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竹原ピストルは退路を断って歌い続けるーー兵庫慎司が最新作『youth』の切迫感を読み解く

2015年11月30日 14:11  リアルサウンド

リアルサウンド

竹原ピストル

 ひとりでギター1本持って、もしくは少人数のアコースティック編成で、その土地の代表的な(つまりキャパが大きめな)ライブハウスではなく、カフェやステージのある飲み屋みたいな店を中心に、全国を回るアーティストが増えている。ちゃんと数えたり統計をとったりしたわけではないので、単に自分が知っている範囲にそういう人が多いだけなのかもしれないが、以前と比べると増えている気がする。


 たとえば90年代から00年代にかけて、遠藤ミチロウはひとりですさまじい本数のツアーを行っていたし、60歳前後を境に年間60本以上のライブを行うようになった仲井戸麗市もそうだし、近藤房之助や憂歌団の木村充揮・内田勘太郎といった関西勢はずっとそういう活動形態だし、SIONもそうだと言ってもいいかもしれない。とにかく、アコースティック系やブルース系のベテラン・アーティストでそういうツアーをやっている人は昔からいたが、ここ数年で、その次の世代にあたるアーティストたちの何人もが、そういう活動に身を投じ始めているように思う。


 自身のレーベルROSE RECORDSを立ち上げて以降、普段のバンドでの活動と並行して、あちこちで弾き語りを行うようになった曽我部恵一あたりが、その走りかもしれない。たとえば、2011年にエイベックスから離脱し、メジャーデビュー前に行っていたそうした活動に戻ったCaravan。たとえば、時にはひとりで、時にはサニーデイ・サービス田中貴やNORTHERN BRIGHTの盟友原秀樹と共に、日本中を回っている新井仁。浜崎貴司も弾き語りで各地に行っているし、アナログフィッシュの佐々木健太郎やセカイイチ岩崎慧もそうだし、ウルフルズ活動休止後にひとりツアーを始めたウルフルケイスケは、バンドが再始動してもそれを続けている。


 そして、中には、メジャーから離れてひとりで日本中を回る活動を何年も続けているうちに、再びオーバーグラウンドに浮上するきっかけをつかむ、というケースもある。現在、住友生命のCMで、11月25日リリースのニューアルバム『youth』収録曲である「よー、そこの若いの」が大量オンエアされている竹原ピストルがそうだ。


 濱埜宏哉とのふたりユニット=野狐禅でオフィスオーガスタ&スピードスターレコードと契約、2003年にメジャーデビュー。しかし2007年にオーガスタ&スピードスターとの契約を終え、独立。当時、レーベルの彼らの宣伝担当にきいた話だと、切られたのではなく「全部自分たちでやりたい」と望んだ結果だそうだが、その2年後の2009年に解散。ソロ・アーティストとなった竹原ピストルはひとりで全国を回り始め、やがてそれは年間250本から300本というとんでもない数になっていく。


 そのような活動を7年続けた末、2014年にオーガスタから「また一緒にやらないか」と声がかかって再契約、10月に野狐禅と同じスピードスターからアルバム『BEST BOUT』をリリース。各地のフェス等にも出演するなど、チャンスは広がるが、彼はそれまでの、「日常イコールひとりツアー」な生活をリセットしなかった。


 今年2015年も、ソロや武田英祐一とのユニットDARUMA brothersなどでひたすらライブ、そして2016年に入ると、1月15日下北沢440から始まり10月8日・9日に東京・キネマ倶楽部でファイナルを迎える、なんと112本の『youth』リリースツアーが控えている! ……と、びっくりしたいところだが、年内も大して変わらないペースで各地を飛び回っているので、もはやどこまでがツアーじゃなくてどこからがツアーなのかわからない状態だ。


 ただし。オーガスタが再び彼に声をかけたのは、彼の歌が、ライブ・パフォーマンスが、衰えていなかったのではなく、よくなっていたからではないかと思う。それが表れているのが前作『BEST BOUT』であり、今作『youth』だ。もともとわかりにくいことを歌う人ではないが、何を言いたいか、何を伝えたいかがよりいっそう明快で、あいまいなところが一ヵ所もない作品になっている。というのが、それだけの数のライブを全国で行ってきたことと、無関係なわけはないだろう。スタジオでリハを数十回やるよりも、一回客前でやった方がアーティストは鍛えられる。当然そうだが、それを年に250回以上やる生活を何年も続けているんだから、当然……いや、当然じゃないな。「心が折れない限り」という但し書き付きだが、そりゃあ鍛えられるだろう。


 『youth』の中の曲たちでは、ライブハウスへの愛着も歌われているが、同時に、それだけで充足感を得てはいけないし得られるものでもない、ということも歌われている。リード曲はさっき挙げた「よー、そこの若いの」と、松居大悟監督がMVを撮ったタイトル・チューンだが、「石ころみたいにひとりぼっちで、命の底から駆け抜けるんだ」や「午前2時 私は今 自画像に描かれた自画像」もすさまじい。「石ころみたいにひとりぼっちで、命の底から駆け抜けるんだ」では、自分はなぜそのような「日常がひとりツアー」な生活を続けているのか、何を考えているのか、何が望みなのか、どうなりたいのか、それはなぜなのか、などを、「独白する」というよりも、「自分で自分に言及して自分を追いつめていく」みたいなテンションで吐き出している。「午前2時 私は今 自画像に描かれた自画像」はツアー生活云々ではなく、自身の生き方についての歌だが、やはり自分の考えや感情を言葉にすることで、どんどん自分を追い込んでいくリリックだ。


 前作の「俺のアディダス」などもそうだが、言葉にして歌うことで自分の立っている場所をあきらかにし、そこから降りたり後退したりすることができないように自分を追い込んでいるフシがこの人の歌にはある。で、その究極のような作品がこの2曲だと言える。「これでいいのか?」「ここでいいのか?」「このくらいでいいのか?」と己に問いかけ、「よくない」と結論づけ、「殻をぶち破りたい」「外に出たい」「まだ見ぬものを見たいし経験したい」「それまでは終われない」「それまでは死ねない」と渇望する。その焦燥が脳から神経を伝って両腕に下りて書かせたような言葉が並んでいる。


 そんな生活を何年も続けていたら、そこまで自問自答せざるを得なくなるものなのか、もともとそこまで自問自答せざるを得ない人だからそんな生活をしているのか、どちらなのかはわからないが、聴き手をその自問自答に巻き込み、「で、自分はどうなんだっけ」と考えざるを得ない感情を呼び起こさせる力を、今のこの人の歌は持っている。


 彼のように、自分はこんな気持ちでステージに立っている、自分はこんなことを考えながら音楽をやっている、こんなふうに感じながらツアーを行っている、ということを──つまり「歌を歌っていることを歌にする」アーティストは、ほかにもいる。たとえば、ほぼ全曲でそれをやっている極端な例がMOROHAだと思うし(そういえばMOROHAのアフロも竹原ピストルと同じく、メロを辿るというより語るように歌うアーティストだ)、たとえばそれをバンドマン以外も感情移入できるレベルまで普遍化することに成功したのが、フラワーカンパニーズの名曲「深夜高速」だと思う。竹原ピストルの歌も、「徹底的に自分を言及し追いつめ逃げ場をなくし退路を断つ」という方法によって、そのような普遍性を獲得しつつあると思う。(文=兵庫慎司)