んで、伏せてを繰り返して。そうやって覚えていって、読んでいるときと伏せているときの区別がつかなくなるくらいになったら現場に入る、という感じです。完全に“テキストが体に馴染んだ”状態で現場に入ってもらって、相手の話をしっかりと聞き、それに対して台詞を返してもらうイメージですね。その時に、なにか自分の中に入ってくるニュアンスがあるなら、それは拒まなくても良いけれど、ただ余計なものは付け加えないでほしい、という風にお願いしていました。それがときに、仰っている朴訥とした印象になるのかもしれません。


ーーそこにはどういった意図が?


濱口:そうすることによって、テキストそのものに寄り添った発声や台詞になると考えたからです。テキストにはやはり意味があるので、楽しげな台詞には楽しげなニュアンスが、人を傷つけるような言葉には攻撃的なニュアンスが含まれます。それはきちんと聞かれれば、それの意味する通りに演者の身体に影響を与えます。その影響を、各演者の間で相互に与え合っている状態、というのが現場で生まれたとしたら、そこにあえて作り込まれた演技を付け足す必要はないという考え方です。その人に、その人のまま、その場にいてもらうことをお願いしました。


■「ニュアンスを排除して台詞と向き合わないと、過去の表現の再現に陥る」


ーー劇中で行われていた朗読会のシーンで、椎橋怜奈さん演じる小説家・こずえも、「抑揚をつけずに朗読したとしても、テキストそのものの意味はちゃんと立ち上がる」という趣旨の発言をしていました。本作全体にも通じる方法論かと思いましたが、これは濱口監督独自のものなのですか?


濱口:この方法論自体はすでにあるもので、僕が始めたわけではありません。フランスの映画監督であるジャン・ルノワールが、『ジャン・ルノワールの演技指導』というドキュメンタリー映画で彼自身が解説しているのですが「演者が台本を一読して膨らませた演技は、紋切り型にとどまる」というんです。ニュアンスを徹底的に排除した状態で台詞と向き合わないと、簡単に「こういう感じにするとリアルかな」と演者の記憶から引き出した、過去の表現の再現に陥ってしまう、と。だから、何度も台詞を読み込んで、テキストそのものに固有の言い方を教えてもらう必要があるというんですね。今回、僕が採った方法論は、まるまるルノワールの方法論と重なるものではないですが、実践して、仕上がった映像を観て、ジャン・ルノワールの言っていたことは、やはり本当だったのかな、と思いました。


ーー今作にはものすごく長いシーンがあって、たとえば前半で主人公たちが「重心」というワークショップに参加する箇所などは、ほとんどドキュメンタリーといって良いほど、ワークショップの内容を丸ごと撮っています。しかし、冗長な感じはなく、むしろ一緒に参加しているような心地良さがありました。


濱口:いったいどうやって役者さんに台詞を言ってもらえばよいのか、というのは常に悩ましいことです。ただ今回は僕自身、とても心地よさを感じながら彼女たちの演技を観ることができました。ある程度の長さのあるシーンを、心地よく観ていられるということ、「嫌ではない」ということは、実はすごいことで、僕もあまり経験したことがありません。どんな映画でも、終盤やクライマックス、自然に感情が高ぶってきて、役者自身が真実味を感じながら演じているような場面というのはあります。それはある程度観ていられることもあります。ただ、なにげない日常のシーンをずっと観ていられるというのは、とても新鮮でした。


ーー今作は脚本も非常に凝っていますね。ある物語の定型に沿っているという感じがまったくなくて、まるで現実のように先の展開が読めません。偶然に偶然が重なって物事が進行しているように見えましたが、こうした脚本はどのように作っていったのですか?


濱口:ワークショップでできた初稿の段階では、非常にドラマチックな脚本だったのですが、それを演技未経験の人たちで映画化するのは無理だと判断して、演者に沿って改稿を重ねるという方法を採りました。ただ、単に演者に寄り添うだけでドラマチックな展開を排除していくと、それはそれでつまらない作品になってしまう。だから、撮影をして微妙なさじ加減を見極めながら、即興的に改稿をしていくというかたちになったんです。この時点では、こういう演技はできなかったかもしれないけれど、ある程度撮影が進んだ今なら、キャラクターも馴染んで演じられるんじゃないかとか、脚本と演者とが少しずつせめぎ合いながら撮影が進む感じです。脚本には、ドラマを展開させるための台詞というものがあるのですけれど、それを職業俳優ではない人が口にしても、観客が信じるレベルには達しないと思います。だから、観客が「この人ならこういうことを言うだろう」と信じられる台詞だけを使って、ほんの僅かでもドラマを展開できるように調整していくわけです。


ーーすごく時間がかかりそうですね。


濱口:そうですね。最終的に目指している劇的な状況はあるんですけれど、この登場人物がその台詞をリアルに口にするためには、どういう状況なら可能か、どんな問いかけが必要か、ということを考えながら進めていったら、最終的にこんなに長い脚本になってしまいました(笑)。


ーーもともと、これほど長尺の作品にしようという意図はなかったんですか?


濱口:まったくないですね。本当は2時間とか3時間という、興行の標準的なラインになんとか乗せたいと思っていたんです。でも、実際に3時間20分くらいに編集したものを観たら、この映画に引かれていたはずの感情のラインがまったく見えなくなっていました。先ほど時間の積み重ねの話をしましたけれど、この作品は短く編集することでそれが失われてしまうように思えました。最終的に、キャラクターと演者の魅力が最も伝わる形は、この5時間17分という尺がベストだと判断しました。今回の制作方法で、なにかしら人の感情を繋ぎ止める、または巻き込んでいくためには、これくらいの長さになることが必然だったということかもしれません。


ーーいわゆる一般的な映画とは、そういう部分でも大きく異なっていますよね。今作を観て、映画とはいったい何だろう?ということを改めて考えさせられました。


濱口:そういう風に観ていただいて、すごく嬉しいです。僕はジョン・カサヴェテスという映画監督がとても好きなんですけど、彼の映画『ハズバンズ』を観たときに、「人生そのものが映っている」という感じがして、すごく衝撃を受けたんです。40歳くらいのアメリカのおじさんたちがじゃれ合っているような映画なんですけれど、当時、二十歳そこそこだった僕が観ても、「これこそが人生なんだ」と思わせる作品でした。この作品との出会いが映画を仕事にしようと志すきっかけとなり、僕は映画作りを学ぶことになるんですけど、しかし映画を撮るための一般的な方法論ーー脚本があって、カット割りがあってーーというある種の段取りを学べば学ぶほど、「もしかしたらジョン・カサヴェテスの映画は、そもそも映画ではないのかもしれない」と考えるようになりました。だとすれば、ジョン・カサヴェテスの作品に影響を受けた自分が目指すものは、必ずしも映画ではないという気もします。『ハッピーアワー』では、映画というものに一本軸足を置いていますから、まだ「映画ならざるもの」までいくことができたという感じはしないのですが、観た方に映画を踏み越えたなにかを感じてもらえたのなら、それは実はとてもありがたいことだと思っています。(松田広宣)